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見難い火傷の子  作者: 清風
347/650

卒業後の小さな変化(爆炎ハウスや生活拠点)

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子347



卒業後の小さな変化(爆炎ハウスや生活拠点)




深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。



卒業式の翌朝は、思っていたより静かだった。


昨日までと同じ時間に目が覚めて、同じように顔を洗って、同じように朝の空気を吸い込んだのに、どこかだけが違っていた。

胸の奥に何か大きなものがあるわけじゃない。

ただ、もう「学生」と呼ばれることはないのだと、周りの空気の方が先に知っているようだった。


机の端には、丸めたくも畳みたくもない卒業証書が置いてある。

どう扱えばいいのか分からず、とりあえず汚れない場所に避けただけのそれを見て、ショータは少しだけ眉を寄せた。


紙一枚で何が変わるんだ、と思わないでもない。

けれど、その紙一枚のせいで、昨日まで曖昧だったものが急に現実になることもある。


「ショータ、匠一さんが呼んでたよ」


声をかけられて振り向くと、まだ眠そうな顔のままの仲間が手だけをひらひら振った。

仕事の呼び出しかと思って、ショータは短く返事をする。


「今行く」


外へ出ると、朝の光はまだ柔らかかった。

歩き慣れた道を進みながら、卒業したからといって急に何かが変わるわけじゃない、と自分に言い聞かせる。

依頼がなくなるわけでも、腹が減らなくなるわけでもない。

今日もやることはあるし、明日もたぶん同じだ。


そう思っていた。


匠一は、爆炎パーティ本宅の裏手で木箱をひっくり返したような台に腰かけていた。

朝から妙に機嫌がいいわけでもなく、かといって不機嫌でもない。

いつも通りの顔で、ショータが来たのを見て顎をしゃくる。


「来たか」


「何か仕事ですか」


「半分はな」


そう言って匠一は、懐から鍵を一本取り出した。

鉄の鈍い光をした、少し大きめの鍵だった。

見覚えはない。


ショータが黙ってそれを見ると、匠一はそのまま鍵を差し出した。


「卒業祝いだ。……って言うと聞こえはいいが、空いてる家を遊ばせとくのももったいない。使え」


「家?」


「爆炎ハウス。若いのを置いたり、遠征前後の寝泊まりに使ったりしてた小屋だ。今は空いてる」


言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。

ショータは差し出された鍵と匠一の顔を見比べる。


「俺が?」


「お前が」


「なんで」


「卒業したからだろ」


それだけ言って、匠一は面倒そうに肩をすくめた。


「いつまでも寝床借りてるだけじゃ動きにくい。シリウスもいる。子犬もいる。お前、どうせ一人分の部屋じゃ収まらん」


それは、そうだった。


ショータが黙ると、匠一はさらに続ける。


「本宅から遠すぎない。呼べば来い。困ったら言え。だが、維持は自分でやれ。掃除も補修も、住むなら住む側の仕事だ」


「……いいんですか」


「よくなきゃ渡さん」


ぶっきらぼうな言い方だったが、それ以上の説明はなかった。

卒業証書の次に渡されたのが家の鍵だということに、ショータは妙な現実味を覚えた。

学校を出た先にあるのが、もっと大きな依頼でも、派手な称賛でもなく、まず「住む場所」なのだというのが、いかにも現実だった。


鍵は思ったより重かった。


匠一に場所だけ聞いて、ショータは一人で爆炎ハウスへ向かった。

案内を断ったのは、なんとなくだ。

自分で行って、自分で開けたかった。


本宅から少し離れた場所に、その家はあった。

豪華ではない。

けれど粗末でもない。

木と石でできた実用本位の建物で、前には小さな空き地があり、横手には水場も見える。

荷物置きに使えそうな納屋めいたスペースもあった。

軒は深く張り出していて、玄関脇の土間は広い。

雨風をしのげるその一角を見た瞬間、ショータはそこが誰の席になるのかをすぐに思った。


「……シリウスは、ここだな」


家の中より、外の方がいい。

出入りも見えるし、庭も見渡せる。

夜の気配も拾いやすい。

水桶は近くに置けるし、敷き藁を増やせば休むにも困らない。

子犬たちは放っておけば中と外を勝手に行き来するだろうが、シリウスの席はここがちょうどいい。


ショータはしばらく外から眺めて、それから鍵を差し込んだ。


回した感触が、やけに大きく手に残る。


扉を開けると、閉め切っていた家特有の乾いた匂いがした。

中は思ったより広い。寝起きするだけなら十分すぎるくらいで、奥にはもう一部屋、簡単な台所、窓際には長椅子まである。


けれどショータが最初に考えたのは、寝台の位置でも机の大きさでもなかった。


子犬たちはどこまで入れていいか。

階段や角は危ない。

水皿は中と外の両方にいる。

餌の置き場は高くしないと、すぐひっくり返される。

外の土間には大きい桶がいるし、軒下には敷き藁も欲しい。

自分が住む場所というより、群れをどう収めるかを先に考えていることに気づいて、ショータは少しだけ息を吐いた。


「……一人じゃない、か」


その言葉は、誰に聞かせるでもなく床に落ちた。


その日のうちに、必要な荷物を少しずつ運び込んだ。

ソラの背に括りつけられるだけ括りつけ、足りない分は手で持った。

みいも一緒だった。

移動の間、みいは子犬たちに囲まれて、ずっとじゃれていた。

揺れる背の上でも怖がる様子はなく、子犬の一匹が前足で服にしがみつけば笑って抱え直し、

別の一匹が耳を噛もうとすれば軽く額を押し返す。もう慣れたものだった。


「落ちるなよ」


前から声をかけると、みいは「落ちないよ」と返して、また子犬たちに笑いかけた。

ショータはそれ以上何も言わなかった。危ない時だけ止めればいい。

そういう距離でいられるくらいには、みいももうこの群れの中にいた。


爆炎ハウスに着くと、子犬たちは待ちきれないように駆け下りて、開いた扉の向こうへ雪崩れ込んだ。

みいもその後を追いかける。


「こら、そっちはまだだめ。……あ、水こぼす!」


初めて来た家のはずなのに、みいは客の顔をしていなかった。

子犬たちの後ろを追いながら、危ない場所を見つけては止め、水場を見つけては覗き込み、窓の位置を見て「明るいね」と言う。

その様子を見ていると、ここが新しい場所だという感じが少し薄れる。

森の家から切り離された別の場所ではなく、今までの暮らしがそのまま少し形を変えて続いていくようだった。


みいは床にしゃがみこんで、ひっくり返った水皿を起こしていた。

その横で子犬が一匹、何も分かっていない顔で尻尾を振っている。


「だからさっきからこぼしてるの、この子だよ」


「そいつ、たぶんまたやるぞ」


ショータが箱を壁際へ寄せながら言うと、みいはむっとした顔で子犬の頭を軽く押した。


「だめ」


言われた子犬はまるで堪えていない様子で、今度は別の子にじゃれつき始める。

ショータはそれを見て、少しだけ口元を緩めた。


しばらくして、みいが何気ない調子で言った。


「わたし、こんど幼年冒険者学校の試験受けるんだよ」


ショータは手を止めて振り向いた。


「……もう決まってるのか」


「うん。森の家からでも行けるけど、朝早くなるって」


「そうだろうな」


爆炎ハウスからなら近い。

森の家から通えない距離ではないが、毎日となれば負担は違う。

天気の悪い日や、帰りが遅くなる日まで考えればなおさらだった。


みいは子犬を抱き上げたまま、少しだけ首を傾げる。


「でも、受かるかまだ分かんないし」


「受けるつもりなんだろ」


「うん」


短い返事だった。

その言い方に迷いはなかったので、ショータは少しだけ考えてから言った。


「なら、受かった後のこともあるし」


「?」


「ぼくのところからにすればいい」


みいが目を丸くする。


「ここから?」


「ここなら学校に近い。朝も楽だし、帰りも遅くなりにくい。子犬たちもいるし、シリウスもいる」


「……いいの?」


その問いに、ショータは少しだけ言葉を探した。

特別なことを言うつもりはなかった。

ただ、そうした方が自然だと思っただけだ。


「もう普通に来てるだろ」


みいは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。


「たしかに」


「受かってから考えてもいいけど、先に決めといた方が楽だ。必要なものも揃えられるし」


「じゃあ、受かったら……ここから通っていい?」


「受からなくても来るなとは言わない」


そう言うと、みいは今度こそはっきり笑った。

腕の中の子犬までつられたように尻尾を振る。


「じゃあ受かる」


「受かれ」


短いやり取りだったが、それで十分だった。

みいがここにいることも、これから先ここから学校へ通うかもしれないことも、妙に自然に思えた。


そのとき、ふっと外の空気が変わった。


子犬たちが一瞬だけ動きを止める。

みいもつられて顔を上げた。


開け放した戸口の向こう、軒下の影に白い大きな影があった。


シリウスだった。


子犬たちには慣れていても、みいがシリウスと顔を合わせるのはこれが初めてだった。

白銀の毛並みは外の光を受けて淡く光り、静かな目がまっすぐこちらを見ている。

大きい。家の中に収まるような大きさではない。

子犬たちとはまるで違う。

遊び相手ではなく、群れの境を守る獣の目だった。


みいは抱えていた子犬を落としそうになるほど驚きはしなかった。

ただ、ぴたりと動きを止めた。


「……この子が、シリウス?」


声は少しだけ小さかった。


ショータはみいの横まで歩いていき、短くうなずく。


「ああ」


それから、戸口の向こうを見る。


「シリウス。みいだ」


それだけだった。

大丈夫だとも、行けとも言わない。

無理に近づけるつもりもなかった。


シリウスはしばらく軒下に伏せたまま、みいを見ていた。

やがて静かに立ち上がり、一歩、また一歩と土間の方へ近づいてくる。

みいは逃げなかったが、子犬を抱く腕に少しだけ力が入った。


白い鼻先が、戸口のところまで寄る。

中へ踏み込むことはせず、境目のところでゆっくりと空気を吸う。

服の匂い、子犬たちの匂い、ショータの匂い。

たぶん、そういうものを確かめているのだろう。


長くはなかった。


シリウスは一度だけみいの手に鼻先を触れさせると、それ以上何もせず、すっと身を引いた。

そしてまた軒下へ戻り、玄関脇の土間にゆっくりと伏せる。

そこがもう、自分の席だと決めたみたいだった。


それを見て、みいがようやく息を吐いた。


「……さわっても、いい?」


「今はまだ、向こうがいいって言ったらな」


ショータがそう言うと、みいは素直にうなずいた。

無理に距離を詰めようとはしない。

その代わり、少しだけ嬉しそうにシリウスを見た。


「きれい」


その一言に、シリウスの耳がわずかに動いた気がした。


子犬たちはすぐにまた騒ぎ始め、家の中はあっという間に賑やかさを取り戻した。

みいは今度は勝手知ったる様子で水皿の位置を気にし始め、ショータは倒れそうな箱を壁際へ寄せる。

誰かが大きな声で「ここに住むなら棚が足りないな」と言い、別の誰かが「先に掃除だろ」と返した。


そんなやり取りの中で、爆炎ハウスは少しずつただの空き家ではなくなっていった。


夕方になって人の出入りが落ち着くと、家の中は急に広く感じられた。

窓の外は赤く、床には長い影が伸びている。

子犬たちは遊び疲れてあちこちで丸くなり、外の軒下にはシリウスの白い影が静かに伏せていた。

戸口が開くたびに見えるその姿は、家の外にありながら、もうこの場所の一部だった。


みいも帰る支度をしながら、何度も家の中を振り返っている。


「ここ、ほんとに使うんだね」


「……たぶん」


「たぶんじゃなくて」


みいは少し笑って、それから真面目な顔になった。


「ここからなら、学校、行きやすいよ」


その言い方は、お願いというより確認に近かった。


ショータはすぐには答えなかった。

できるかどうかを考えていた。

やるなら何が要るか、足りないものは何か、朝は何時に起きるか。

そういうことばかりが先に浮かぶ。


けれど、それを考えている時点で、もうまったく無理だとは思っていないのだと自分でも分かった。


「……そうだな」


短く返すと、みいは満足したようにうなずいた。


夜、みんなが帰ってから、ショータは一人で家の中を見回した。


机の上には卒業証書。壁には掛けたばかりの鍵。隅には運び込んだ荷物。寝息を立てる子犬たち。


そして、開けた戸口の向こう、軒下にはシリウスがいた。


静かだった。


昨日までと同じようでいて、もう同じではない静けさだった。


学校を卒業した。

家の鍵をもらった。

ここで暮らしていくのだろう。

たぶん、みいもここから学校へ通うことになる。

そうなれば、自分一人の都合だけでは回らない。


ショータは窓際に立って、暗くなり始めた外を見た。


広い、と思った。

同時に、ちゃんとしないと回らない、とも思った。


けれど不思議と、嫌ではなかった。


背後で子犬の一匹が寝返りを打つ。

外ではシリウスがわずかに身じろぎし、また静かになる。

ショータは振り返って、その気配を確かめた。


「……明日から、か」


誰にともなくそう言って、壁に掛けた鍵をもう一度見た。


卒業は終わりじゃなかった。

たぶん、ここから先の暮らし方が変わる、その始まりだった。

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