新顔ハーピー
見難い火傷の子356
新顔ハーピー
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
昼の鐘が鳴るころになると、建物の空気は少しだけやわらぐ。
訓練場から戻った飛行組の羽音、売り場から引き上げてきた店員たちの話し声、裏方の者たちが運ぶ木箱の擦れる音。
それらがみな、社員食堂へ流れ込んでいく。
以前は、食事といえば群れごと、役目ごとに固まるのが当たり前だった。
だが今は違う。
長机の並ぶ食堂には、店員、飛行組、裏方、看護担当、雛連れの母親たちまでが自然に混じっていた。
誰がどこに座るかも、もう厳密ではない。
空いている席に腰を下ろし、近くの者と同じ鍋をつつき、同じ焼き魚をほぐし、同じ噂で笑う。
それは匠一が思っていた以上に、大きな変化だった。
「今日の煮込み、味が濃くない?」
そう言ったのは、訓練帰りの若い飛行組だった。
向かいに座る店員の娘が、呆れたように肩をすくめる。
「訓練のあとだからでしょ。あんたたち、汗かきすぎなのよ」
「汗じゃない、羽の熱だ」
「同じようなもんでしょ」
そのやり取りに、周囲がくすくす笑う。
少し離れた席では、雛を膝に乗せた母親が、器用に片手で汁物を飲んでいた。
その隣では看護担当の人間の女が、雛の口元についた粥を布で拭っている。
「この子、野菜を残すんです」
「残すんじゃなくて、豆が嫌いなんだろ」
「匠一さん、甘やかさないでください」
「いや、顔見れば分かる。これは嫌いな顔だ」
雛がむっとしたように嘴を鳴らし、周囲がまた笑った。
そんな空気の中へ、新顔のハーピーが入ってきた。
入口のところで、ほんの少し立ち止まる。
まだ若い。
羽の艶も新しく、飛行組にしては細身だ。
灰青色の翼に、首元だけ白い羽毛が混じっている。
見慣れない顔だった。
食堂のざわめきが、一瞬だけ薄くなる。
新入りが来たとき、皆が見るのは珍しいことではない。
群れの生き物は、新しい個体に敏感だ。
ましてここは、いくつもの群れと人間が無理なく同居し始めたばかりの場所である。
「……あれが今日来た子?」
「たぶん」
「飛行組に入るって聞いた」
「へえ、思ったより小さいな」
「小さい方が旋回は利くわよ」
ひそひそ声が飛ぶ。
新顔のハーピーは、視線を浴びながらも露骨には怯えなかった。
ただ、どこへ座ればいいのか分からないらしく、盆を持ったまま目だけを動かしている。
その様子を見て、ラズィアがにやりと笑った。
「ほら、新顔。突っ立ってると冷めるよ」
よく通る声だった。
食堂のあちこちから視線が集まる。
新顔はびくりと肩を揺らしたが、ラズィアは気にしない。
「こっち来な。飛行組ならこの辺が早い」
「……はい」
小さく返事をして、新顔は席へ向かう。
だが途中で、雛の一羽がその翼を見て目を丸くした。
「きれい」
「え?」
雛は母親の膝から身を乗り出し、新顔の翼を指さした。
「そこ、白い」
「ああ……これは、その……昔からです」
「雪みたい」
「雪、見たことあるの?」
「絵本で見た」
食堂の空気が、そこで少しやわらいだ。
新顔の口元にも、ようやくかすかな笑みが浮かぶ。
匠一はその様子を見ながら、味噌汁をすすった。
こういう瞬間が増えた。
誰かが来て、誰かが声をかけ、誰かが笑う。
それだけのことが、以前は案外むずかしかったのだ。
新顔が席につくと、さっそく周囲から質問が飛んだ。
「どこの群れから来たの?」
「北の岩場の方です」
「へえ、じゃあ風の強いとこだ」
「着地うまそう」
「逆に売り場は苦手そうね」
「やめてください、今から緊張してるんですけど」
その返しに、また笑いが起きる。
悪くない。
少なくとも、からかいに返す余裕はあるらしい。
ラズィアが肘をついて、新顔を眺めた。
「名前は?」
「セレナです」
「セレナね。私はラズィア。
で、あっちが訓練馬鹿、こっちが食い意地の張った店員、あっちは栄養の話しかしない看護担当」
「紹介が雑すぎる」
「だいたい合ってるでしょ」
セレナは困ったように笑った。
その笑い方が妙に素直で、何人かが「思ったより話しやすそう」と目配せする。
そして、こういうときの食堂は早い。
「で、北の岩場ってことは、向こうにいい相手とかいたの?」
「ちょっと、いきなり何聞いてるの」
「いいじゃない、新顔の確認事項よ」
「そんな確認事項あるか」
恋バナだった。
匠一は箸を止め、ああ始まったな、という顔をした。
看護担当の女は露骨にため息をつく。
「食事中くらい静かに食べられないんですか」
「無理」
「無理ね」
「食堂だもの」
誰も反省しない。
セレナは目をぱちぱちさせていたが、やがて観念したように肩を落とした。
「……いません」
「ほんとに?」
「ほんとです」
「好きだった相手とか」
「いませんって」
「追いかけてきた相手とか」
「いません!」
今度は少し強く言い返したので、周囲がどっと笑う。
顔が赤くなっている。
羽の付け根までうっすら色づいていて、隠しごとが苦手な質なのが丸分かりだった。
「これは何かある顔だな」
「あるわね」
「ないです!」
そのとき、別の卓から声が飛んだ。
「でも分かる。新しい巣に来ると、そういうの一回全部どうでもよくなるよね」
「あー、それはある」
「生きるので精一杯だったし」
「まず寝床と飯と仕事」
「あと人間に慣れるので精一杯」
話題が少し広がる。
恋バナは、ただの冷やかしでは終わらない。
誰が何を大事にしてきたか、どこでつまずいたか、どうやってここへ来たか。
軽い話の顔をして、案外いろいろなものが出る。
セレナもそれで少し気が楽になったのか、器を持ち直してぽつりと言った。
「……前の群れでは、飛べるかどうかばかり見られてました」
「ふうん」
「飛行が下手だと、だいたいそれで終わりで」
「厳しいとこだったのね」
「はい。だから、ここに来て……売り場とか、雛の世話とか、食事とか、
そういう話をみんなが普通にしてるの、ちょっと変な感じです」
その言葉に、食堂が少し静かになる。
変な感じ。
たしかにそうだろう、と匠一は思った。
ここはまだ新しい。
群れの掟だけでも、人間の都合だけでも回っていない。
だから半端で、だからこそ息ができる。
ラズィアが鼻で笑った。
「変でいいのよ。飛ぶだけで巣は回らない」
「……はい」
「飯作るやつがいて、雛を見るやつがいて、怪我を診るやつがいて、売るやつがいて、飛ぶやつがいる。
で、たまに恋の話で騒ぐ。そういう方が巣っぽい」
「最後いる?」
「いるでしょ」
「いるわねえ」
古株たちがうなずく。
妙な説得力があった。
すると、店員の一人がにやにやしながら身を乗り出した。
「じゃあさ、ここで聞くけど。セレナはどういうのが好みなの?」
「まだやるの?」
「大事なことでしょ」
「共同体の把握よ」
「絶対違う」
セレナは完全に囲まれていた。
逃げ場を探すように視線をさまよわせ、うっかり匠一の方を見る。
その瞬間、何人かがそれを見逃さなかった。
「あ」
「今見た」
「見たわね」
「違います!」
食堂が爆発したみたいに笑う。
匠一は味噌汁の椀を持ったまま、面倒ごとの気配に眉を寄せた。
「おい、巻き込むな」
「いやいや、今のはそっちが悪い」
「何もしてないだろ」
「してなくても巻き込まれるのが匠一さんです」
「気の毒ですね」
「他人事みたいに言うな、看護担当」
セレナは真っ赤になって首を振っている。
だが一度火がついた食堂の噂好きは止まらない。
「でも匠一さん、面倒見はいいよね」
「雛にも優しいし」
「怪我した子にも甘い」
「それ恋に見えるやついるって」
「信頼と恋は違うでしょ」
「いや、そこが揉めるのよ」
そして、誰かが言ってしまった。
「そういえば、クイーンにはもっと分かりやすいけどね」
一瞬だった。
食堂の空気が、ぴたりと止まる。
箸の音も、椀の触れ合う音も、羽の擦れる音さえ遠のいた気がした。
その名はやはり特別だ。
この巣の中心であり、象徴であり、誰もが意識せずにはいられない存在。
匠一は嫌な予感しかしなかった。
「……おい」
「いや、でも実際」
「やめとけって」
「クイーンの方が匠一さん見る目、ちょっと違うじゃない」
「分かる」
「分かるじゃないのよ」
ラズィアが口元を押さえながら、肩を震わせている。
絶対に面白がっている顔だった。
「本人たちだけ気づいてないってやつ?」
「いや、気づいてて流してるんじゃない?」
「そっちの方が厄介」
「クイーンは否定しそう」
「匠一さんは本気で分かってなさそう」
匠一は深くため息をついた。
こうなると、何を言っても燃料になる。
「断っとくが、変な話にするなよ」
「変じゃないですー」
「そうそう、ただの観察」
「観察って言い方が一番怖い」
セレナは目を丸くして、周囲と匠一を交互に見ていた。
新入りにとっては、来た初日に巣の中心人物の噂話へ巻き込まれるという、なかなか濃い洗礼である。
そのときだった。
食堂の入口の方で、椅子を引く音がした。
全員の視線が、そちらへ向く。
クイーンだった。
静かな足取りで中へ入り、いつものように周囲を見渡す。
それだけで、さっきまで騒いでいた面々が一斉に口をつぐんだ。
あまりにも分かりやすい沈黙に、クイーンがわずかに眉を上げる。
「……何だ」
誰も答えない。
ラズィアでさえ、今は口元を押さえているだけだ。
雛だけが空気を読まず、ぱたぱたと手を振った。
「クイーン!」
「うむ」
クイーンは雛には普通に応じ、それから匠一の方を見た。
匠一は嫌でも察する。
説明役を押しつけられる流れだ。
「……別に何でもない」
「何でもない顔ではないな」
「気のせいだ」
「そうか」
そう言いながらも、クイーンは周囲の妙な静けさを完全には信じていない顔だった。
だが追及はしない。
盆を受け取り、空いている席へ向かう。
その背を見送りながら、食堂のあちこちで肩が震えていた。
笑いをこらえているのだ。
クイーンが十分離れたところで、ラズィアがついに吹き出した。
「今のは反則……!」
「やめろ、ほんとに」
「いやあ、すごいね新顔。初日で一番濃い場面に立ち会ったよ」
「そんなつもりじゃ……」
「大丈夫、そのうち慣れる」
「慣れたくないです」
セレナの悲鳴まじりの返事に、また笑いが起きる。
看護担当の女が呆れ顔でスープを飲み干した。
「結局、栄養の話が一つもできなかった」
「明日にすれば?」
「明日もこうなりますよ」
「なるね」
「なるわね」
匠一はもう諦めて、焼き魚をほぐした。
食堂は再びざわめきを取り戻している。
誰かが追加の飯を取りに立ち、誰かが雛に水を飲ませ、誰かが午後の持ち場の話をする。
その合間に、恋の噂が混じる。
仕事だけではない。
生きるだけでもない。
ここにはもう、暮らしがあった。
新顔のハーピー――セレナも、さっきよりずっと自然な顔で笑っている。
からかわれ、驚き、戸惑いながらも、もう完全なよそ者の顔ではなかった。
新しい巣とは、たぶんこういうふうに出来ていく。
大きな宣言ではなく、昼飯の湯気と、くだらない噂話と、誰かの笑い声の中で。
匠一は食堂を見回し、ひそかに息をついた。
悪くない。
かなり、人間くさい。
そしてたぶん、それでいいのだ。




