空白編:匠一との生活、みいの変化、マザー不在の日常
見難い火傷の子317
空白編:匠一との生活、みいの変化、マザー不在の日常
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
森の家は、その巨大な世界の片隅に、ひっそりと埋め込まれるように建っていた。
爆炎別荘《森の家》。
そう呼ばれてはいるが、みいには別荘という言葉の意味がよく分からなかった。石と木でできた小さな家で、屋根は深い緑の苔に覆われ、窓はどれも分厚い鎧戸つきだった。家の裏には細い水路が流れ、表には、八倍の大きさの草が風に揺れていた。一本一本が木の枝みたいに太く、葉の影だけで空が暗くなる。
朝になると、匠一が起こしに来る。
「起きろ」
それだけだった。
マザーのように、額に触れて熱を見たり、毛布を整えたりはしない。ただ、扉を二回叩いて、返事がなくても開ける。見た目だけなら五歳くらいの子どもにしか見えないくせに、その動きにはためらいがなかった。寝台の脇まで来て、まだ起きないと、容赦なく窓の鎧戸を開ける。
朝の光は鋭かった。巨大な葉の隙間から落ちてくるせいで、細く、刃みたいに部屋へ差し込む。
「まぶしい……」
「起きるにはちょうどいい」
匠一はそう言って、もう次の仕事へ行ってしまう。
最初の数日は、みいはそれが少し怖かった。
マザーは、起こすときに必ず名前を呼んだ。声の高さも、毛布を持ち上げる手つきも、全部決まっていた。だから目を開ける前から、朝だと分かった。
ここでは、朝はただ来るだけだった。
起きて、着替えて、顔を洗って、食卓へ行く。
食卓には、もう湯気の立つ皿が置かれている。根菜の煮込み、平たいパン、薄い色のスープ。匠一は椅子に座って待っていることもあれば、立ったまま棚を漁っていることもあった。管理人だから、と本人は言った。何を管理しているのか、みいにはまだよく分からなかったが、匠一は一日じゅう何かを見て、何かを確かめ、何かを書きつけていた。
戸締まり。
水路の流量。
裏手の罠。
貯蔵庫の温度。
外壁に残る爪痕。
冷却箱の稼働音。
それから、みい。
「食え」
「……うん」
「噛め」
「噛んでる」
「飲み込む前に喋るな」
そういうことを言う。
優しくはない。
でも、放ってもおかない。
みいは最初、匠一のことをどう見ればいいのか分からなかった。
小さい。自分より少し大きいくらいにしか見えない。なのに、家の鍵は全部匠一が持っていて、火を扱うのも、刃物を使うのも、外へ出る時間を決めるのも匠一だった。夜になると見回りもする。眠そうな顔ひとつせず、窓の外を見て、耳を澄ませて、時々、みいには聞こえない音に反応する。
見た目だけなら、保護される側なのに。
中身は、完全に大人だった。
「あの」
三日目の朝、みいはスープの匙を持ったまま言った。
「なんだ」
「どうして、ここなの」
匠一はパンをちぎる手を止めなかった。
「爆炎ハウスはうるさい。ソラは揺れる。あそこは子どもを置く場所じゃない」
「……ここは?」
「静かだ」
それだけ言って、匠一はスープを飲んだ。
みいも黙ってスープを飲んだ。少しぬるくなっていた。
静かだ、というのは本当だった。森の家には、必要な音しかなかった。水路の流れる音。火のはぜる音。食器の触れ合う音。匠一が紙をめくる音。外で巨大な何かが草を踏む、遠い音。
マザーの声だけが、なかった。
そのことに気づくのは、いつも不意だった。
朝、名前を呼ばれないとき。
食後に口元を拭く布が差し出されないとき。
夜、毛布の端がきちんと折り返されていないとき。
熱を出していないか、額に手が来ないとき。
いない、と思う。
そのたびに、胸の奥が少しだけ冷たくなった。
泣くほどではない。
でも、何も感じないほどでもない。
その中途半端さが、みいにはいちばん困った。
森の家での生活は、規則正しかった。
朝起きて、食べて、片づけて、少しだけ家の中の仕事をして、昼を食べて、眠くなれば昼寝をして、夕方には戸を閉める。外へ出るのは匠一が一緒のときだけだった。裏の水路まで。家の周りの石垣まで。見晴らしのいい切り株まで。そこから先は駄目だと決まっていた。
「どうして?」
「でかいのがいる」
「八倍の?」
「八倍の」
匠一は真顔で言った。
みいは少しだけ笑った。
匠一も笑うかと思ったけれど、笑わなかった。
その代わり、午後に外へ出たとき、地面に残った足跡を見せてくれた。
丸く深くえぐれた跡が、湿った土にいくつも並んでいた。みいの身体がすっぽり入ってしまいそうな大きさだった。
「……でかい」
「言っただろ」
「これ、なに」
「鹿に似た何か」
「似た何か」
「角が三本ある」
みいは足跡を見た。
見ただけで、もう十分だった。森の家の石垣の内側が、急に大事なものに思えた。
その日から、みいは戸締まりを手伝うようになった。
夕方になると、匠一の後ろをついて回って、窓の鎧戸を閉める。留め金を下ろす。床下の通気口を確かめる。最後に玄関の棒閂を一緒に落とす。
「重い」
「両手使え」
「使ってる」
「腰で押せ」
「こう?」
「そうだ」
匠一は褒めなかった。
でも、駄目とも言わなかった。
それだけで、少しうれしかった。
みいは少しずつ、この家の中でやることを覚えた。
食器を運ぶ。洗った布を干す。薪を細いものと太いものに分ける。冷却箱には勝手に触らない。裏の扉は二重に閉める。匂いの強い薬瓶は棚の上。匠一が机に広げている紙には、飲み物をこぼさない。
「それ、なに書いてるの」
ある夕方、みいが訊くと、匠一は紙から目を上げずに答えた。
「記録」
「なんの」
「お前の」
みいは少し黙った。
「……わたしの?」
「食った量。寝た時間。火傷の具合。咳の回数。泣いた回数は数えてない」
最後の一言だけ、少し遅れて付け足された。
みいは椅子に座ったまま、自分の腕を見た。見難い火傷の痕は、まだ赤黒く、ところどころ皮膚が引きつれていた。森の家へ来てから、匠一は毎晩、薬を塗った。手つきは雑に見えるのに、痛いところはちゃんと避ける。包帯を巻く速さも、妙に慣れていた。
「匠一」
「なんだ」
「なんで、そんなにできるの」
「管理人だからだ」
「なんでも管理人で済ませる」
「だいたい済む」
みいは少しだけ笑った。
今度も匠一は笑わなかったけれど、薬瓶の蓋を閉める音が、少しだけやわらかかった。
夜は長かった。
第十六エリアの夜は、草の影が濃く、窓の外を何かが横切るたびに家全体が息を潜めるみたいだった。森の家は頑丈だったが、巨大な世界の中では小さかった。みいは寝台の中で目を開けたまま、外の音を聞くことがあった。
ざり、と草を擦る音。
遠くで鳴く、低い声。
水路の流れ。
それから、廊下を歩く足音。
匠一だ、と分かるようになるまで、少しかかった。
マザーの足音とは違う。
マザーの足音は、もっと静かで、もっと一定だった。
匠一の足音は軽いのに、止まる場所が正確だった。窓の前。玄関。裏口。みいの部屋の前。そこで一度だけ止まって、また離れていく。
見に来ているのだ、と分かったのは、五日目の夜だった。
眠れなくて、みいがそっと扉を開けると、廊下の向こうで匠一が振り返った。手には小さな灯りを持っていた。灯りの色で、顔が半分だけ金色に見えた。
「どうした」
「……ねむれない」
「昼寝したからだ」
「したけど」
匠一は少し考えて、それから顎で居間を示した。
「来い」
居間の火は小さくなっていた。
匠一は炉に薪を一本だけ足し、みいには毛布を投げてよこした。受け損ねて、毛布が顔に当たる。
「雑」
「取れたろ」
「当たった」
「死んでない」
そう言いながら、匠一は椅子に座った。みいも向かいに座る。火の音だけがしていた。
しばらくしてから、みいは言った。
「マザー、いないね」
匠一はすぐには答えなかった。
火がぱち、と鳴った。
「いない」
それだけだった。
でも、否定しなかった。
ごまかしもしなかった。
みいは毛布を握った。
「戻る?」
匠一は火を見たまま言った。
「分からん」
「……そっか」
「ただ」
そこで匠一は一度言葉を切った。
「残ってるものはある」
みいは顔を上げた。
匠一はそれ以上言わなかった。たぶん、今はそれで十分だと思ったのだろう。みいにも、なんとなく分かった。分からないことが多すぎるときは、少しだけ分かることがあればいい。
残ってるものはある。
その言葉を、みいはその夜、寝台の中で何度も繰り返した。
次の日から、みいは少しだけ変わった。
朝、起こされる前に目を覚ます日があった。
食事を残さなくなった。
戸締まりの順番を覚えた。
薬を塗る前に、自分から袖をまくるようになった。
外へ出たとき、巨大な草の影を見上げても、すぐには立ち止まらなくなった。
それでも、ふとした瞬間にマザーを探した。
食卓の向かい。
廊下の角。
水を汲む音。
名前を呼ぶ声。
いない。
そのたびに、いないことを知り直す。
けれど、森の家での一日は、いないままでも進んでいった。
ある夕方、みいは自分から言った。
「棒閂、やる」
匠一は少しだけ眉を上げた。
「重いぞ」
「できる」
「落とすな」
「落とさない」
玄関の棒閂は、相変わらず重かった。
みいは両手で持ち上げ、腰で押して、受け金に落とした。ごとん、と鈍い音がして、家が閉じる。
その音を聞いて、匠一がうなずいた。
「よし」
短い一言だった。
でも、それはたしかに褒め言葉だった。
みいは少しだけ胸を張った。
そのあとで、どうしてか分からないまま、少し泣きそうになった。
マザーがいない。
でも、終わってはいない。
そのことを、みいはまだうまく言葉にできなかった。
ただ、朝が来れば起きて、食べて、戸を閉めて、眠る。そういう日が続いていく中で、空っぽだった場所に、少しずつ別の形の何かが積もっていくのを感じていた。
森の家の夜は深い。
窓の外では、八倍の世界がゆっくりと息をしている。
その片隅で、みいは毛布にくるまり、匠一の足音を聞きながら目を閉じた。
マザーのいない日常は、まだ痛かった。
けれどもう、それだけではなかった。




