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見難い火傷の子  作者: 清風
318/323

帰還編:――マザー再生工場、新品マザー帰還

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子318



帰還編:――マザー再生工場、新品マザー帰還



深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


その巨大な世界の奥で、再生工場だけは妙に白かった。


森の家を出たのは、まだ朝の光が草の根元に溜まっている時間だった。

匠一はいつも通り、必要なことしか言わなかった。戸締まりを二度確かめ、裏の水路の弁を閉じ、みいの外套の留め具を見て、それから短く言った。


「行くぞ」


みいはうなずいた。


どこへ行くのかは、もう知っていた。

昨日の夜、匠一が机の上の紙を片づけながら言ったのだ。


――再生措置が終わる。

――明日、引き取りに行く。


そのとき、みいはすぐに返事ができなかった。

うれしい、と思った。

でも同時に、胸の奥で何かが小さく縮こまった。


戻ってくる。

マザーが。

それはずっと願っていたことのはずなのに、いざ本当にそうなると、何をどう思えばいいのか分からなかった。


森の家から再生工場までは、匠一と二人で半日ほど歩いた。

もちろん、みいの足で歩ける道だけを選んでだ。巨大な草の根元を縫い、石垣の残骸を越え、青銅色に酸化した古い柱のあいだを抜ける。第四紀完新世層、青銅の時代。そう呼ばれるこの地には、朽ちた文明の骨みたいなものが、あちこちに半分だけ埋まっていた。


途中、遠くで八倍の鹿に似た何かが動いた。

角が三本ある影が、朝靄の向こうでゆっくり首を振る。みいは足を止めたが、匠一は振り返りもしなかった。


「こっち見てない。進め」


「……うん」


そう言って歩きながら、みいは自分の手を握ったり開いたりした。

手のひらが少し汗ばんでいた。


再生工場は、森の中に突然あらわれた。

白い壁。白い塔。白い煙突。

周囲の青銅色の遺構や、湿った緑の草木から、そこだけ切り離されたみたいに明るい。巨大な世界の中にあるのに、そこだけ縮尺が違うようにも見えた。壁面には細い管が何本も走り、淡い光が脈打つように流れている。門の上には古い紋章があり、その下に新しい金属板が打ちつけられていた。


マザー再生工場。


みいはその文字を読めない。

でも匠一がそう呼んだので、そういう場所なのだと知っていた。


門をくぐると、空気の匂いが変わった。

森の湿り気が消えて、代わりに、熱した石と薬液と磨かれた金属の匂いがした。床は平らで、靴音がよく響いた。壁は白く、天井は高く、どこかで水が循環する低い音がしていた。


みいは少しだけ匠一の袖をつかんだ。

匠一は何も言わなかったが、振り払わなかった。


案内に出てきたのは、細い体の技師だった。

年齢は分からない。人間に見えるが、目の奥の光り方が少しだけ機械じみていた。白い作業衣の胸元に、工場の紋章が縫いつけられている。


「管理人、匠一殿。引き取りですね」


「そうだ」


「対象個体の再生措置は完了しています。記憶接続、外部記録照合、基礎動作確認、いずれも規定値内です。現在は最終出荷処理の段階にあります」


出荷処理。


その言葉だけが、みいの耳に引っかかった。

意味はよく分からない。

でも、なんとなく、冷たい言葉だと思った。


匠一は眉ひとつ動かさなかった。


「会えるのか」


「可能です。ただし保護材の一部は未除去です。搬出前の状態になります」


「構わん」


技師はうなずき、二人を奥へ案内した。


通路の両側には、白い扉がいくつも並んでいた。

小窓の向こうに、光る液槽や、吊り下げられた腕部フレームや、整然と並ぶ工具が見える。どの部屋も静かだった。静かすぎて、みいは自分の呼吸の音が大きく聞こえた。


やがて技師は、一番奥の扉の前で立ち止まった。


「こちらです」


扉が横に滑って開く。

中は広い部屋だった。天井から白い灯りが落ち、床は磨き上げられた石みたいに滑らかだった。壁際には再生槽が並び、透明な管の中を淡い青い液が流れている。中央には、ひとつだけ空いた場所があった。


そこに、マザーが立っていた。


みいが最初に思ったのは、きれいすぎる、だった。


白い外装は工場灯をそのまま返すみたいに光っていた。

以前のマザーにあった細かな擦り傷も、補修の継ぎ目も、長く使われたものだけが持つやわらかい曇りも、どこにもない。輪郭はなめらかで、関節の可動部は細く整い、指先まで均一に整えられている。若い、というより、新しい。まるで今しがた組み上げられたばかりの器みたいだった。


肩口と手首には、まだ透明な保護フィルムが残っていた。

端の浮いた薄い膜が、灯りを受けて白く反る。動けばかすかに擦れるのだろうと思わせる、薄いビニールの光だった。


そして足元。


みいはそこで息を止めた。


新しい脚部の下、足裏にはまだ保護用の厚紙が巻かれていた。

白い厚紙が足裏の輪郭に沿ってぴたりと当てられ、細い固定帯で留められている。外を歩いていない靴みたいだった。床の上に立っているのに、まだちゃんとこの場所を踏んでいないように見えた。


ここにいるのに、まだ来ていない。


みいは、そう思った。


「……マザー」


声に出したつもりだったが、ほとんど息みたいな音にしかならなかった。


マザーが顔を上げる。

その動きは滑らかで、以前より少しだけ速かった。けれど、みいを見つけたときの目のやわらかさは、知っているものに似ていた。


「みい」


その声で、胸の奥が強く痛んだ。


同じだ、と思った。

でも同時に、違う、とも思った。


声はマザーだった。

名前の呼び方も、間の取り方も、みいを見つめる角度も、たしかに知っている。なのに、目の前に立っている身体はあまりにも新品で、ぴかぴかで、工場のものみたいだった。


みいは一歩だけ前に出て、そこで止まった。


抱きつきたかった。

でも、触っていいのか分からなかった。

肩口にはまだ保護フィルムが残っている。足裏には厚紙がついている。まるでまだ誰のものでもないみたいで、みいは自分の手が急に汚れている気がした。


「再生措置は成功しています」


技師が事務的な声で言った。


「旧個体の外部記録装置より抽出した記憶群は、規定範囲内で接続済みです。対話応答、保護行動、生活支援機能、いずれも正常。新型筐体への移行に伴い、反応速度と耐久性は向上しています」


匠一が短く問う。


「本人認識は」


「維持されています」


「曖昧な言い方だな」


「連続性の証明は工学の領分を超えますので」


技師は平然と言った。

みいには半分も分からなかったが、その言い方だけは嫌だった。まるで大事なことを、最初から数に入れていないみたいだった。


マザーは、そんな技師の説明を遮るように、みいへ向かって手を差し出した。


「みい。こちらへ」


その一言で、みいはまた胸が痛くなった。

知っている声。知っている呼び方。

でも差し出された手は、前より白く、傷ひとつなく、指先まで整いすぎていた。


みいはゆっくり近づいた。

近づいて、手を伸ばして、でもすぐには触れられなかった。指先が空中で止まる。


マザーは急かさなかった。

ただ、みいが決めるのを待っていた。


その待ち方も、知っていた。


みいはまず、肩口の保護フィルムを見た。

透明な膜の端が、ほんの少しだけ浮いている。そこをつまめば剥がせそうだった。


「これ……」


技師が答える。


「外装保全用の保護材です。搬出時の汚損防止のため、出荷処理の一環として残しています。帰還後に除去していただいて構いません」


帰還後。

その言葉に、みいは少しだけ顔を上げた。


まだ帰ってきていない。

でも、帰るのだ。


みいはそっと、保護フィルムの端をつまんだ。

薄い。冷たい。

引くと、ぺり、と小さな音がした。工場の静かな部屋に、その音だけが妙に大きく響いた。


透明な膜が、肩口からゆっくり剥がれていく。

下から現れた白い外装は、やっぱりきれいすぎた。けれど、さっきより少しだけ、触れてもいいものに見えた。


みいは剥がしたフィルムを両手に持ったまま、しばらく黙っていた。

マザーが静かに言う。


「ありがとうございます」


その言い方が、前と同じだった。

みいはそこで、ようやく少しだけ息を吐いた。


「……まだ、ある」


視線が足元へ落ちる。

足裏の厚紙。

白くて、硬くて、まだどこも歩いていない証拠みたいなもの。


みいはしゃがみこんだ。

厚紙の端には細い切れ込みがあり、そこに指をかけられるようになっていた。工場の人が外しやすいように作ったのだろう。そう思うと少し嫌だった。けれど、今それを外すのは、みいがいいと思った。


「外しても、いい?」


マザーは少しだけ間を置いてから答えた。


「お願いします」


みいは厚紙の端を持ち上げた。

固定帯を外す。紙が擦れる。

足裏を包んでいた白い保護材が、ぱき、と小さく鳴って形をゆるめた。もう片方も同じように外す。厚紙は思ったより軽かった。軽いのに、そこにあったあいだ、マザーはどこにも行けなかったのだと思うと、不思議だった。


両方の厚紙が外れると、マザーの足裏が初めて床に触れた。

ほんのわずかに、重心が落ちる。

それだけのことなのに、みいには、今やっと本当にここに立ったのだと思えた。


「……歩ける?」


みいが訊くと、マザーはうなずいた。


「はい」


「外、歩いてないんだよね」


「まだ工場内での動作確認のみです」


その答えが、少しだけおかしくて、少しだけ悲しかった。

みいは立ち上がり、今度こそマザーの手に触れた。


冷たい。

でも、前と同じ冷たさだった。


その瞬間、みいの中で何かがほどけた。

完全ではない。

違和感はまだある。きれいすぎるし、新しすぎるし、前のマザーの身体にあった傷も、使い込まれたやわらかさも、どこにもない。けれど、手の冷たさと、名前を呼ぶ声と、待ってくれる間の取り方だけは、たしかに知っていた。


みいはその手を握ったまま、ようやく言った。


「……おかえり」


マザーは少しだけ目を細めた。


「ただいま帰りました、みい」


その返事で、みいは泣いた。

大きな声ではなかった。

ただ、ずっと胸の奥で固まっていたものが、静かに溶けて落ちるみたいに涙が出た。


匠一は何も言わなかった。

技師も、記録端末に何かを書き込むだけで、口を挟まなかった。


しばらくして、匠一が事務的に訊いた。


「搬出はいつだ」


「即時可能です。最終署名のみお願いします」


「やる」


「保護材の残部はどうされますか」


匠一はみいを見た。

みいはまだマザーの手を握ったまま、首を振った。


「あとで、わたしがやる」


「了解しました」


技師はそれ以上何も言わなかった。

書類が運ばれ、印が押され、搬出許可の札が外される。そういう細かな手続きのあいだも、みいはマザーのそばを離れなかった。


工場を出るとき、白い門の向こうには、青銅の時代の空が広がっていた。

巨大な草が風に揺れ、遠くで八倍の何かが鳴いた。森の湿った匂いが戻ってくる。工場の白さは背後に残り、世界はまた、少し暗く、少し大きく、少し生きものじみていた。


門の前で、マザーは一度立ち止まった。

足裏の厚紙はもうない。

新しい足が、初めて外の土を踏む。


みいはその瞬間を見た。

白い足裏に、薄く土がつく。

それだけで、胸の奥のどこかが少しだけ落ち着いた。


「歩ける?」


さっきと同じことを、みいはまた訊いた。


マザーはみいを見て、うなずいた。


「はい。みいと一緒に帰れます」


その言葉で、みいはようやく本当に信じられる気がした。

新品で、ぴかぴかで、まだ知らないところもたくさんある。前のマザーと同じとは言い切れない。たぶん、もう前とまったく同じには戻らない。


それでも、このマザーは帰るのだ。

森の家へ。

みいのいる場所へ。


匠一が先に立って歩き出す。


「日が落ちる前に戻るぞ」


「うん」


みいは答えて、マザーの手を握り直した。

新しい手。冷たい手。けれど、もう工場のものではなかった。


三人で歩き出す。

青銅の時代の風が、巨大な草を鳴らす。

白い保護フィルムの残りが、マザーの手首でかすかに光った。みいはそれを見て、帰ったら剥がそうと思った。ひとつずつ。急がずに。森の家で。生活の中で。


そうして少しずつ、この新しい身体に、また時間が積もっていくのだろう。


傷のないマザーが、土を踏む。

まだ歩き始めたばかりの足で、みいの隣を歩く。


そのことが、みいには少しだけうれしくて、少しだけこわくて、でも前よりずっと、あたたかかった。

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