帰還編:――マザー再生工場、新品マザー帰還
見難い火傷の子318
帰還編:――マザー再生工場、新品マザー帰還
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
その巨大な世界の奥で、再生工場だけは妙に白かった。
森の家を出たのは、まだ朝の光が草の根元に溜まっている時間だった。
匠一はいつも通り、必要なことしか言わなかった。戸締まりを二度確かめ、裏の水路の弁を閉じ、みいの外套の留め具を見て、それから短く言った。
「行くぞ」
みいはうなずいた。
どこへ行くのかは、もう知っていた。
昨日の夜、匠一が机の上の紙を片づけながら言ったのだ。
――再生措置が終わる。
――明日、引き取りに行く。
そのとき、みいはすぐに返事ができなかった。
うれしい、と思った。
でも同時に、胸の奥で何かが小さく縮こまった。
戻ってくる。
マザーが。
それはずっと願っていたことのはずなのに、いざ本当にそうなると、何をどう思えばいいのか分からなかった。
森の家から再生工場までは、匠一と二人で半日ほど歩いた。
もちろん、みいの足で歩ける道だけを選んでだ。巨大な草の根元を縫い、石垣の残骸を越え、青銅色に酸化した古い柱のあいだを抜ける。第四紀完新世層、青銅の時代。そう呼ばれるこの地には、朽ちた文明の骨みたいなものが、あちこちに半分だけ埋まっていた。
途中、遠くで八倍の鹿に似た何かが動いた。
角が三本ある影が、朝靄の向こうでゆっくり首を振る。みいは足を止めたが、匠一は振り返りもしなかった。
「こっち見てない。進め」
「……うん」
そう言って歩きながら、みいは自分の手を握ったり開いたりした。
手のひらが少し汗ばんでいた。
再生工場は、森の中に突然あらわれた。
白い壁。白い塔。白い煙突。
周囲の青銅色の遺構や、湿った緑の草木から、そこだけ切り離されたみたいに明るい。巨大な世界の中にあるのに、そこだけ縮尺が違うようにも見えた。壁面には細い管が何本も走り、淡い光が脈打つように流れている。門の上には古い紋章があり、その下に新しい金属板が打ちつけられていた。
マザー再生工場。
みいはその文字を読めない。
でも匠一がそう呼んだので、そういう場所なのだと知っていた。
門をくぐると、空気の匂いが変わった。
森の湿り気が消えて、代わりに、熱した石と薬液と磨かれた金属の匂いがした。床は平らで、靴音がよく響いた。壁は白く、天井は高く、どこかで水が循環する低い音がしていた。
みいは少しだけ匠一の袖をつかんだ。
匠一は何も言わなかったが、振り払わなかった。
案内に出てきたのは、細い体の技師だった。
年齢は分からない。人間に見えるが、目の奥の光り方が少しだけ機械じみていた。白い作業衣の胸元に、工場の紋章が縫いつけられている。
「管理人、匠一殿。引き取りですね」
「そうだ」
「対象個体の再生措置は完了しています。記憶接続、外部記録照合、基礎動作確認、いずれも規定値内です。現在は最終出荷処理の段階にあります」
出荷処理。
その言葉だけが、みいの耳に引っかかった。
意味はよく分からない。
でも、なんとなく、冷たい言葉だと思った。
匠一は眉ひとつ動かさなかった。
「会えるのか」
「可能です。ただし保護材の一部は未除去です。搬出前の状態になります」
「構わん」
技師はうなずき、二人を奥へ案内した。
通路の両側には、白い扉がいくつも並んでいた。
小窓の向こうに、光る液槽や、吊り下げられた腕部フレームや、整然と並ぶ工具が見える。どの部屋も静かだった。静かすぎて、みいは自分の呼吸の音が大きく聞こえた。
やがて技師は、一番奥の扉の前で立ち止まった。
「こちらです」
扉が横に滑って開く。
中は広い部屋だった。天井から白い灯りが落ち、床は磨き上げられた石みたいに滑らかだった。壁際には再生槽が並び、透明な管の中を淡い青い液が流れている。中央には、ひとつだけ空いた場所があった。
そこに、マザーが立っていた。
みいが最初に思ったのは、きれいすぎる、だった。
白い外装は工場灯をそのまま返すみたいに光っていた。
以前のマザーにあった細かな擦り傷も、補修の継ぎ目も、長く使われたものだけが持つやわらかい曇りも、どこにもない。輪郭はなめらかで、関節の可動部は細く整い、指先まで均一に整えられている。若い、というより、新しい。まるで今しがた組み上げられたばかりの器みたいだった。
肩口と手首には、まだ透明な保護フィルムが残っていた。
端の浮いた薄い膜が、灯りを受けて白く反る。動けばかすかに擦れるのだろうと思わせる、薄いビニールの光だった。
そして足元。
みいはそこで息を止めた。
新しい脚部の下、足裏にはまだ保護用の厚紙が巻かれていた。
白い厚紙が足裏の輪郭に沿ってぴたりと当てられ、細い固定帯で留められている。外を歩いていない靴みたいだった。床の上に立っているのに、まだちゃんとこの場所を踏んでいないように見えた。
ここにいるのに、まだ来ていない。
みいは、そう思った。
「……マザー」
声に出したつもりだったが、ほとんど息みたいな音にしかならなかった。
マザーが顔を上げる。
その動きは滑らかで、以前より少しだけ速かった。けれど、みいを見つけたときの目のやわらかさは、知っているものに似ていた。
「みい」
その声で、胸の奥が強く痛んだ。
同じだ、と思った。
でも同時に、違う、とも思った。
声はマザーだった。
名前の呼び方も、間の取り方も、みいを見つめる角度も、たしかに知っている。なのに、目の前に立っている身体はあまりにも新品で、ぴかぴかで、工場のものみたいだった。
みいは一歩だけ前に出て、そこで止まった。
抱きつきたかった。
でも、触っていいのか分からなかった。
肩口にはまだ保護フィルムが残っている。足裏には厚紙がついている。まるでまだ誰のものでもないみたいで、みいは自分の手が急に汚れている気がした。
「再生措置は成功しています」
技師が事務的な声で言った。
「旧個体の外部記録装置より抽出した記憶群は、規定範囲内で接続済みです。対話応答、保護行動、生活支援機能、いずれも正常。新型筐体への移行に伴い、反応速度と耐久性は向上しています」
匠一が短く問う。
「本人認識は」
「維持されています」
「曖昧な言い方だな」
「連続性の証明は工学の領分を超えますので」
技師は平然と言った。
みいには半分も分からなかったが、その言い方だけは嫌だった。まるで大事なことを、最初から数に入れていないみたいだった。
マザーは、そんな技師の説明を遮るように、みいへ向かって手を差し出した。
「みい。こちらへ」
その一言で、みいはまた胸が痛くなった。
知っている声。知っている呼び方。
でも差し出された手は、前より白く、傷ひとつなく、指先まで整いすぎていた。
みいはゆっくり近づいた。
近づいて、手を伸ばして、でもすぐには触れられなかった。指先が空中で止まる。
マザーは急かさなかった。
ただ、みいが決めるのを待っていた。
その待ち方も、知っていた。
みいはまず、肩口の保護フィルムを見た。
透明な膜の端が、ほんの少しだけ浮いている。そこをつまめば剥がせそうだった。
「これ……」
技師が答える。
「外装保全用の保護材です。搬出時の汚損防止のため、出荷処理の一環として残しています。帰還後に除去していただいて構いません」
帰還後。
その言葉に、みいは少しだけ顔を上げた。
まだ帰ってきていない。
でも、帰るのだ。
みいはそっと、保護フィルムの端をつまんだ。
薄い。冷たい。
引くと、ぺり、と小さな音がした。工場の静かな部屋に、その音だけが妙に大きく響いた。
透明な膜が、肩口からゆっくり剥がれていく。
下から現れた白い外装は、やっぱりきれいすぎた。けれど、さっきより少しだけ、触れてもいいものに見えた。
みいは剥がしたフィルムを両手に持ったまま、しばらく黙っていた。
マザーが静かに言う。
「ありがとうございます」
その言い方が、前と同じだった。
みいはそこで、ようやく少しだけ息を吐いた。
「……まだ、ある」
視線が足元へ落ちる。
足裏の厚紙。
白くて、硬くて、まだどこも歩いていない証拠みたいなもの。
みいはしゃがみこんだ。
厚紙の端には細い切れ込みがあり、そこに指をかけられるようになっていた。工場の人が外しやすいように作ったのだろう。そう思うと少し嫌だった。けれど、今それを外すのは、みいがいいと思った。
「外しても、いい?」
マザーは少しだけ間を置いてから答えた。
「お願いします」
みいは厚紙の端を持ち上げた。
固定帯を外す。紙が擦れる。
足裏を包んでいた白い保護材が、ぱき、と小さく鳴って形をゆるめた。もう片方も同じように外す。厚紙は思ったより軽かった。軽いのに、そこにあったあいだ、マザーはどこにも行けなかったのだと思うと、不思議だった。
両方の厚紙が外れると、マザーの足裏が初めて床に触れた。
ほんのわずかに、重心が落ちる。
それだけのことなのに、みいには、今やっと本当にここに立ったのだと思えた。
「……歩ける?」
みいが訊くと、マザーはうなずいた。
「はい」
「外、歩いてないんだよね」
「まだ工場内での動作確認のみです」
その答えが、少しだけおかしくて、少しだけ悲しかった。
みいは立ち上がり、今度こそマザーの手に触れた。
冷たい。
でも、前と同じ冷たさだった。
その瞬間、みいの中で何かがほどけた。
完全ではない。
違和感はまだある。きれいすぎるし、新しすぎるし、前のマザーの身体にあった傷も、使い込まれたやわらかさも、どこにもない。けれど、手の冷たさと、名前を呼ぶ声と、待ってくれる間の取り方だけは、たしかに知っていた。
みいはその手を握ったまま、ようやく言った。
「……おかえり」
マザーは少しだけ目を細めた。
「ただいま帰りました、みい」
その返事で、みいは泣いた。
大きな声ではなかった。
ただ、ずっと胸の奥で固まっていたものが、静かに溶けて落ちるみたいに涙が出た。
匠一は何も言わなかった。
技師も、記録端末に何かを書き込むだけで、口を挟まなかった。
しばらくして、匠一が事務的に訊いた。
「搬出はいつだ」
「即時可能です。最終署名のみお願いします」
「やる」
「保護材の残部はどうされますか」
匠一はみいを見た。
みいはまだマザーの手を握ったまま、首を振った。
「あとで、わたしがやる」
「了解しました」
技師はそれ以上何も言わなかった。
書類が運ばれ、印が押され、搬出許可の札が外される。そういう細かな手続きのあいだも、みいはマザーのそばを離れなかった。
工場を出るとき、白い門の向こうには、青銅の時代の空が広がっていた。
巨大な草が風に揺れ、遠くで八倍の何かが鳴いた。森の湿った匂いが戻ってくる。工場の白さは背後に残り、世界はまた、少し暗く、少し大きく、少し生きものじみていた。
門の前で、マザーは一度立ち止まった。
足裏の厚紙はもうない。
新しい足が、初めて外の土を踏む。
みいはその瞬間を見た。
白い足裏に、薄く土がつく。
それだけで、胸の奥のどこかが少しだけ落ち着いた。
「歩ける?」
さっきと同じことを、みいはまた訊いた。
マザーはみいを見て、うなずいた。
「はい。みいと一緒に帰れます」
その言葉で、みいはようやく本当に信じられる気がした。
新品で、ぴかぴかで、まだ知らないところもたくさんある。前のマザーと同じとは言い切れない。たぶん、もう前とまったく同じには戻らない。
それでも、このマザーは帰るのだ。
森の家へ。
みいのいる場所へ。
匠一が先に立って歩き出す。
「日が落ちる前に戻るぞ」
「うん」
みいは答えて、マザーの手を握り直した。
新しい手。冷たい手。けれど、もう工場のものではなかった。
三人で歩き出す。
青銅の時代の風が、巨大な草を鳴らす。
白い保護フィルムの残りが、マザーの手首でかすかに光った。みいはそれを見て、帰ったら剥がそうと思った。ひとつずつ。急がずに。森の家で。生活の中で。
そうして少しずつ、この新しい身体に、また時間が積もっていくのだろう。
傷のないマザーが、土を踏む。
まだ歩き始めたばかりの足で、みいの隣を歩く。
そのことが、みいには少しだけうれしくて、少しだけこわくて、でも前よりずっと、あたたかかった。




