卒業後の小さな変化(爆炎ハウスや生活拠点)
見難い火傷の子347
卒業後の小さな変化(爆炎ハウスや生活拠点)
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
卒業式の翌朝は、思っていたより静かだった。
昨日までと同じ時間に目が覚めて、同じように顔を洗って、同じように朝の空気を吸い込んだのに、どこかだけが違っていた。
胸の奥に何か大きなものがあるわけじゃない。
ただ、もう「学生」と呼ばれることはないのだと、周りの空気の方が先に知っているようだった。
机の端には、丸めたくも畳みたくもない卒業証書が置いてある。
どう扱えばいいのか分からず、とりあえず汚れない場所に避けただけのそれを見て、ショータは少しだけ眉を寄せた。
紙一枚で何が変わるんだ、と思わないでもない。
けれど、その紙一枚のせいで、昨日まで曖昧だったものが急に現実になることもある。
「ショータ、匠一さんが呼んでたよ」
声をかけられて振り向くと、まだ眠そうな顔のままの仲間が手だけをひらひら振った。
仕事の呼び出しかと思って、ショータは短く返事をする。
「今行く」
外へ出ると、朝の光はまだ柔らかかった。
歩き慣れた道を進みながら、卒業したからといって急に何かが変わるわけじゃない、と自分に言い聞かせる。
依頼がなくなるわけでも、腹が減らなくなるわけでもない。
今日もやることはあるし、明日もたぶん同じだ。
そう思っていた。
匠一は、爆炎パーティ本宅の裏手で木箱をひっくり返したような台に腰かけていた。
朝から妙に機嫌がいいわけでもなく、かといって不機嫌でもない。
いつも通りの顔で、ショータが来たのを見て顎をしゃくる。
「来たか」
「何か仕事ですか」
「半分はな」
そう言って匠一は、懐から鍵を一本取り出した。
鉄の鈍い光をした、少し大きめの鍵だった。
見覚えはない。
ショータが黙ってそれを見ると、匠一はそのまま鍵を差し出した。
「卒業祝いだ。……って言うと聞こえはいいが、空いてる家を遊ばせとくのももったいない。使え」
「家?」
「爆炎ハウス。若いのを置いたり、遠征前後の寝泊まりに使ったりしてた小屋だ。今は空いてる」
言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
ショータは差し出された鍵と匠一の顔を見比べる。
「俺が?」
「お前が」
「なんで」
「卒業したからだろ」
それだけ言って、匠一は面倒そうに肩をすくめた。
「いつまでも寝床借りてるだけじゃ動きにくい。シリウスもいる。子犬もいる。お前、どうせ一人分の部屋じゃ収まらん」
それは、そうだった。
ショータが黙ると、匠一はさらに続ける。
「本宅から遠すぎない。呼べば来い。困ったら言え。だが、維持は自分でやれ。掃除も補修も、住むなら住む側の仕事だ」
「……いいんですか」
「よくなきゃ渡さん」
ぶっきらぼうな言い方だったが、それ以上の説明はなかった。
卒業証書の次に渡されたのが家の鍵だということに、ショータは妙な現実味を覚えた。
学校を出た先にあるのが、もっと大きな依頼でも、派手な称賛でもなく、まず「住む場所」なのだというのが、いかにも現実だった。
鍵は思ったより重かった。
匠一に場所だけ聞いて、ショータは一人で爆炎ハウスへ向かった。
案内を断ったのは、なんとなくだ。
自分で行って、自分で開けたかった。
本宅から少し離れた場所に、その家はあった。
豪華ではない。
けれど粗末でもない。
木と石でできた実用本位の建物で、前には小さな空き地があり、横手には水場も見える。
荷物置きに使えそうな納屋めいたスペースもあった。
軒は深く張り出していて、玄関脇の土間は広い。
雨風をしのげるその一角を見た瞬間、ショータはそこが誰の席になるのかをすぐに思った。
「……シリウスは、ここだな」
家の中より、外の方がいい。
出入りも見えるし、庭も見渡せる。
夜の気配も拾いやすい。
水桶は近くに置けるし、敷き藁を増やせば休むにも困らない。
子犬たちは放っておけば中と外を勝手に行き来するだろうが、シリウスの席はここがちょうどいい。
ショータはしばらく外から眺めて、それから鍵を差し込んだ。
回した感触が、やけに大きく手に残る。
扉を開けると、閉め切っていた家特有の乾いた匂いがした。
中は思ったより広い。寝起きするだけなら十分すぎるくらいで、奥にはもう一部屋、簡単な台所、窓際には長椅子まである。
けれどショータが最初に考えたのは、寝台の位置でも机の大きさでもなかった。
子犬たちはどこまで入れていいか。
階段や角は危ない。
水皿は中と外の両方にいる。
餌の置き場は高くしないと、すぐひっくり返される。
外の土間には大きい桶がいるし、軒下には敷き藁も欲しい。
自分が住む場所というより、群れをどう収めるかを先に考えていることに気づいて、ショータは少しだけ息を吐いた。
「……一人じゃない、か」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく床に落ちた。
その日のうちに、必要な荷物を少しずつ運び込んだ。
ソラの背に括りつけられるだけ括りつけ、足りない分は手で持った。
みいも一緒だった。
移動の間、みいは子犬たちに囲まれて、ずっとじゃれていた。
揺れる背の上でも怖がる様子はなく、子犬の一匹が前足で服にしがみつけば笑って抱え直し、
別の一匹が耳を噛もうとすれば軽く額を押し返す。もう慣れたものだった。
「落ちるなよ」
前から声をかけると、みいは「落ちないよ」と返して、また子犬たちに笑いかけた。
ショータはそれ以上何も言わなかった。危ない時だけ止めればいい。
そういう距離でいられるくらいには、みいももうこの群れの中にいた。
爆炎ハウスに着くと、子犬たちは待ちきれないように駆け下りて、開いた扉の向こうへ雪崩れ込んだ。
みいもその後を追いかける。
「こら、そっちはまだだめ。……あ、水こぼす!」
初めて来た家のはずなのに、みいは客の顔をしていなかった。
子犬たちの後ろを追いながら、危ない場所を見つけては止め、水場を見つけては覗き込み、窓の位置を見て「明るいね」と言う。
その様子を見ていると、ここが新しい場所だという感じが少し薄れる。
森の家から切り離された別の場所ではなく、今までの暮らしがそのまま少し形を変えて続いていくようだった。
みいは床にしゃがみこんで、ひっくり返った水皿を起こしていた。
その横で子犬が一匹、何も分かっていない顔で尻尾を振っている。
「だからさっきからこぼしてるの、この子だよ」
「そいつ、たぶんまたやるぞ」
ショータが箱を壁際へ寄せながら言うと、みいはむっとした顔で子犬の頭を軽く押した。
「だめ」
言われた子犬はまるで堪えていない様子で、今度は別の子にじゃれつき始める。
ショータはそれを見て、少しだけ口元を緩めた。
しばらくして、みいが何気ない調子で言った。
「わたし、こんど幼年冒険者学校の試験受けるんだよ」
ショータは手を止めて振り向いた。
「……もう決まってるのか」
「うん。森の家からでも行けるけど、朝早くなるって」
「そうだろうな」
爆炎ハウスからなら近い。
森の家から通えない距離ではないが、毎日となれば負担は違う。
天気の悪い日や、帰りが遅くなる日まで考えればなおさらだった。
みいは子犬を抱き上げたまま、少しだけ首を傾げる。
「でも、受かるかまだ分かんないし」
「受けるつもりなんだろ」
「うん」
短い返事だった。
その言い方に迷いはなかったので、ショータは少しだけ考えてから言った。
「なら、受かった後のこともあるし」
「?」
「ぼくのところからにすればいい」
みいが目を丸くする。
「ここから?」
「ここなら学校に近い。朝も楽だし、帰りも遅くなりにくい。子犬たちもいるし、シリウスもいる」
「……いいの?」
その問いに、ショータは少しだけ言葉を探した。
特別なことを言うつもりはなかった。
ただ、そうした方が自然だと思っただけだ。
「もう普通に来てるだろ」
みいは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「たしかに」
「受かってから考えてもいいけど、先に決めといた方が楽だ。必要なものも揃えられるし」
「じゃあ、受かったら……ここから通っていい?」
「受からなくても来るなとは言わない」
そう言うと、みいは今度こそはっきり笑った。
腕の中の子犬までつられたように尻尾を振る。
「じゃあ受かる」
「受かれ」
短いやり取りだったが、それで十分だった。
みいがここにいることも、これから先ここから学校へ通うかもしれないことも、妙に自然に思えた。
そのとき、ふっと外の空気が変わった。
子犬たちが一瞬だけ動きを止める。
みいもつられて顔を上げた。
開け放した戸口の向こう、軒下の影に白い大きな影があった。
シリウスだった。
子犬たちには慣れていても、みいがシリウスと顔を合わせるのはこれが初めてだった。
白銀の毛並みは外の光を受けて淡く光り、静かな目がまっすぐこちらを見ている。
大きい。家の中に収まるような大きさではない。
子犬たちとはまるで違う。
遊び相手ではなく、群れの境を守る獣の目だった。
みいは抱えていた子犬を落としそうになるほど驚きはしなかった。
ただ、ぴたりと動きを止めた。
「……この子が、シリウス?」
声は少しだけ小さかった。
ショータはみいの横まで歩いていき、短くうなずく。
「ああ」
それから、戸口の向こうを見る。
「シリウス。みいだ」
それだけだった。
大丈夫だとも、行けとも言わない。
無理に近づけるつもりもなかった。
シリウスはしばらく軒下に伏せたまま、みいを見ていた。
やがて静かに立ち上がり、一歩、また一歩と土間の方へ近づいてくる。
みいは逃げなかったが、子犬を抱く腕に少しだけ力が入った。
白い鼻先が、戸口のところまで寄る。
中へ踏み込むことはせず、境目のところでゆっくりと空気を吸う。
服の匂い、子犬たちの匂い、ショータの匂い。
たぶん、そういうものを確かめているのだろう。
長くはなかった。
シリウスは一度だけみいの手に鼻先を触れさせると、それ以上何もせず、すっと身を引いた。
そしてまた軒下へ戻り、玄関脇の土間にゆっくりと伏せる。
そこがもう、自分の席だと決めたみたいだった。
それを見て、みいがようやく息を吐いた。
「……さわっても、いい?」
「今はまだ、向こうがいいって言ったらな」
ショータがそう言うと、みいは素直にうなずいた。
無理に距離を詰めようとはしない。
その代わり、少しだけ嬉しそうにシリウスを見た。
「きれい」
その一言に、シリウスの耳がわずかに動いた気がした。
子犬たちはすぐにまた騒ぎ始め、家の中はあっという間に賑やかさを取り戻した。
みいは今度は勝手知ったる様子で水皿の位置を気にし始め、ショータは倒れそうな箱を壁際へ寄せる。
誰かが大きな声で「ここに住むなら棚が足りないな」と言い、別の誰かが「先に掃除だろ」と返した。
そんなやり取りの中で、爆炎ハウスは少しずつただの空き家ではなくなっていった。
夕方になって人の出入りが落ち着くと、家の中は急に広く感じられた。
窓の外は赤く、床には長い影が伸びている。
子犬たちは遊び疲れてあちこちで丸くなり、外の軒下にはシリウスの白い影が静かに伏せていた。
戸口が開くたびに見えるその姿は、家の外にありながら、もうこの場所の一部だった。
みいも帰る支度をしながら、何度も家の中を振り返っている。
「ここ、ほんとに使うんだね」
「……たぶん」
「たぶんじゃなくて」
みいは少し笑って、それから真面目な顔になった。
「ここからなら、学校、行きやすいよ」
その言い方は、お願いというより確認に近かった。
ショータはすぐには答えなかった。
できるかどうかを考えていた。
やるなら何が要るか、足りないものは何か、朝は何時に起きるか。
そういうことばかりが先に浮かぶ。
けれど、それを考えている時点で、もうまったく無理だとは思っていないのだと自分でも分かった。
「……そうだな」
短く返すと、みいは満足したようにうなずいた。
夜、みんなが帰ってから、ショータは一人で家の中を見回した。
机の上には卒業証書。壁には掛けたばかりの鍵。隅には運び込んだ荷物。寝息を立てる子犬たち。
そして、開けた戸口の向こう、軒下にはシリウスがいた。
静かだった。
昨日までと同じようでいて、もう同じではない静けさだった。
学校を卒業した。
家の鍵をもらった。
ここで暮らしていくのだろう。
たぶん、みいもここから学校へ通うことになる。
そうなれば、自分一人の都合だけでは回らない。
ショータは窓際に立って、暗くなり始めた外を見た。
広い、と思った。
同時に、ちゃんとしないと回らない、とも思った。
けれど不思議と、嫌ではなかった。
背後で子犬の一匹が寝返りを打つ。
外ではシリウスがわずかに身じろぎし、また静かになる。
ショータは振り返って、その気配を確かめた。
「……明日から、か」
誰にともなくそう言って、壁に掛けた鍵をもう一度見た。
卒業は終わりじゃなかった。
たぶん、ここから先の暮らし方が変わる、その始まりだった。




