喪失編:葬式、引き取り
見難い火傷の子316
喪失編:葬式、引き取り
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
朝は、やさしく来なかった。
夜の火はとうに落ちていたのに、寝台部屋にはまだ焼けた油と焦げた木の匂いが残っていた。
壊れた戸口から入り込む灰色の光が、床に散った木片と、黒く煤けた壁と、そこで止まってしまった夜の続きを照らしている。
巨大な麦穂の影はもうない。
代わりに、朝の冷えた空気だけが、焼け跡の隙間を遠慮なく通り抜けていった。
マザーは、昨夜と同じ場所にいた。
戸口の手前。
子どもたちと外を隔てる位置。
片腕を失い、腹部を開いたまま、上半身だけが前へ折れた姿勢で止まっている。
顔の外装は半分が焼け、いつもの無表情は崩れていた。
それでもなお、子どもたちの方を向いて壊れている。
最後まで、そちらを見ていたのだと分かる壊れ方だった。
みいは、そのそばから離れなかった。
夜が明けるまで、ずっと。
いつの間にか泣き疲れて、声はもうほとんど出ていない。
けれど手だけは、壊れた肩の外装にかかったままだった。
熱はもうない。
冷えて、硬くなって、返事をしない。
それでも、離せなかった。
ミオは中央の寝台の脇で丸くなったまま、時々しゃくり上げていた。
年長の少女は壁際に座り込み、目を真っ赤にしたまま、年少の子どもたちを抱き寄せている。
年長の少年は、ほとんど一睡もしなかった顔で、壊れた戸口の前に立っていた。
外を見張っているのか、ただ立っていないと崩れそうなのか、自分でも分かっていないようだった。
匠一は、夜明けと同時に外壁の見回りを増やし、管理区画へ再度使いを出し、焼け跡の確認を終えてから、ようやく寝台部屋へ戻ってきた。
片手には布。
もう片方には、昨夜取り外した外部記憶装置がある。
焼け焦げてはいたが、青白い記録灯は消えていなかった。
その灯りを見て、みいが顔を上げる。
「……マザー?」
掠れた声だった。
期待ではない。
期待に似た、もっと痛い何かだった。
匠一は答えなかった。
答えられなかった。
代わりに、記憶装置を胸元へしまい、持ってきた布を広げる。
白くはない。
何度も洗われた、くすんだ麻布だった。
孤児院で、冬場に寝台へ掛ける予備布のひとつだ。
「回収する」
低い声で言った。
その一言で、寝台部屋の空気がまた張りつめる。
みいの指が、壊れた肩を掴む力を強めた。
「やだ」
すぐに出た言葉だった。
考えるより先に、喉から落ちたみたいな声だった。
「だめ」
匠一は足を止める。
年長の少女も、ミオも、年長の少年も、誰も何も言わない。
けれど、その沈黙はみいひとりのものではなかった。
みんな、同じことを思っていた。
まだ持っていかないでほしい。
まだ終わりにしないでほしい。
匠一はしばらく黙っていた。
それから、いつもより少しだけ遅い声で言う。
「このままにはできん」
「なんで」
みいが顔を上げる。
泣き腫らした目で、まっすぐ匠一を見る。
「まだ、ここにいるのに」
その言葉に、年長の少女がとうとう顔を伏せた。
ミオはまた泣き出す。
年長の少年は唇を噛み、拳を握る。
匠一は、壊れたマザーを見る。
片腕のない肩。
開いた腹部。
焼けた支持骨格。
それでも子どもたちの方を向いたままの姿勢。
「いる、とは言えん」
ぶっきらぼうな言い方だった。
けれど、突き放すための声ではなかった。
自分に言い聞かせるための、硬い声だった。
「だが、ここで終わらせるわけでもない」
みいは意味が分からない顔をする。
匠一はそれ以上説明しない。
今は説明しても届かないと分かっているのだろう。
代わりに、寝台部屋の入口で立ち尽くしていた管理区画の使いへ振り向く。
「埋葬許可は」
使いの男は、顔を青くしたまま頷いた。
「出ています。旧式保護機一体、機能停止確認済み。児童保護施設付属機として、敷地内埋設を認めると」
その言い方に、年長の少年が顔をしかめる。
旧式保護機。
機能停止。
そのどれもが間違ってはいない。
けれど、あまりにも違う。
子どもたちにとって、それはマザーだった。
匠一も少しだけ眉を寄せたが、訂正はしなかった。
今は言葉を争う場面ではない。
「分かった」
それだけ言って、布を持つ手を下ろす。
「先に、別れを済ませろ」
その一言で、寝台部屋の中の時間が止まったみたいになった。
別れ。
誰も、まだその言葉を口の中でうまく転がせない。
別れとは何か。
どこまでやれば別れになるのか。
返事をしない身体に何を言えばいいのか。
子どもたちは誰も知らなかった。
最初に動いたのはミオだった。
毛布を引きずるみたいにして立ち上がり、泣き腫らした顔のまま、そろそろとマザーのそばへ行く。
みいの隣にしゃがみ込み、焼けていない方の手を探す。
指先が見つかる。
冷たい。
ミオはその冷たさにまた泣きそうな顔をしたが、手を離さなかった。
「……こわかった」
小さな声で言う。
「でも、マザーいた」
そこで言葉が切れる。
続きが出てこない。
ありがとうと言えばいいのか。
さようならと言えばいいのか。
ミオにはまだ分からない。
分からないまま、ただ泣いた。
年長の少女は、しばらく動けなかった。
けれど年少の子をひとり、またひとりと前へ送り出し、最後に自分も歩いた。
壊れた顔の前で膝をつき、唇を噛んだまま、長いこと何も言わない。
やがて、絞り出すみたいに言う。
「わたし、ちゃんと見てるつもりだった」
声が震える。
「でも、ぜんぶは見られてなかった」
「ごめん」
それは昨夜のことだけではないのだろう。
もっと前から。
年長として、下の子を見ているつもりで、でも見きれなかったこと。
マザーに任せてしまっていたこと。
そういうもの全部が混ざった謝罪だった。
年長の少年は最後まで近づかなかった。
戸口の前に立ったまま、拳を握っていた。
けれど匠一に「お前もだ」と低く言われて、ようやく動く。
ぎこちない足取りでマザーの前へ行き、しばらく見下ろしてから、ぼそりと言った。
「……守られる側、嫌だった」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分かっていないみたいだった。
「でも、昨日は、助かった」
それだけ言って、顔を背ける。
泣いているのを見られたくない年頃の、どうしようもない背中だった。
みいは、ずっと何も言えなかった。
壊れた肩に触れたまま、俯いている。
火傷の痕がある側の頬は、昨夜からずっと赤い。
泣きすぎたせいか、古傷が疼いているのか、どちらともつかない色だった。
匠一は急かさない。
管理区画の使いも、入口で黙って待っている。
朝の光だけが少しずつ強くなり、焼け跡の輪郭をはっきりさせていく。
やがて、みいが口を開いた。
「……やだ」
最初に出たのは、やはりその言葉だった。
「やだよ」
肩が震える。
けれど、もう昨夜みたいに取り乱してはいない。
泣き疲れて、泣き方すら分からなくなった子の声だった。
「まだ、名前、ちゃんと呼んでない」
その一言で、匠一の目がわずかに動く。
年長の少女が息を呑む。
ミオは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、みいを見る。
みいは壊れたマザーの肩へ額を押しつけた。
「みいって、呼んでくれたの、一回だけだった」
声が潰れる。
「もっと呼んでほしかった」
それは子どものわがままだった。
けれど、あまりにも小さくて、あまりにも遅すぎる願いだった。
誰も何も言えない。
「わたし、まだ」
みいはそこで言葉を失う。
名前を言いたかったのか。
ありがとうを言いたかったのか。
母さんと呼びたかったのか。
自分でも分からないまま、ただ壊れた機体にしがみつく。
匠一が、ゆっくりとしゃがんだ。
みいのすぐ後ろではなく、少し離れた位置に。
手を伸ばせば届くが、無理に触れない距離だった。
「聞こえてたと思うぞ」
ぶっきらぼうな声だった。
みいが顔を上げる。
涙で濡れた目が、信じたいのに信じきれない顔をしている。
匠一は壊れたマザーを見たまま続けた。
「最後まで、お前の方を向いてた」
それは慰めではなかった。
事実だった。
だからこそ、みいはまた泣いた。
今度は声を殺さず、子どもらしく、ぐしゃぐしゃに。
そのあと、子どもたちはマザーの葬式をした。
立派なものではない。
できるはずもない。
焼けた寝台部屋を片づけ、戸口の外、中庭の隅に浅い穴を掘る。
八倍の世界では、土を掘るだけでもひと仕事だった。
匠一と管理区画の男が主に掘り、年長の子どもたちが石を運び、年少の子どもたちは麦穂と小さな花を集めた。
巨大な麦の穂先からこぼれた粒が、子どもたちの手には果実みたいに大きかった。
マザーの身体は、麻布で包まれた。
完全には隠れない。
片腕の欠損も、歪んだ胴も、布の上から形が分かる。
それでも子どもたちは、布を掛けることに意味を感じていた。
寒くないように。
見えすぎないように。
最後まで、マザーらしくあるように。
埋める前に、ひとりずつ、布の上へ何かを置いた。
ミオは、小さな木の実を。
年長の少女は、縫い針の折れたものを。
年長の少年は、黙って青銅の留め具をひとつ。
年少の子どもたちは、麦穂や花や、よく分からない石ころを。
みいは最後まで何も持ってこなかった。
その代わり、布の上へ手を置いた。
長く。
とても長く。
「……おやすみ」
それだけ言った。
母に言う言葉なのか、機械に言う言葉なのか、自分でも分からないまま。
けれど、その場にいた誰も、それを間違いだとは思わなかった。
土がかけられる。
最初のひとすくいを入れたのは匠一だった。
次に年長の少年。
年長の少女。
ミオ。
みい。
小さな手で掬った土は少ししか落ちなかったが、それでも確かに、別れの重さになった。
埋葬が終わるころには、陽はもう高くなっていた。
朝はやさしく来なかったが、昼は容赦なく来る。
空腹も、疲労も、現実も、待ってはくれない。
管理区画の男が、書板を抱えたまま匠一へ近づく。
「児童の再配置についてですが」
その言い方に、年長の少女がびくりとする。
再配置。
また、そういう言葉だ。
子どもではなく、荷物みたいに聞こえる。
匠一は不機嫌そうに眉を寄せた。
「言い方を選べ」
男は気まずそうに咳払いする。
「……引き取り先の件です」
それでも十分冷たい言葉だった。
だが、現実の言葉でもあった。
孤児院はもう機能しない。
マザーはいない。
戸口は壊れ、寝台部屋は半焼し、夜の防衛も維持できない。
子どもたちをここへ置いておくことはできない。
その事実が、葬式のあとでようやく、別の形の痛みとして降りてくる。
ミオが不安そうに年長の少女の袖を掴む。
年少の子どもたちも、空気の変化だけで怯えはじめる。
みいはまだ墓の前にしゃがんだまま、顔を上げない。
管理区画の男が書板を見ながら言う。
「年少児は近隣保護区画へ分散。年長児は労務補助を含む仮収容先へ――」
「みいは」
匠一が遮った。
男が顔を上げる。
「三一二番児については、事案中心個体として別管理が妥当かと」
その言い方に、匠一の顔がはっきりと険しくなる。
「番号で呼ぶな」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だが、その低さだけで十分だった。
管理区画の男は口をつぐむ。
匠一は墓の前にいるみいを見る。
小さい背中。
火傷の痕を隠す癖。
昨夜から一気に何かを失いすぎた子どもの背中だった。
「その子は俺が引き取る」
空気が止まった。
年長の少女が顔を上げる。
ミオが目を丸くする。
管理区画の男は、書板を持つ手をわずかにずらした。
「匠一殿、それは」
「危険対象に狙われてる。通常の保護区画に回したら、次は守りきれん」
「しかし、単独での養育許可は」
「申請する」
即答だった。
「通るまでの間も、俺の管理下に置く」
管理区画の男は困った顔をする。
規則の顔だ。
前例の顔だ。
責任の所在を探す顔だ。
だが匠一は引かない。
「記録もある」
胸元から、焼けた外部記憶装置を取り出す。
青白い灯は、まだ消えていない。
「昨夜の事案記録。保護機の最終行動記録。危険度判定の根拠には足りる」
男はその灯りを見て、ようやく黙った。
反論できないのだろう。
あるいは、したくないのかもしれない。
長い沈黙のあと、男は小さく頷いた。
「……暫定で、なら」
匠一はそれ以上何も言わない。
勝った顔もしない。
ただ当然のことを言っただけ、という顔で記憶装置をしまう。
それから、墓の前へ歩いた。
みいはまだしゃがんでいる。
土の盛り上がりを見つめたまま、動かない。
匠一はその隣に立ち、少しだけ間を置いてから言った。
「行くぞ」
みいは返事をしない。
「ここには、もう置いておけん」
それでも動かない。
匠一は急かさない。
ただ、待つ。
やがて、みいが小さく訊いた。
「……どこに」
「俺のところだ」
短い答えだった。
みいはようやく顔を上げる。
泣きすぎて腫れた目で、匠一を見る。
「なんで」
匠一は少しだけ考える顔をした。
考えなくても答えはあるのに、言葉にするのが苦手な大人の間だった。
「置いていけん」
それだけだった。
飾りも、慰めも、きれいな理屈もない。
けれど、その不器用さがかえって本当だった。
みいはしばらく匠一を見ていた。
それから、もう一度だけ墓を見る。
麻布も、花も、麦穂も、もう土の下だ。
返事はない。
けれど、昨夜とは違う。
ここにはもう、ちゃんと別れたものがある。
みいは立ち上がった。
足元がふらつき、匠一が反射的に手を出す。
みいは一瞬だけその手を見て、少し迷ってから、そっと掴んだ。
小さな手だった。
冷えて、軽くて、でも確かに生きている手だった。
匠一はその手を引きすぎないように歩き出す。
みいもついていく。
数歩進んだところで、一度だけ振り返った。
中庭の隅。
新しく盛られた土。
その上に置かれた麦穂。
風に揺れる小さな花。
マザーはもういない。
その事実だけが、朝よりもはっきりしていた。
それでも、みいは目を逸らさなかった。
逸らさずに見て、
それから前を向いた。
その日、孤児院を出た子どもたちは、それぞれ別の場所へ運ばれていった。
泣く子もいた。
黙る子もいた。
何が起きたのかまだ半分も分かっていない顔の子もいた。
みいだけが、匠一の隣を歩いた。
番号ではなく。
まだ本当の名前でもなく。
けれど、もう誰かに引き取られていく子として。
喪失は終わっていない。
終わるはずもない。
けれどその日、みいは初めて、
失ったものを抱えたまま別の場所へ行くのだと知った。




