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見難い火傷の子  作者: 清風
316/321

喪失編:葬式、引き取り

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子316



喪失編:葬式、引き取り



深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


朝は、やさしく来なかった。


夜の火はとうに落ちていたのに、寝台部屋にはまだ焼けた油と焦げた木の匂いが残っていた。

壊れた戸口から入り込む灰色の光が、床に散った木片と、黒く煤けた壁と、そこで止まってしまった夜の続きを照らしている。

巨大な麦穂の影はもうない。

代わりに、朝の冷えた空気だけが、焼け跡の隙間を遠慮なく通り抜けていった。


マザーは、昨夜と同じ場所にいた。


戸口の手前。

子どもたちと外を隔てる位置。

片腕を失い、腹部を開いたまま、上半身だけが前へ折れた姿勢で止まっている。

顔の外装は半分が焼け、いつもの無表情は崩れていた。

それでもなお、子どもたちの方を向いて壊れている。

最後まで、そちらを見ていたのだと分かる壊れ方だった。


みいは、そのそばから離れなかった。


夜が明けるまで、ずっと。

いつの間にか泣き疲れて、声はもうほとんど出ていない。

けれど手だけは、壊れた肩の外装にかかったままだった。

熱はもうない。

冷えて、硬くなって、返事をしない。

それでも、離せなかった。


ミオは中央の寝台の脇で丸くなったまま、時々しゃくり上げていた。

年長の少女は壁際に座り込み、目を真っ赤にしたまま、年少の子どもたちを抱き寄せている。

年長の少年は、ほとんど一睡もしなかった顔で、壊れた戸口の前に立っていた。

外を見張っているのか、ただ立っていないと崩れそうなのか、自分でも分かっていないようだった。


匠一は、夜明けと同時に外壁の見回りを増やし、管理区画へ再度使いを出し、焼け跡の確認を終えてから、ようやく寝台部屋へ戻ってきた。

片手には布。

もう片方には、昨夜取り外した外部記憶装置がある。

焼け焦げてはいたが、青白い記録灯は消えていなかった。


その灯りを見て、みいが顔を上げる。


「……マザー?」


掠れた声だった。

期待ではない。

期待に似た、もっと痛い何かだった。


匠一は答えなかった。

答えられなかった。

代わりに、記憶装置を胸元へしまい、持ってきた布を広げる。

白くはない。

何度も洗われた、くすんだ麻布だった。

孤児院で、冬場に寝台へ掛ける予備布のひとつだ。


「回収する」


低い声で言った。


その一言で、寝台部屋の空気がまた張りつめる。


みいの指が、壊れた肩を掴む力を強めた。


「やだ」


すぐに出た言葉だった。

考えるより先に、喉から落ちたみたいな声だった。


「だめ」


匠一は足を止める。

年長の少女も、ミオも、年長の少年も、誰も何も言わない。

けれど、その沈黙はみいひとりのものではなかった。

みんな、同じことを思っていた。

まだ持っていかないでほしい。

まだ終わりにしないでほしい。


匠一はしばらく黙っていた。

それから、いつもより少しだけ遅い声で言う。


「このままにはできん」


「なんで」


みいが顔を上げる。

泣き腫らした目で、まっすぐ匠一を見る。


「まだ、ここにいるのに」


その言葉に、年長の少女がとうとう顔を伏せた。

ミオはまた泣き出す。

年長の少年は唇を噛み、拳を握る。


匠一は、壊れたマザーを見る。

片腕のない肩。

開いた腹部。

焼けた支持骨格。

それでも子どもたちの方を向いたままの姿勢。


「いる、とは言えん」


ぶっきらぼうな言い方だった。

けれど、突き放すための声ではなかった。

自分に言い聞かせるための、硬い声だった。


「だが、ここで終わらせるわけでもない」


みいは意味が分からない顔をする。

匠一はそれ以上説明しない。

今は説明しても届かないと分かっているのだろう。


代わりに、寝台部屋の入口で立ち尽くしていた管理区画の使いへ振り向く。


「埋葬許可は」


使いの男は、顔を青くしたまま頷いた。


「出ています。旧式保護機一体、機能停止確認済み。児童保護施設付属機として、敷地内埋設を認めると」


その言い方に、年長の少年が顔をしかめる。

旧式保護機。

機能停止。

そのどれもが間違ってはいない。

けれど、あまりにも違う。

子どもたちにとって、それはマザーだった。


匠一も少しだけ眉を寄せたが、訂正はしなかった。

今は言葉を争う場面ではない。


「分かった」


それだけ言って、布を持つ手を下ろす。


「先に、別れを済ませろ」


その一言で、寝台部屋の中の時間が止まったみたいになった。


別れ。


誰も、まだその言葉を口の中でうまく転がせない。

別れとは何か。

どこまでやれば別れになるのか。

返事をしない身体に何を言えばいいのか。

子どもたちは誰も知らなかった。


最初に動いたのはミオだった。


毛布を引きずるみたいにして立ち上がり、泣き腫らした顔のまま、そろそろとマザーのそばへ行く。

みいの隣にしゃがみ込み、焼けていない方の手を探す。

指先が見つかる。

冷たい。

ミオはその冷たさにまた泣きそうな顔をしたが、手を離さなかった。


「……こわかった」


小さな声で言う。


「でも、マザーいた」


そこで言葉が切れる。

続きが出てこない。

ありがとうと言えばいいのか。

さようならと言えばいいのか。

ミオにはまだ分からない。

分からないまま、ただ泣いた。


年長の少女は、しばらく動けなかった。

けれど年少の子をひとり、またひとりと前へ送り出し、最後に自分も歩いた。

壊れた顔の前で膝をつき、唇を噛んだまま、長いこと何も言わない。

やがて、絞り出すみたいに言う。


「わたし、ちゃんと見てるつもりだった」


声が震える。


「でも、ぜんぶは見られてなかった」

「ごめん」


それは昨夜のことだけではないのだろう。

もっと前から。

年長として、下の子を見ているつもりで、でも見きれなかったこと。

マザーに任せてしまっていたこと。

そういうもの全部が混ざった謝罪だった。


年長の少年は最後まで近づかなかった。

戸口の前に立ったまま、拳を握っていた。

けれど匠一に「お前もだ」と低く言われて、ようやく動く。

ぎこちない足取りでマザーの前へ行き、しばらく見下ろしてから、ぼそりと言った。


「……守られる側、嫌だった」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分かっていないみたいだった。


「でも、昨日は、助かった」


それだけ言って、顔を背ける。

泣いているのを見られたくない年頃の、どうしようもない背中だった。


みいは、ずっと何も言えなかった。


壊れた肩に触れたまま、俯いている。

火傷の痕がある側の頬は、昨夜からずっと赤い。

泣きすぎたせいか、古傷が疼いているのか、どちらともつかない色だった。


匠一は急かさない。

管理区画の使いも、入口で黙って待っている。

朝の光だけが少しずつ強くなり、焼け跡の輪郭をはっきりさせていく。


やがて、みいが口を開いた。


「……やだ」


最初に出たのは、やはりその言葉だった。


「やだよ」


肩が震える。

けれど、もう昨夜みたいに取り乱してはいない。

泣き疲れて、泣き方すら分からなくなった子の声だった。


「まだ、名前、ちゃんと呼んでない」


その一言で、匠一の目がわずかに動く。

年長の少女が息を呑む。

ミオは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、みいを見る。


みいは壊れたマザーの肩へ額を押しつけた。


「みいって、呼んでくれたの、一回だけだった」


声が潰れる。


「もっと呼んでほしかった」


それは子どものわがままだった。

けれど、あまりにも小さくて、あまりにも遅すぎる願いだった。

誰も何も言えない。


「わたし、まだ」


みいはそこで言葉を失う。

名前を言いたかったのか。

ありがとうを言いたかったのか。

母さんと呼びたかったのか。

自分でも分からないまま、ただ壊れた機体にしがみつく。


匠一が、ゆっくりとしゃがんだ。

みいのすぐ後ろではなく、少し離れた位置に。

手を伸ばせば届くが、無理に触れない距離だった。


「聞こえてたと思うぞ」


ぶっきらぼうな声だった。


みいが顔を上げる。

涙で濡れた目が、信じたいのに信じきれない顔をしている。


匠一は壊れたマザーを見たまま続けた。


「最後まで、お前の方を向いてた」


それは慰めではなかった。

事実だった。

だからこそ、みいはまた泣いた。

今度は声を殺さず、子どもらしく、ぐしゃぐしゃに。


そのあと、子どもたちはマザーの葬式をした。


立派なものではない。

できるはずもない。

焼けた寝台部屋を片づけ、戸口の外、中庭の隅に浅い穴を掘る。

八倍の世界では、土を掘るだけでもひと仕事だった。

匠一と管理区画の男が主に掘り、年長の子どもたちが石を運び、年少の子どもたちは麦穂と小さな花を集めた。

巨大な麦の穂先からこぼれた粒が、子どもたちの手には果実みたいに大きかった。


マザーの身体は、麻布で包まれた。

完全には隠れない。

片腕の欠損も、歪んだ胴も、布の上から形が分かる。

それでも子どもたちは、布を掛けることに意味を感じていた。

寒くないように。

見えすぎないように。

最後まで、マザーらしくあるように。


埋める前に、ひとりずつ、布の上へ何かを置いた。


ミオは、小さな木の実を。

年長の少女は、縫い針の折れたものを。

年長の少年は、黙って青銅の留め具をひとつ。

年少の子どもたちは、麦穂や花や、よく分からない石ころを。

みいは最後まで何も持ってこなかった。


その代わり、布の上へ手を置いた。

長く。

とても長く。


「……おやすみ」


それだけ言った。


母に言う言葉なのか、機械に言う言葉なのか、自分でも分からないまま。

けれど、その場にいた誰も、それを間違いだとは思わなかった。


土がかけられる。

最初のひとすくいを入れたのは匠一だった。

次に年長の少年。

年長の少女。

ミオ。

みい。

小さな手で掬った土は少ししか落ちなかったが、それでも確かに、別れの重さになった。


埋葬が終わるころには、陽はもう高くなっていた。

朝はやさしく来なかったが、昼は容赦なく来る。

空腹も、疲労も、現実も、待ってはくれない。


管理区画の男が、書板を抱えたまま匠一へ近づく。


「児童の再配置についてですが」


その言い方に、年長の少女がびくりとする。

再配置。

また、そういう言葉だ。

子どもではなく、荷物みたいに聞こえる。


匠一は不機嫌そうに眉を寄せた。


「言い方を選べ」


男は気まずそうに咳払いする。


「……引き取り先の件です」


それでも十分冷たい言葉だった。

だが、現実の言葉でもあった。


孤児院はもう機能しない。

マザーはいない。

戸口は壊れ、寝台部屋は半焼し、夜の防衛も維持できない。

子どもたちをここへ置いておくことはできない。


その事実が、葬式のあとでようやく、別の形の痛みとして降りてくる。


ミオが不安そうに年長の少女の袖を掴む。

年少の子どもたちも、空気の変化だけで怯えはじめる。

みいはまだ墓の前にしゃがんだまま、顔を上げない。


管理区画の男が書板を見ながら言う。


「年少児は近隣保護区画へ分散。年長児は労務補助を含む仮収容先へ――」


「みいは」


匠一が遮った。


男が顔を上げる。


「三一二番児については、事案中心個体として別管理が妥当かと」


その言い方に、匠一の顔がはっきりと険しくなる。


「番号で呼ぶな」


低い声だった。

怒鳴ってはいない。

だが、その低さだけで十分だった。

管理区画の男は口をつぐむ。


匠一は墓の前にいるみいを見る。

小さい背中。

火傷の痕を隠す癖。

昨夜から一気に何かを失いすぎた子どもの背中だった。


「その子は俺が引き取る」


空気が止まった。


年長の少女が顔を上げる。

ミオが目を丸くする。

管理区画の男は、書板を持つ手をわずかにずらした。


「匠一殿、それは」


「危険対象に狙われてる。通常の保護区画に回したら、次は守りきれん」


「しかし、単独での養育許可は」


「申請する」


即答だった。


「通るまでの間も、俺の管理下に置く」


管理区画の男は困った顔をする。

規則の顔だ。

前例の顔だ。

責任の所在を探す顔だ。


だが匠一は引かない。


「記録もある」


胸元から、焼けた外部記憶装置を取り出す。

青白い灯は、まだ消えていない。


「昨夜の事案記録。保護機の最終行動記録。危険度判定の根拠には足りる」


男はその灯りを見て、ようやく黙った。

反論できないのだろう。

あるいは、したくないのかもしれない。


長い沈黙のあと、男は小さく頷いた。


「……暫定で、なら」


匠一はそれ以上何も言わない。

勝った顔もしない。

ただ当然のことを言っただけ、という顔で記憶装置をしまう。


それから、墓の前へ歩いた。


みいはまだしゃがんでいる。

土の盛り上がりを見つめたまま、動かない。


匠一はその隣に立ち、少しだけ間を置いてから言った。


「行くぞ」


みいは返事をしない。


「ここには、もう置いておけん」


それでも動かない。

匠一は急かさない。

ただ、待つ。


やがて、みいが小さく訊いた。


「……どこに」


「俺のところだ」


短い答えだった。


みいはようやく顔を上げる。

泣きすぎて腫れた目で、匠一を見る。


「なんで」


匠一は少しだけ考える顔をした。

考えなくても答えはあるのに、言葉にするのが苦手な大人の間だった。


「置いていけん」


それだけだった。

飾りも、慰めも、きれいな理屈もない。

けれど、その不器用さがかえって本当だった。


みいはしばらく匠一を見ていた。

それから、もう一度だけ墓を見る。

麻布も、花も、麦穂も、もう土の下だ。

返事はない。

けれど、昨夜とは違う。

ここにはもう、ちゃんと別れたものがある。


みいは立ち上がった。

足元がふらつき、匠一が反射的に手を出す。

みいは一瞬だけその手を見て、少し迷ってから、そっと掴んだ。


小さな手だった。

冷えて、軽くて、でも確かに生きている手だった。


匠一はその手を引きすぎないように歩き出す。

みいもついていく。

数歩進んだところで、一度だけ振り返った。


中庭の隅。

新しく盛られた土。

その上に置かれた麦穂。

風に揺れる小さな花。


マザーはもういない。

その事実だけが、朝よりもはっきりしていた。


それでも、みいは目を逸らさなかった。


逸らさずに見て、

それから前を向いた。


その日、孤児院を出た子どもたちは、それぞれ別の場所へ運ばれていった。

泣く子もいた。

黙る子もいた。

何が起きたのかまだ半分も分かっていない顔の子もいた。


みいだけが、匠一の隣を歩いた。


番号ではなく。

まだ本当の名前でもなく。

けれど、もう誰かに引き取られていく子として。


喪失は終わっていない。

終わるはずもない。

けれどその日、みいは初めて、

失ったものを抱えたまま別の場所へ行くのだと知った。

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