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見難い火傷の子  作者: 清風
315/319

喪失編:外部記憶装置、襲撃、マザー破壊

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子315



喪失編:外部記憶装置、襲撃、マザー破壊



深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。



戸口の向こうから、女の声がした。


『――みい』


寝台部屋の全員の背筋が凍った。


それは大きな声ではなかった。

むしろ、すぐ耳のそばで囁かれたみたいに近い声だった。

やさしい。

眠れない子を起こさないように気をつける母親の声に、ひどくよく似ている。


けれど、その部屋の誰も、そのやさしさを信じなかった。


なぜならその名は、ついさっき、この部屋の中で生まれたばかりだったからだ。


みいが、毛布の中で息を止める。

喉がひくりと動いたのを、近くにいた年長の少女は見た。

返事をしそうになったのではない。

返事をしないために、息ごと押し殺したのだ。


マザーが一歩、前へ出た。


戸口と子どもたちのあいだ。

最初から決めていた位置へ、音もなく身体を滑らせる。

その背中が、薄暗い寝台部屋の中でひどく大きく見えた。


「全員、発声を禁止します」


低い声だった。

いつもと同じ、平坦で、命令だけを正確に通す声。

だが今は、その平坦さがかえってありがたかった。

誰かが取り乱せば、部屋じゅうが崩れる。

だからマザーだけは、崩れない。


戸口の向こうで、また爪が板を撫でた。

きい、と湿った音が、今度は少し長く続く。

まるで、こちらの反応を待っているみたいだった。


『みい』


もう一度、女の声が呼ぶ。

今度は少しだけ甘く、少しだけ近く。

戸口の板一枚向こうに、頬を寄せて囁いているみたいな声だった。


ミオが毛布の中で震え、年長の少年が唇を噛む。

年長の少女は、みいの寝台を見ないようにしていた。

見れば、つられて戸口も見てしまいそうだったからだ。


マザーは返答しない。

ただ、右手をわずかに上げ、子どもたちへ「動くな」の合図を送る。


そのとき、食堂の方から足音がした。

急いでいるのに、走ってはいない足音。

板床の軋みを最小限に抑えた、大人の足取りだった。


匠一だった。


片手に工具箱、もう片方に細長い金属箱を抱えている。

顔色は悪い。

だが目だけは妙に冴えていた。


「マザー」


声は低い。

子どもたちを刺激しないよう抑えている。


「記録庫にあった。適合するかは賭けだが、ないよりましだ」


マザーは戸口から視線を外さないまま答える。


「内容を確認したい」


「外部記憶装置だ。旧式保護機の保守用拡張。断絶時の緊急退避記録に使う」


その言葉の意味を理解できた子どもはいない。

だが、匠一の声に混じる硬さだけは誰にでも分かった。

それは“念のため”の準備をするときの声ではなかった。

壊れる可能性を、最初から計算に入れている声だった。


みいが、毛布の中で目を見開く。

戸口の向こうの声よりも、その言葉の方に強く反応した。


「やだ」


小さな声だった。

けれど、静まり返った部屋でははっきり聞こえた。


匠一が一瞬だけみいを見る。

それから、すぐに視線を戻した。


「やだ、じゃ済まない」


言い方はぶっきらぼうだった。

だが怒っているわけではない。

怒る余裕がないだけだ。


『みい』


また戸口の向こうから声がする。

今度は少し笑っているみたいだった。

返事を待つ母親の声ではない。

返事を引きずり出すための声だった。


マザーが短く告げる。


「匠一。作業時間を確認」


「接続だけなら三分」


「短縮を要求します」


「無茶を言うな」


匠一は吐き捨てるように言ったが、もう工具箱を床へ置いていた。

金属箱の留め具を外し、中から布に包まれた部品を取り出す。

青銅と黒鉄を組み合わせた古い規格の装置だった。

掌に乗るほどの主機と、細い導線、固定用の輪金具。

保守用といっても、見た目はほとんど簡易の棺みたいだった。


「寝台部屋の中でやるの」


年長の少女が、思わず囁く。


「外でやったら間に合わん」


匠一は答えながら、マザーの背後へ回った。

マザーは戸口を向いたまま、膝をわずかに折る。

作業しやすい高さへ、自分から姿勢を落としたのだ。


その動きが、ひどく自然だった。

まるで、子どもに靴を履かせるために屈むみたいに。

だからこそ、みいは余計に顔を歪めた。


「やだ」


今度はさっきよりはっきり言った。


「つけたら、ほんとに壊れるみたい」


匠一の手が、一瞬だけ止まる。

だが止まったのは本当に一瞬だった。


「壊れたあとを残すためにつける」


低い声で言う。

自分に言い聞かせるみたいに。


「残らなきゃ、何が起きたかも持ち帰れん」


みいは首を振る。

意味が分からないのではない。

分かるから嫌なのだ。


マザーが言う。


「みい」


その呼び方に、部屋の空気がわずかに揺れた。

マザーがその名を使うのは、これが初めてだった。


みいは泣きそうな顔で、けれど泣かずにマザーを見る。


「記録は必要です」


「いらない」


「必要です」


「いらないよ」


「あなたを保護した事実を、消失させるわけにはいきません」


その言葉に、匠一の指先がまた止まった。

年長の少女が息を呑む。

年長の少年は、何か言い返したそうな顔をしたが、言葉にならなかった。


匠一は無言で、マザーの後頭部外装の固定具を外した。

小さな金属音がして、襟足の装甲がわずかに開く。

その内側には、古い規格の接続端子が並んでいた。

普段は布と髪に隠れて見えない場所だ。

子どもたちの何人かが、初めて見る機械の内部に息を詰める。


『みい』


戸口の向こうの声が、また呼ぶ。

今度は少しだけ不機嫌そうだった。

返事がないことに苛立ちはじめている。


匠一は導線を端子へ差し込んだ。

一度では入らない。

規格が古いのか、端子が摩耗しているのか、微妙に噛み合わない。


「くそ……」


珍しく、匠一が小さく悪態をつく。

その声でミオがびくりとする。


マザーは動かない。

戸口の前に立ったまま、ただ静かに言う。


「匠一。児童の不安が増大しています。発語の抑制を推奨」


「分かってる」


「手順の簡略化は可能ですか」


「やってる」


短いやり取りだった。

けれど、その短さの中に、二人が互いの役割を理解している感じがあった。

マザーは守る。

匠一は残す。

どちらも、今この場でしかできないことだった。


やっと端子が噛み合う。

装置の主機に淡い青白い光が灯った。

古い記録灯だ。

脈を打つみたいに、弱く、規則正しく点滅している。


「接続確認」


匠一が言う。


「外部退避記録、待機状態。断絶時、自動保存に移る」


「受理しました」


マザーの声は変わらない。

だが、その返答を聞いた瞬間、みいは毛布を握る手にさらに力を込めた。

それは準備完了の言葉だった。

壊れるかもしれない夜の、準備完了。


匠一は開いた外装を完全には閉じなかった。

導線を通すため、襟足のところだけわずかに浮かせたまま固定する。

その隙間から、青白い記録灯がかすかに漏れた。

まるで、首の後ろに小さな夜をひとつ抱えたみたいだった。


「終わった」


匠一は立ち上がる。

膝が鳴った。

年齢のせいか、緊張のせいかは分からない。


「マザー」


今度の呼びかけは、さっきより少しだけ低かった。


「無理だと思ったら、下がれ」


マザーは答えない。

代わりに、ほんのわずかに首を動かした。

肯定なのか、ただ聞いたという合図なのか、判別しにくい角度だった。


匠一は舌打ちしそうな顔をして、それを飲み込む。


「……子どもを優先しろ」


「最優先事項です」


「お前自身もだ」


数秒、沈黙があった。

戸口の向こうでは、もう爪の音が止んでいる。

その静けさが、かえって不気味だった。


やがてマザーは、いつも通りの声で答えた。


「保護機の損耗は想定範囲内です」


匠一は何も言わなかった。

言っても無駄だと知っている顔だった。


そのとき。


戸口の板が、内側へわずかに鳴った。


ぎし、と。

押されたのではない。

重みをかけられた音だった。

向こう側にいる何かが、戸口の形を確かめるみたいに、静かに寄りかかっている。


ミオが小さくしゃくり上げる。

年長の少女がその口を押さえる。

年長の少年は中央の寝台の前で、震える膝を無理やり立て直していた。


みいは声を出さない。

ただ、マザーの背中だけを見ている。

戸口の前に立つ、その背中を。

襟足の隙間から漏れる、青白い記録灯を。


『そこにいるのね』


女の声がした。

今度は名前ではなかった。

けれど、さっきより近い。

板一枚どころではない。

戸口の隙間から、湿った息まで入り込んできそうな近さだった。


『みい』


また呼ぶ。

やさしく。

甘く。

今度こそ返事をもらえると信じている声で。


マザーが、右手をゆっくり持ち上げた。

子どもたちを制する合図ではない。

戸口に向けて、遮るための手だった。


「当該児童は保護下にあります」


その宣言は、誰に向けたものだったのか。

戸口の向こうの怪異か。

部屋の中の子どもたちか。

あるいは、自分自身の行動規範に対してか。


『あなたではないわ』


女の声が、くすりと笑う。


『その子を呼んでいるの』


「応答を拒否します」


『母親の声が分からないの?』


その瞬間、みいの肩が大きく震えた。

年長の少女が息を呑む。

ミオはもう泣いていたが、声だけは必死に殺している。


マザーの声は変わらない。


「当該音声は保護対象に対する擬装的誘引と判定」


『かわいそうに』


女の声が、戸口のすぐ向こうで囁く。


『そんな冷たいものに抱かれて』


その言葉のあと、戸口の板がもう一度鳴った。

今度は、さっきより強く。


ぎ、しり。


青銅の閂が、低く軋む。


匠一が一歩下がり、子どもたちの方へ向き直る。


「全員、寝台から降りるな」


低い声だった。

怒鳴らない。

怒鳴れば崩れる。

だから抑える。


「何があっても、名前を呼ばれても、返事をするな」


誰も答えない。

答えられない。

けれど、その沈黙自体が従うという意思だった。


マザーは戸口の前に立ったまま、微動だにしない。

襟足の記録灯だけが、青白く、規則正しく点滅している。


外では、夜が完全に沈みきっていた。

巨大な麦穂も、石壁も、蜥蜴も、もう見えない。

見えないものだけが、戸口の向こうにいる。


そして次の瞬間、

戸口の板の向こう側で、何かがゆっくりと爪を立てた。


木目を裂く、細く長い音が、寝台部屋の隅々まで染みこんでいく。


マザーは一歩も退かなかった。


その背中を見ながら、みいは初めて、

この夜が本当にマザーを壊すかもしれないのだと理解した。


次に来た音は、爪ではなかった。


叩打。


戸口の中央を、外側から何か重いものが一度だけ打った。

どん、と鈍い衝撃が走り、板戸全体が内側へたわむ。

青銅の閂が悲鳴みたいな音を立てた。


ミオが声にならない悲鳴を漏らす。

年長の少年が反射的に中央卓の脚を掴み、年少の子どもたちの前へさらに身を滑り込ませた。

年長の少女は、みいの寝台へ駆け寄りたいのをこらえて、その場に縫い止められたみたいに動けない。


二度目の叩打が来る。


今度はもっと強い。

板の継ぎ目が裂け、細い木片が内側へ飛んだ。

油皿の火が震え、壁に貼りついた影が一斉に跳ねる。


『あけて』


女の声が、甘えるみたいに言った。


『寒いの』


その言い方があまりにも自然で、あまりにも人間じみていて、だからこそ部屋の中の誰もが凍りついた。

本当に寒がっている母親の声にしか聞こえない。

けれど、その声の向こうにあるものを、みいは知っている。


「来る」


みいが、ほとんど息だけで言った。


マザーの右腕が上がる。

肘の内側から、普段は見えない補助固定具がせり出した。

保育用ではない。

旧式保護機に残された、近接防護用の古い機構だった。


匠一の顔色が変わる。


「おい、それ、まだ生きてたのか」


「限定稼働を確認」


マザーは答える。

その声はまだ平坦だった。

だが、襟足の記録灯の点滅が少しだけ速くなっている。


三度目の衝撃で、戸口の上部が割れた。


板の裂け目から、夜より黒いものが覗く。

形は定まらない。

髪のようにも、濡れた布の束のようにも見える。

けれど、その奥にひとつだけ、白く光るものがあった。


目だった。


誰かが息を呑む。

見てはいけないと分かっているのに、裂け目がある以上、視界に入ってしまう。

年少の子のひとりが小さく嗚咽し、年長の少女が反射的にその顔を胸へ押しつけた。


『いた』


女の声が、嬉しそうに言った。


『みい、いた』


その瞬間、戸口が内側へ弾けた。


青銅の閂が片方から外れ、板と木片が寝台部屋へ飛び散る。

油皿が倒れかけ、匠一が足で蹴って中央へ戻す。

火は消えない。

消えなかったことだけが、かろうじて救いだった。


壊れた戸口の向こうに、ラマシュがいた。


女の形をしている。

少なくとも、最初の一瞬はそう見えた。

長い髪、細い肩、腕のようなもの。

けれど次の瞬間には、その輪郭はもう崩れている。

髪に見えたものは無数の細い繊維で、肩に見えたものは折り重なった節の束で、腕に見えたものは人の関節数では足りない長さを持っていた。

顔だけが、妙に整っていた。

整いすぎて、人間の顔の記憶を雑に貼り合わせたみたいに見えた。


そして、その口元だけが笑っていた。


『みい』


ラマシュが一歩、部屋へ入る。


その瞬間、マザーが前へ出た。


衝突は、戦いというより遮断だった。

マザーはラマシュへ向かって踏み込んだのではない。

子どもたちの視界と進路を塞ぐように、自分の身体を横へ広げたのだ。

右腕の補助固定具が展開し、戸口の残骸へ打ち込まれる。

砕けた板と青銅片を巻き込みながら、即席の障壁がラマシュの胸元へ押し返される。


『いや』


女の声が、初めて少しだけ歪んだ。


『その子に会いにきたのに』


「接近を拒否します」


マザーの声が返る。

その直後、ラマシュの腕が伸びた。


伸びた、という言葉では足りない。

ほどけたのだ。

腕だったものが白い繊維の束になって広がり、空気の中で何本にも裂けながら、マザーの肩と首へ絡みつく。


みいが息を呑む。

昼間に言った通りだった。

引っ張られて、開いて、戻らなくなる。

その壊れ方が、今、目の前で始まっている。


マザーは退かない。

絡みついた繊維を左腕で押さえ込み、そのまま体重をかけてラマシュを戸口の外へ押し戻そうとする。

床板が軋み、古い関節が低く唸る。

保育機の出す音ではない。

もっと重く、もっと古い、機械の限界音だった。


匠一が叫ぶ。


「全員、目を伏せろ!」


だが遅い。

裂けた戸口の向こう、ラマシュの顔が揺れる。

母親の顔。

知らない女の顔。

泣いている顔。

笑っている顔。

いくつもの“そう見えるもの”が、水面みたいに次々と入れ替わる。


年少の子がひとり、見てしまった。


小さく息を吸う音がした。


ラマシュの顔が、その子の方を向く。


『いた』


その瞬間、マザーが身体ごと割り込んだ。


本当に、身体ごとだった。

子どもとラマシュのあいだへ、自分の胴を差し込む。

繊維の束がその腹部へ突き刺さり、外装が裂ける。

鈍い破断音。

白い蒸気。

油とも血ともつかない暗い液が、床へ飛ぶ。


ミオがとうとう悲鳴を上げた。

年長の少女も、今度は口を押さえきれない。

年長の少年は年少の子を抱え込んだまま、顔を上げられずに震えている。


マザーの腹部外装が、内側から開く。

みいの言った通りに。

引っ張られて、開いて、戻らなくなる。


それでもマザーは倒れなかった。


「後退してください」


誰に向けた言葉なのか分からない。

子どもたちか。

匠一か。

それとも、自分を貫いている怪異に対してか。


ラマシュが笑う。

女の声で。

母親の声で。

ひどく楽しそうに。


『ほら、壊れる』


その言葉に、みいが寝台から転がるように降りた。


「だめ!」


初めて、はっきり声を上げた。

返事ではない。

呼びかけでもない。

ただ止めたかった。

目の前で起きていることを、少しでも。


その瞬間、ラマシュの顔がみいを向く。


笑みが深くなる。


『みい』


匠一が飛び込んだ。


寝台脇に立てかけてあった青銅の火掻き棒を掴み、みいの肩を引いて後ろへ投げる。

同時に、もう片手で油壺を蹴り倒した。

床へ広がった油が、壊れた戸口の木片へ染みる。


「マザー、離れろ!」


無茶な命令だった。

離れられるなら、とっくに離れている。


マザーは答えない。

代わりに、残った力でラマシュを戸口の残骸へ押しつける。

繊維の束がさらに食い込み、肩の関節がひとつ、嫌な音を立てて外れた。

襟足の記録灯が、青白く激しく点滅する。


匠一が腰の点火具を叩いた。


火花。

次の瞬間、床の油が爆ぜる。


爆炎だった。


寝台部屋の戸口一帯が、一瞬だけ昼みたいに明るくなる。

ラマシュの繊維が火を吸い、白く膨れ、焼けながら縮む。

甘い匂いがした。

場違いなほど甘い、焦げた砂糖みたいな匂いだった。


匠一の爆炎パーティが後で「綿菓子」と仮称することになる残留物の、最初の匂いだった。


だが、その場にいた誰も、そんなことを考える余裕はない。


炎の中で、マザーの輪郭が揺れる。

ラマシュを押さえたまま、子どもたちの方へ火が回らない角度を選んで立っている。

最後まで、保護機の立ち方だった。


「匠一」


マザーが初めて、少しだけ乱れた声で言った。


「児童を」


そこで音声が途切れる。

喉部の発声機構に何かが食い込んだのだろう。

声が砂を噛んだみたいに崩れる。


「避難、を」


匠一は歯を食いしばる。


「分かってる!」


だが、子どもたちは動けない。

炎と、壊れるマザーと、戸口の向こうの夜と。

その全部が一度に目の前にあって、足が床へ縫いつけられていた。


みいだけが、這うみたいに前へ出ようとする。


「やだ」


泣き声だった。


「やだ、やだ、やだ」


年長の少女が後ろから抱きとめる。

みいは暴れない。

ただ前へ行こうとする。

壊れていくマザーのところへ。


炎の向こうで、ラマシュがまだ笑っていた。

焼けながら。

ほどけながら。

女の顔を保てなくなりながら。


『みい』


最後まで、その名を呼んでいた。


マザーの右腕が、ついに根元から外れた。

青銅の補助固定具ごと床へ落ち、重い音を立てる。

腹部は完全に開き、内部の支持骨格と駆動索が露出していた。

首の後ろの外部記憶装置だけが、異様なほど無事なまま、青白く点滅している。


マザーは、それでも立っていた。


立って、ラマシュと子どもたちのあいだにいた。


その姿を見て、匠一は理解した。

この機体はもう助からない。

ここで止めなければ、記録ごと持っていかれる。


匠一は火掻き棒を捨て、マザーの襟足へ手を伸ばした。


「悪い」


誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。


固定輪を外す。

熱で焼けた金具が指に食い込む。

皮膚が裂ける。

それでも構わず、外部記憶装置の主機を引き抜く。


その瞬間、マザーの記録灯が一度だけ強く明滅した。


まるで、瞬きをするみたいに。


「保護、完了を――」


最後の音声は、最後まで言い切れなかった。


次の瞬間、ラマシュとマザーのあいだで何かが大きく裂け、

炎が一段高く噴き上がった。


匠一は反射的に子どもたちの方へ身を投げる。

年長の少年が年少の子を抱え、年長の少女がみいを庇い、ミオが泣きながら床へ伏せる。

熱風が寝台部屋を舐め、油皿の火が一斉に消えた。


暗闇が落ちる。


しばらく、誰も動けなかった。

耳鳴りだけがしていた。

焼けた木の匂い。

焦げた油の匂い。

そして、あの甘い匂い。


やがて、匠一が咳き込みながら起き上がる。

片手には、焼け焦げた外部記憶装置が握られていた。

青白い灯は、まだ消えていない。


戸口のあった場所には、黒く焼けた穴だけが残っていた。

ラマシュの姿はない。

逃げたのか、燃え尽きたのか、それともまだどこかにいるのか、誰にも分からない。


そして、その手前に。


マザーが倒れていた。


いや、倒れているというより、崩れていた。

膝から下はまだ立とうとした形を残し、上半身だけが戸口側へ折れ曲がっている。

片腕はなく、腹部は開いたまま、内部機構のほとんどが焼けていた。

顔の外装も半分が焦げ、いつもの無表情はもう保てていない。


それでも、子どもたちの方を向いていた。


最後まで、そちらを向いて壊れたのだと分かる姿勢だった。


みいが、年長の少女の腕を振りほどいた。


止める間もなかった。

裸足のまま床を走り、焼けた木片を踏み越え、崩れたマザーのところへ膝から落ちる。


「マザー」


返事はない。


「マザー」


もう一度呼ぶ。

今度は少し大きく。

返事はない。


みいは壊れた肩へ手を伸ばし、熱さにびくりと震えた。

それでも手を離さない。

焦げた外装の隙間に指をかけ、まるで起こそうとするみたいに身体を寄せる。


「やだ」


声が潰れる。


「やだよ」


ミオが泣き出した。

今度はもう、声を殺せなかった。

年長の少女もその場に座り込み、口を押さえたまま泣いている。

年長の少年は立ったまま動けず、ただ顔を歪めていた。


匠一だけが、しばらく何も言わなかった。


焼けた記憶装置を握ったまま、崩れたマザーと、そこにすがる子どもたちを見ていた。

その顔には、怒りも、悲しみも、後悔も、全部あった。

ありすぎて、どれひとつ表情になりきれていなかった。


外では、夜がまだ終わっていない。

けれど寝台部屋の中では、もうひとつの夜が落ちていた。


子どもたちにとって、マザーがいない夜だった。

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