匠一の秘密の研究
見難い火傷の子348
匠一の秘密の研究
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
鼠は犬ほどに、犬は牛ほどに、牛は小屋ほどになる。
草は人の背丈を越え、蔓は縄ではなく梁のように垂れ下がり、外では跨げるだけの根が、ここでは壁のように行く手を塞いだ。
生きているものが大きいのではない。
この地にある「生きる」という現象そのものが、外とは違う尺度で成り立っている。
だからこそ、この層は昔から討伐より観測の方が難しいと言われていた。
大きい相手を倒すだけなら、まだ分かりやすい。
だが、外と同じ感覚で距離を測り、同じつもりで間合いを取り、同じつもりで退路を読むと、簡単に足をすくわれる。
見えている大きさだけではなく、そこに流れる魔力も、縄張りの広さも、群れの動きも、何もかもが外の常識からずれていた。
匠一がこの層の記録を集め始めたのは、巨大な魔物に興味があったからではない。
この場所では、距離と魔力の流れが、外とは別の理屈で噛み合っていたからだ。
最初にそれを知ったのは、ショータではない。
ショータが知ったのは、爆炎ハウスをもらってからしばらく経った、ある夜のことだった。
その日、ショータは本宅へ呼ばれていた。
呼んだのは匠一ではなく、備品の管理をしている古株の一人だった。
遠征用の縄と留め具の数が合わないから、納屋の奥まで見てこいと言われただけの、どうということもない用事だった。
日が落ちたあとの本宅は、昼間より静かだ。
食堂の方からはまだ人の声がしていたが、裏手の廊下まで来ると、足音の方がよく響く。
ショータは言われた通り納屋を見て、足りない分の所在を確かめ、それを伝えに戻ろうとして
――ふと、奥の部屋に灯りがついているのに気づいた。
その部屋は、普段あまり使われていないはずだった。
物置にしては出入りが少なく、寝室にしては人の気配がない。
けれど完全に閉ざされているわけでもなく、ときどき匠一が一人で入っていくのを見たことがある。
ショータは足を止めた。
扉は少しだけ開いていた。
中から見えたのは、本でも武器でもなかった。
壁一面に貼られた地図。机の上に広げられた紙束。
何度も書き直された線。
円環状の図形。
座標のような数字。
魔力の流れを示すらしい細い注記。
そして、その端に何度も繰り返し書かれている言葉。
固定。
接続。
誤差。
通過。
戦い方の記録ではない、とショータは思った。
討伐報告でも、依頼書の整理でもない。
罠の設計図にも見えなかった。
むしろ、どこかとどこかを繋ごうとしている図に見えた。
机の中央には、深淵ダンジョンの簡略図が置かれていた。
いくつもの層に印が打たれている。
その中でも、赤い印が重ねられていたのが第十六エリア――第四紀完新世層、青銅の時代だった。
ショータは無意識に、その印の上へ視線を落とした。
八倍の大きさで生きるものが存在する層。
距離感も、魔力の流れも、外とは違う場所。
その横には、別の紙があった。
拠点名らしきものが並び、その間に線が引かれている。
普通の地図のように道筋をなぞった線ではない。
もっと短い。
短すぎる。
まるで、間にあるはずの距離を最初から数えていないみたいだった。
「……何してると思う」
不意に背後から声がして、ショータは振り向いた。
匠一がいた。
怒鳴るでもなく、気配を殺していたわけでもない。
ただ、いつからそこにいたのか分からない顔で、廊下の暗がりに立っていた。
ショータは一瞬だけ黙り、それから正直に言った。
「戦い方の研究じゃないです」
「ほう」
「移動、ですか」
匠一はすぐには答えなかった。
部屋の中へ目をやって、それから少しだけ肩をすくめる。
「お前、変なとこで目ざといな」
「隠してるなら、もっと隠してください」
「隠してるっていうか……」
そこで匠一は、珍しく少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「本当は、使える形になってから見せるつもりだったんだよ」
ショータは扉の向こうをもう一度見た。
壁の地図も、机の図面も、途中で止まった試作も、どれもまだ完成には見えない。
けれど、積み重ねられた紙の量だけで、これが思いつきではないことは分かった。
「サプライズですか」
「まあ、そんなもんだ」
匠一は苦笑ともつかない顔で鼻を鳴らした。
「途中を見せても、ただの面倒な図面だろ。どうせなら、ちゃんと動くところを見せたかった」
ショータは少しだけ考えてから、机の上の線を見た。
「……どこかを繋ぐものですか」
匠一の目が、わずかに細くなる。
「当たらずとも遠からず、だな」
否定はされなかった。
それだけで十分だった。
ショータは部屋の中を見回した。
深淵ダンジョンの地図。
拠点の位置。
何度も引き直された線。
誤差の記録。
固定の条件。
通過の試算。
意味の分からない部分は多い。
けれど、ひとつだけ分かることがあった。
これは一人の戦い方を変えるためのものではない。
もっと広く、人の動き方そのものを変えるための研究だ。
匠一は扉の脇に寄りかかりながら、ショータの視線の先を追った。
「遠いってだけで、諦めることが多すぎるんだよ」
その声は、いつものようにぶっきらぼうだった。
けれど、言葉だけは妙に静かだった。
「行くのに時間がかかる。戻るのに手間がかかる。物を運ぶのも、人を呼ぶのも遅れる。そういうのは、仕方ないで済まされがちだがな」
匠一は机の上の紙を指先で軽く叩いた。
「一つ通れば、変わる」
ショータは何も言わなかった。
井戸のない村に井戸ができれば、水を汲むための半日が消える。
橋のない川に橋が架かれば、向こう岸は“遠い場所”ではなくなる。
たぶん、匠一がやろうとしているのは、そういうことなのだと、うまく言葉にならないまま思った。
爆炎ハウスをもらって、自分の暮らしは少し変わった。
みいがここから学校へ通うかもしれないという話も出た。
けれど匠一が見ているのは、その先だった。
家一つではなく、拠点と拠点。人と人。
遠い場所そのもののあり方を変えようとしている。
「まだ誰にも言うなよ」
匠一が言った。
ショータはそちらを見る。
「秘密だから、ですか」
「いや」
匠一は少しだけ笑った。
「完成前に騒いでも面倒なだけだ。できた時に見せた方が早い」
それは秘密主義というより、本当に“その時まで取っておく”という言い方だった。
ショータは小さくうなずく。
「分かりました」
「お前はまず、自分の拠点を回せ」
「……はい」
「子犬の水皿、また増やしただろ」
図星を突かれて、ショータは少しだけ黙った。
匠一はそれを見て鼻で笑う。
「そういうのを回せるやつが、次を使う側になる」
その言葉の意味を、ショータはすぐには飲み込めなかった。
けれど、軽く言っただけではないことは分かった。
部屋を出る時、ショータはもう一度だけ振り返った。
壁の地図の上で、青銅の時代を示す印が赤く沈んで見えた。
八倍の大きさで生きるものがいる層。
距離と魔力の流れが外とずれる場所。
あそこが、この研究の鍵のひとつなのだろう。
まだ正体は分からない。
けれど、匠一がただ強いだけの人ではないことだけは、前よりはっきり分かった。
外へ出ると、夜気は少し冷えていた。
本宅から爆炎ハウスまでの道は、もう見慣れ始めている。
遠いわけではない。だが、毎日歩けばそれなりの距離だ。
荷物があればなおさらで、雨の日なら面倒も増える。
ショータは黙ってその道を見た。
遠いってだけで、諦めることが多すぎる。
さっきの匠一の言葉が、妙に残っていた。
爆炎ハウスへ戻れば、子犬たちが騒ぎ、軒下にはシリウスが伏せている。
みいが来れば、また水皿をひっくり返す子犬を追いかけることになるだろう。
そういう小さな暮らしを回すことと、匠一が見ている大きな研究は、まるで別の話のようでいて、どこかで繋がっている気がした。
ショータは歩き出した。
自分の持った鍵の重さと、まだ見ぬ何かの重さを、少しだけ同じもののように感じながら。
爆炎ハウスに戻ると、戸口の隙間から灯りが漏れていた。
出る時には消したはずだと一瞬思って、それから、みいが来ているのだと気づく。案の定、扉を開けた途端に子犬が二匹、競うように足元へ飛びついてきた。片方は靴に噛みつき、もう片方は裾に前足をかけてくる。ショータは無言で片方を膝で受け止め、もう片方の額を軽く押し返した。
「ただいま」
言ってから、誰に向けた言葉だったのか少しだけ分からなくなる。
家の中から、すぐにみいの声が返ってきた。
「おかえり」
その返事があまりにも自然で、ショータは一瞬だけ目を瞬いた。
みいは台所の方にいた。袖を少しまくって、水を替えたばかりらしい桶の縁を拭いている。床には案の定、水滴が散っていた。子犬の一匹がその上を走って、さらに足跡を増やしている。
「またこぼしたのか」
「またこぼした」
みいは振り向きもせずに言った。
「この子と、この子と、あとたぶんこの子」
「多いな」
「増えたから」
言いながら、みいは布を絞って床を拭く。
ショータは荷物を壁際に置いて、子犬を一匹ずつ足元から剥がした。外では、軒下でシリウスが一度だけ身じろぎする気配がした。戸口は半分開けたままだ。中の灯りが土間まで伸びて、その先に白い毛並みの輪郭だけがぼんやり見える。
みいはようやくショータの方を見た。
「遅かったね」
「本宅で少し」
「何かあった?」
ショータはすぐには答えなかった。
匠一に口止めされたわけではない。けれど、あの部屋で見たものは、まだ言葉にしてしまうには早い気がした。途中の図面を見ただけで、完成形を知ったように話すのも違う。
「……匠一さんの、研究を少し見た」
みいが目を丸くする。
「研究?」
「秘密の、らしい」
「え、なにそれ。すごく気になる」
気になるだろうな、とショータは思った。
自分だって気になっている。けれど、匠一の言い方を思い出すと、ここで勝手に広げるのも違う気がした。
「まだ途中だって」
「じゃあ、ほんとに秘密なんだ」
「秘密っていうか……」
ショータは少し考えてから言った。
「完成したら見せるつもりだったらしい」
「なにそれ」
みいはふっと笑った。
「ちょっと楽しみにしてるやつじゃん」
「たぶん、そういう感じだ」
そう言うと、みいはますます面白そうな顔をした。
匠一が何かを“完成したら見せるつもり”で進めている。その響きだけで、秘密というより準備中の未来みたいに聞こえる。ショータも、口にしてみて初めて、あの部屋の空気が少し柔らかく思い出された。
子犬の一匹が、みいの足元の布に噛みついた。
みいが「だめ」と言って持ち上げると、別の一匹が今度は桶の縁に前足をかける。ショータは無言でそちらを引き剥がした。
「で、何の研究だったの」
「分からない」
「分からないの?」
「全部は」
ショータは戸口の方を見た。
軒下のシリウスは、こちらの気配を聞いているのか、静かに伏せたままだ。
「でも、戦い方の研究じゃなかった」
「うん」
「どこかを繋ぐみたいな図だった」
みいは少しだけ首を傾げた。
「繋ぐ?」
「拠点とか、場所とか。そういう感じに見えた」
「道を作るみたいな?」
「……近いかもしれない」
そう答えながら、ショータは自分の中でその言葉が妙にしっくりくるのを感じた。
道を作る。橋を架ける。井戸を掘る。今まで遠かったものを、遠いままにしない。匠一がやろうとしているのは、たぶんそういうことだ。
みいは少し黙ってから、ぽつりと言った。
「それ、できたらすごいね」
「ああ」
「学校も近くなるかな」
ショータはそちらを見た。
みいは冗談半分の顔ではなかった。子犬を抱えたまま、少しだけ真面目に言っている。
「森の家からでも通えないわけじゃないけど、遠い日は遠いし。雨の日とか、荷物ある日とか、帰り遅い日とか」
「そうだな」
「ここからならだいぶ楽だけど、それでももっと近くなったら、たぶんいろんな子が助かる」
ショータは返事をしなかった。
けれど、その言葉は匠一の研究を考える上で、ひどくまっすぐだった。遠征や救援だけじゃない。学校へ通うこと、物を運ぶこと、会いに行くこと。遠いというだけで削られていたものが、少しずつ削られなくなる。
それは確かに、便利を一歩進めるというより、暮らしの形を変えることに近かった。
「みんなが楽になるやつか」
みいが言う。
ショータは小さくうなずいた。
「たぶん」
「じゃあ、いい研究だね」
あまりにも簡単な言い方で、ショータは少しだけ口元を緩めた。
いい研究。たしかにそうだ。難しい図面も、赤い印のついた地図も、誤差だ固定だと並んだ言葉も、結局はそこへ向かっているのかもしれない。
みいは抱えていた子犬を下ろして、今度は窓際へ歩いていった。
外を見て、それから戸口の向こうのシリウスを見る。
「シリウスも、近くなったら楽かな」
「何が」
「移動」
みいは振り返る。
「大きいから」
ショータは少し考えた。
シリウスが長い距離を移動する時、道幅や休める場所や、人目や、いろんなものを気にしなければならない。子犬たちが増えればなおさらだ。そういう意味では、たしかに“近くなる”ことの恩恵は大きい。
「……そうかもな」
「でしょ」
みいは満足そうにうなずいた。
それから、ふと何か思いついたように目を輝かせる。
「でも、完成したら見せるつもりだったってことは、匠一さん、ちょっとわくわくしてるんだね」
「かもしれない」
「見せた時の顔とか想像してるのかな」
「そこまでは知らない」
「してそう」
言い切られて、ショータは少しだけ困った。
だが、完全には否定できない。匠一のあの言い方は、たしかに“まだ言うな”というより“できてから見せたかった”に近かった。
みいは笑いながら、また床にしゃがみこんだ。
子犬たちがその周りに集まって、すぐに一匹が髪にじゃれつく。みいが「こら」と言って押し返し、別の一匹がその隙に膝へ乗る。家の中は相変わらず落ち着かない。けれど、その騒がしさの中で、ショータはさっきまで見ていた地図や図面のことを、少し違う形で考え始めていた。
大きな研究。
遠い場所を繋ぐかもしれない技術。
みんなの動き方を変えるかもしれないもの。
それはたしかに大きい。
けれど、その先にあるのは案外、こういう小さなことなのかもしれなかった。通いやすくなる。運びやすくなる。会いに行きやすくなる。帰りやすくなる。そういう積み重ねが、暮らしを変える。
ショータは壁に掛けた鍵を見た。
爆炎ハウスの鍵。自分の拠点の鍵。匠一に渡された、今の暮らしを少し変えるもの。
そして本宅の奥には、もっと大きく人の暮らしを変えるかもしれない図面が積まれている。
「ショータ」
みいに呼ばれて顔を上げる。
「なに」
「ぼーっとしてる」
「してない」
「してるよ」
言いながら、みいは笑った。
その腕の中で、子犬が一匹、眠そうに目を細めている。もう一匹はその尻尾にじゃれついて、三匹目は飽きたのか戸口の方へ歩いていった。外ではシリウスが静かにそれを見ている。
ショータは息を吐いて、台所の方へ向かった。
「水、もう一桶いるな」
「ほら、してた」
「考えてただけだ」
「同じだよ」
違う、と言い返そうとして、やめた。
たぶん今は、少し考えていたのだろう。
桶に水を汲みながら、ショータはふと思う。
匠一の研究がいつ形になるのかは分からない。明日かもしれないし、ずっと先かもしれない。途中で失敗することだってあるのかもしれない。
それでも、あの人はやっている。
遠いから仕方ないで済まされてきたものを、仕方ないままにしないために。
そのことが、妙に心に残った。
水を運んで戻ると、みいが子犬を抱えたまま見上げてきた。
「ねえ」
「なんだ」
「完成したら、ちゃんと見せてくれるかな」
「見せるだろ」
「みんなに?」
「ああ」
ショータは桶を置いた。
「たぶん、そうするために作ってる」
みいは少しだけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「じゃあ、楽しみ」
その言葉に、ショータも小さくうなずいた。
楽しみ。
そう思ったのは、自分も同じだった。
まだ形の見えない研究の先に、何が変わるのかは分からない。
けれど、もし本当に遠い場所が遠いままでなくなるなら、その時はきっと、今ここにあるこの小さな暮らしも、少し違う形になる。
戸口の外では、夜が深くなり始めていた。
軒下のシリウスは静かに伏せたまま、家の出入りを見ている。中では子犬たちが騒ぎ、みいが笑い、床にはまた少し水がこぼれている。
ショータはその全部を見渡してから、もう一度だけ本宅の方角を思った。
まだ見えないものがある。
まだ知らない先がある。
けれど、それは遠いだけで、無いわけじゃない。
そう思うと、夜道の向こうにある本宅も、その奥の灯りのついた部屋も、少しだけ近く感じられた。




