バビロニア10周年記念式典
見難い火傷の子357
バビロニア10周年記念式典
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
朝から広場には人が集まっていた。
ハンナは早めに来てよかったと思った。
もう少し遅ければ、こんなに前へは出られなかっただろう。
石畳の上、人の肩の間に立ちながら、ハンナは広場の中央を見る。
国旗掲揚台。
整列する楽団。
そして、広場の端から端まで敷き詰められた人の波。
十年。
本当に、十年が経ったのだ。
思えば、あの頃の広場はこんなものではなかった。
王政が終わり、共和国という言葉がまだ慣れない響きを持っていたあの頃。
この広場に集まった人々の顔は、今とは違う色をしていた。
不安。
期待。
そして、何かが壊れた後の、落ち着かない静けさ。
それだけではない。
あの頃、この街には影があった。
丘の上に、キュロスが来た。
ハンナは今でも覚えている。
あの日の朝の空気を。
街の外れから上がった煙を。
誰かが走りながら叫んでいた声を。
キュロス二世。
大陸を呑み込んできた男が、バビロンの丘に立っていた。
王はもういなかった。
ハンムラビはすでに王権を返上していた。
守ってくれる王も、軍も、盾になるものが何もない状態で、この街はあの男の眼下に晒された。
終わる、とハンナは思った。
本気でそう思った。
隣で夫が何か言っていた。
まだ小さかったルカを胸に抱いて、どこへ逃げるか考えていた。
逃げ場など、どこにもなかったけれど。
だが、終わらなかった。
今でも詳しいことは知らない。
知っている者が多くないのか、知っていても語らないのか。
ただ、街の中で噂のように伝わっていることがある。
爆炎パーティ、という名前だ。
異国より来た冒険者たち。
名前も、素性も、どこから来たのかもよく分からない者たちが、あの危機に関わったらしい。
どう関わったのか、何をしたのか、ハンナには分からない。
ただ、あの丘のキュロスが退き、街が終わらなかった事実だけが残っている。
あの朝の空気が、今日の広場と繋がっている。
そのことを、今日はなぜかひどくはっきりと感じていた。
「お母さん、まだ始まらないの」
隣でルカが足を揺らす。
十一になった息子だ。
キュロスが丘に立ったあの年に生まれた。
何も知らない子だ。
この国が共和国になって以降しか知らない、何も知らない子だ。
「もうすぐだよ」
ハンナはそう答えながら、息子の肩に手を置いた。
見せておきたかった。
それだけだった。
自分が知っていることを、この子はまだ知らない。
だが今日この場所だけは、一緒に立っておきたかった。
やがて、広場に号令の声が響く。
「国旗掲揚」
たった三文字だった。
だが、その声が届いた瞬間、広場全体の空気が変わった。
さざ波のように静けさが広がる。
誰も命じていないのに、人々が口を閉じ、背筋を伸ばす。
掲揚台のロープが引かれる。
青・白・金の三色旗が、ゆっくりと空へ上がっていく。
ハンナは息を飲んだ。
十年見てきた旗だ。
毎年の記念日にも、役所の前にも、市場の入口にも掲げられている旗だ。
見慣れているはずだった。
なのに今日は、違う。
中央の青銅の円環が、朝の光を受けて鈍く光る。
王冠ではない。
あれは誰かのものではない。
ここにいる全員のものだ。
あの丘で終わっていたら、この旗は存在しなかった。
そのことを、旗が上がるのを見ながら、初めてちゃんと考えた。
旗が上がり始めたのと同時に、広場の端から音がした。
羽音だった。
人化した姿で整列していたハーピーたちが、一羽ずつ、元の姿に戻っていく。
一人が翼を広げる。
次の一人が翼を広げる。
また一人。
また一人。
最初の一羽が地を蹴った。
空へ上がる。
その直後、国立オーケストラの伴奏が静かに始まった。
弦が低く鳴る。
まるで大地が声を出したような音だった。
二羽目が飛ぶ。
三羽目が飛ぶ。
音楽が少しずつ厚みを増す。
ルカが空を見上げたまま口を開けていた。
ハンナは何も言わなかった。
若い翼が、次々と空へ上がっていく。
あの子たちはどこから来たのだろう、とハンナはぼんやりと思った。
ハーピーが人の街で暮らすなど、十年前には想像もしなかった。
共和国が、そういう国になっていた。
異なる力を持つ者たちが、ともに立つ国に。
全員が上空で揃った瞬間、伴奏が大きく変わった。
そして歌が始まった。
最初に聞こえてきたのは、一つの声だった。
高く、透き通る声。
広場の空気を真っ直ぐに切り裂くように伸びる。
次の声が重なる。
また重なる。
また重なる。
四声が揃った時、ハンナの喉が勝手に震えた。
声が重なるとはこういうことか、と思った。
一つの声では届かない場所へ、声が重なることで届く。
四人の声が、広場全体の空気を一枚の布のように包んでいく。
やがて国民への唱和が来た。
周囲の人々が声を出し始める。
隣の老人も、前の若い夫婦も、少し離れた場所の子供たちも。
音は最初バラバラだった。
だが少しずつ揃い、波になり、広場全体を覆う。
ハンナも口を開いた。
声が出るかどうか分からなかった。
喉が変に強張っていた。
それでも、声は出た。
思ったより真っ直ぐに、出た。
隣でルカが歌っているのが分かった。
学校で習ったのだろう。
知っているのだと今更気づく。
ハンナは息子の横顔を見た。
真剣な顔だった。
この子はあの丘のことを知らない。
爆炎パーティという名前も、たぶん知らない。
今日の空が、どれだけの重さの上に成り立っているかも。
だがこの子は、今日この広場で、この歌を歌っている。
それで十分なのかもしれない、とハンナは思った。
次の世代が何も知らずに歌えるなら、それは守られたということだ。
国歌がサビへ差し掛かる頃、空が変わった。
ハーピーたちの編隊が、三層に分かれた。
上の層が青く見えた。
中層が白く揃う。
下層が金色に輝く。
三色の層が、ゆっくりと空に旗を描く。
青。
白。
金。
それが揃った瞬間、中央の群れが円を描き始めた。
大きな、崩れない円。
青銅の円環だ。
広場が沸いた。
あちこちから声が上がる。
泣いている者もいた。
笑っている者もいた。
ただ空を見上げたまま、何も言えずにいる者もいた。
ハンナは自分がどれだったか、後で思い出せなかった。
たぶん、全部だったと思う。
空の旗が数秒、保たれた。
それから、中央の円環が開いた。
三色の帯が前方へ流れ出す。
群れ全体が上昇する。
青と白と金が、空の高いところへ向かって伸びていく。
それは本当に、どこまでも上がっていくように見えた。
終わりがなかった。
どこかで終わるはずなのに、目が追い続けてしまう。
ハンナはその時、ふと思った。
名前も知らない者たちがいた。
爆炎パーティと呼ばれているらしい、異国より来た冒険者たち。
あの丘で何かをして、この街を終わらせなかった者たち。
今日の空を、見ているだろうか。
たぶん、どこかにいる。
この広場にいるかもしれないし、まったく別の場所にいるかもしれない。
あるいはもう、この街を去っているかもしれない。
でも、この空は彼らのものでもある。
そう思った。
名前も顔も知らないままでいい。
英雄として語られなくてもいい。
ただ、この空が続いているということが、答えだと思った。
やがて演舞が収まり、式典の次の段階へ移っていく。
ルカが引っ張る。
「お母さん、すごかったね」
「うん」
それしか言えなかった。
「ねえ、あのハーピーたち、あんなに飛べるの?」
「飛べるんだよ」
「練習したんだね」
「そうだね」
「すごいなあ」
ルカはまだ空を見上げていた。
もう演舞は終わっているのに、名残惜しそうに。
ハンナはその横顔を見た。
この子にはいつか話してもいいかもしれない。
あの丘のことを。
キュロスが来たこと。
名前も知らない者たちが、何かをしたこと。
この国が、危うく終わっていたこと。
でも今日じゃない。
今日はただ、この空を一緒に見た日でいい。
式典はまだ続いていた。
広場は人で溢れていた。
空は高く、青かった。
この国はまだ続く。
あの丘の記憶を知る者も、何も知らない子供も、名前を残さなかった者たちも、
全部ひっくるめて、続いていく。
そのことを、今日は初めて、本当に信じられた気がした。




