夜は、報告を待ってはくれなかった。
見難い火傷の子314
夜は、報告を待ってはくれなかった。
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
匠一が管理区画へ使いを出し、古い記録庫の鍵を借りに走らせ、外壁の見回りを増やしたころには、もう陽が傾きはじめていた。
巨大な麦穂の影が中庭を斜めに横切り、石壁の継ぎ目に潜んでいた犬ほどの蜥蜴が、温度の下がる前に最後の陽を吸おうと腹を広げている。
八倍の世界では、夕暮れが来るたび、あらゆるものの影だけが先に夜へ入っていく。
孤児院の窓には、ありあわせの板が内側から打ちつけられた。
戸口には青銅の閂が二重に渡され、普段は倉庫にしまわれている油壺まで運び出される。
火を絶やすな。
子どもをひとりにするな。
名前を呼ばれても返事をするな。
年長の子どもたちは、半分は本気で、半分は自分を落ち着かせるために、そうした注意を何度も言い合っていた。
だが、何をしても、確かな手応えはなかった。
板を打てば防げるのか。
火を焚けば寄せつけないのか。
青銅が効くのか。
祈りが効くのか。
誰にも分からない。
分からないまま夜だけが来る。
マザーは食堂と寝台部屋と戸口のあいだを、昼からずっと歩き続けていた。
窓の補強を確認し、寝台の配置を変え、年少の子を年長の子の近くへ移し、点呼を繰り返す。
その動きはいつもより速い。
けれど乱れてはいない。
むしろ正確さだけが研がれて、ひどく静かな刃物みたいに見えた。
「寝台は壁から離してください。窓際には置かない」
「水差しは中央卓へ集約」
「夜間の便所移動は二名以上。必ず呼び出しを行うこと」
「泣いている子がいても、単独で窓へ近づかない」
言いつけを受けるたび、子どもたちは頷く。
普段なら文句のひとつも出るところだが、今日は誰も逆らわなかった。
ミオはもう泣き疲れて黙っているし、前歯の抜けた少年はやけに聞き分けがいい。
年長の少女だけが、手伝いのふりをしながら何度も窓の外を見ていた。
三一二は、寝台部屋のいちばん奥へ移された。
窓から最も遠い場所。
壁際でもなく、出入口にも近すぎない、部屋の中央寄り。
年長の子どもたちに囲まれる位置だ。
守るには都合がいい。
けれど、三一二はその配置を見たとき、少しだけ変な顔をした。
「そこじゃだめだよ」
小さな声だった。
だが、近くにいたマザーには聞こえた。
「理由を確認したい」
三一二は毛布を抱えたまま、しばらく黙っていた。
火傷の痕がある側を隠すように肩を寄せ、視線だけを床へ落としている。
「真ん中にいると、逃げられない」
その言葉に、寝台を運んでいた年長の少年が手を止めた。
年長の少女も振り向く。
誰もすぐには何も言えない。
マザーだけが、変わらない声で答えた。
「今夜は逃走より保護を優先します」
「だめだよ」
三一二は首を振った。
「来たら、みんな起きる前に連れていく」
「真ん中にいたら、ほかの子も起きる」
「そしたら、そっちを見る」
その“そっち”が何を指すのか、説明はなかった。
けれど、聞いた子どもたちはみな理解した。
ラマシュのことだ。
「見たら、どうなるの」
年長の少女が、思わず訊いた。
三一二は答えない。
代わりに、抱えた毛布の端を指でねじる。
その癖は、昼間から何度も見せていたものだった。
言いたくないことがあるときの手つきだと、もう何人かは気づき始めている。
「三一二」
マザーが呼ぶ。
番号で呼ばれるたび、その子は少しだけ顔をしかめる。
だが、まだ名前を言わない以上、他に呼びようがない。
「今夜の危険評価に必要です。知っていることを報告してください」
沈黙が落ちる。
窓の外では、夕方の巨大な羽虫が石壁にぶつかって、乾いた音を立てた。
誰かが小さく肩をすくめる。
やがて三一二は、ひどく嫌そうに唇を開いた。
「見た子から、順番に呼ぶ」
部屋の空気が止まった。
「最初は、ひとりだけ」
「でも、返事をすると、覚える」
「覚えたら、次からは名前で呼ぶ」
「母さんの声じゃなくても、そう聞こえるようになる」
年長の少年が息を呑む。
ミオがまた泣きそうな顔になる。
年長の少女は、無意識に自分の口を押さえていた。
「どこで知ったのですか」
マザーが訊く。
三一二は答えない。
その代わり、火傷の痕がある側の首筋に、うっすらと赤みが差した。
古傷が疼くときの色だと、マザーの視覚補助は判断しているのかもしれない。
「……前のところで」
それだけ言って、三一二は目を伏せた。
前のところ。
それが家なのか、別の孤児院なのか、地下の避難所なのかは分からない。
けれど、その短い言葉だけで十分だった。
この子は、ただ怯えているのではない。
知っている。見ている。たぶん、失っている。
マザーは数秒、沈黙した。
内部で優先順位を組み替えているような、短い停止だった。
「配置を変更します」
「え」
年長の少年が声を上げる。
「三一二の寝台を戸口側へ移動。私の待機位置を同一線上に設定」
「他児童は中央へ集約。視線誘導を遮断するため、夜間照明を減光します」
「おい、それって」
年長の少女が言いかける。
三一二を囮にするみたいだ、と。
だが最後までは言えなかった。
マザーはその言葉を待たずに答える。
「囮ではありません。最優先保護対象への最短介入位置です」
機械的な言い方だった。
けれど、その配置の意味は誰にでも分かった。
ラマシュが三一二を狙うなら、マザーがその間に立つ。
最初から、そのための位置を取るつもりなのだ。
「危ないよ」
三一二が言った。
今度はマザーに向けて、はっきりと。
「あなた、壊れるよ」
部屋の隅で、誰かが息を止めた。
マザーは三一二を見る。
その視線には驚きも怒りもない。
ただ、確認するみたいな静けさだけがある。
「保護機の損耗は想定範囲内です」
「ちがう」
三一二は首を振る。
その動きは小さいのに、妙に必死だった。
「そういう壊れ方じゃない」
「持っていかれる」
「引っ張られて、開いて、戻らなくなる」
その言葉は、見たことのある子の言葉だった。
想像では出てこない。
比喩でもない。
実際に何かが壊れるところを見た子の言い方だった。
寝台部屋の空気が、夕闇より先に冷えていく。
マザーは一歩だけ三一二に近づいた。
子どもを怯えさせない速度で、けれど迷いなく。
「それでも、あなたを保護します」
三一二は何も言わない。
ただ、毛布を抱く腕に力を込める。
「今夜、あなたはひとりになりません」
その声はいつものマザーの声だった。
正確で、平坦で、少しだけ冷たい。
けれど、その冷たさの奥にあるものを、子どもたちはもう知っている。
毛布を掛ける手。
転んだときに額を支える手。
名前を言えない子に、番号ではなく名前が必要だと言った声。
だから誰も、その言葉を疑わなかった。
疑えなかった。
外では、最後の陽が石壁の上から消えた。
巨大な麦穂の影がほどけ、代わりに地下から上がってくる湿った冷気が、戸口の隙間を探し始める。
夜が来る。
報告も、祈りも、板戸も待たずに。
そして今夜は、来ると分かっているものを待たなければならなかった。
寝台部屋の灯りは、いつもより早く落とされた。
完全な消灯ではない。
中央卓に集められた油皿が、芯を絞られて低く燃えている。
明るすぎれば窓の向こうが見えなくなる。
暗すぎれば、部屋の中の子どもたちの顔が見えない。
そのぎりぎりを探った結果の、ひどく落ち着かない薄明かりだった。
寝台の配置は昼のうちに変えられていた。
年少の子は中央へ。
年長の子はその外側へ。
窓際は空けられ、板を打った壁の前には水桶と農具箱が積まれている。
戸口側、部屋の端に近い位置にだけ、ひとつ寝台が離して置かれていた。
三一二の寝台だった。
そのすぐ脇、戸口と寝台のあいだに、マザーは椅子も使わず立っていた。
座れば反応が遅れる。
そう判断したのだろう。
壁際に寄りかかることもせず、両手を下ろしたまま、ただ静かに待機している。
その姿は見慣れているはずなのに、今夜はまるで別のものみたいだった。
家事機でも、保育機でもなく、境界に立つためだけに作られた古い守りの像のように見えた。
子どもたちは毛布の中で、なかなか眠れなかった。
眠れるはずがない。
昼間の映像を見てしまった子もいる。
見ていなくても、見た子の顔を見てしまっている。
ラマシュは本当に来た。
そしてまた来るかもしれない。
その事実だけで、寝台部屋の空気は毛布の下まで冷えていた。
ミオが、中央の寝台から小さな声で言った。
「ねえ」
誰も返事をしない。
返事をすると、名前を覚えられる。
そんな話を聞いたばかりだったからだ。
ミオは少し待ってから、もっと小さく続けた。
「起きてる?」
「起きてるよ」
今度は年長の少女が答えた。
名前ではなく、声だけで。
それでもミオは少し安心したらしい。
毛布の擦れる音がした。
「ほんとに来るかな」
「来ない」
年長の少年が、すぐに言った。
言い切り方が強すぎて、かえって自分に言い聞かせているのが分かる。
「板も打ったし、火もあるし、マザーもいる」
「でも、昨日もいた」
ミオの声は震えていた。
「昨日も、窓の外にいた」
そのあと、しばらく誰も何も言わなかった。
油皿の火が小さく鳴る。
外壁のどこかで、巨大な羽虫が板にぶつかる鈍い音がした。
誰かが毛布の中で息を止める。
「……三一二」
年長の少女が、暗がりの向こうへ声を投げた。
戸口側の寝台にいる子へ向けて。
「起きてる?」
少し間があった。
「起きてる」
返ってきた声は小さい。
けれど昼間よりは、少しだけほどけていた。
「眠れない?」
「うん」
「わたしも」
少女はそう言ってから、少し迷った。
それから、なるべく軽い声を作ろうとして失敗した声で言う。
「三一二って、呼びにくいよね」
年長の少年が「おい」と小さくたしなめる。
こんなときに何を言い出すんだ、という響きだった。
だが少女はやめなかった。
「だって長いし」
「マザーはいいけど、わたしたちだと変な感じする」
「ね、ミオもそう思わない?」
「……うん」
ミオは素直に頷いた気配を見せた。
「さんいちに、って言うと、なんか怒られてるみたい」
その一言で、何人かがほんの少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
笑っていい空気ではないと分かっているのに、それでも漏れてしまうくらいの、小さな笑いだった。
戸口側の寝台で、三一二が毛布を少しだけ下げる音がした。
「別に」
そう言った声は、照れているのか、拗ねているのか分からない。
「呼ばれないよりは、いい」
その言葉に、部屋の空気がほんの少し変わった。
年長の少女は、その変化を逃さなかった。
「じゃあさ」
「みい、ってどう?」
「は?」
「短いし、呼びやすいし」
「なんで“みい”なんだよ」
年長の少年が呆れたように言う。
「なんとなく」
「ほら、み、って感じするじゃない」
「全然説明になってない」
「でも呼びやすいでしょ」
ミオが毛布の中から、ためしに小さく言った。
「……みい」
その二音は、暗い寝台部屋の中で驚くほどやわらかく響いた。
番号でも、記録でも、管理でもない。
ただ、そこにいる子へ向けた呼び声だった。
三一二はすぐには返事をしなかった。
けれど否定もしない。
年長の少女が、もう一度呼ぶ。
「みい」
今度は少しだけ、笑うみたいな声で。
「いやならやめるけど」
長い沈黙のあと、戸口側の寝台から小さな声が返った。
「……いやじゃない」
それだけだった。
けれど、それで十分だった。
ミオがほっとしたように息を吐く。
年長の少年は「勝手だな」と呟いたが、止めはしなかった。
誰が最初に決めたわけでもない。
誰の許可を取ったわけでもない。
ただその夜、番号で呼ぶにはあまりに寒すぎたから、子どもたちはその子をそう呼んだ。
みい。
その名は、毛布から毛布へ渡る体温みたいに、静かに寝台部屋へ広がった。
マザーは何も言わなかった。
戸口のそばに立ったまま、ただ一度だけ視線を動かし、戸口側の寝台を見た。
その視線の意味を読み取れた子はいない。
けれど、止めなかったという事実だけで十分だった。
やがて、部屋は少しずつ静かになっていった。
眠ったわけではない。
誰もが耳を澄ませている。
板を打った窓の向こう。
戸口の外。
石壁の継ぎ目。
地下へ続く冷たい気配。
どこから何が来てもおかしくない夜の音を、子どもたちは毛布の中で数えていた。
油皿の火が、ふっと細くなる。
そのときだった。
戸口側の寝台から、かすかな衣擦れの音がした。
マザーの視線が動く。
同時に、年長の少女も身を起こしかける。
みいが、毛布の中で固まっていた。
「どうしたの」
少女が囁く。
みいは答えない。
ただ、目だけが戸口の方を見ている。
暗がりの向こう、マザーの立つさらに先。
閉ざされたはずの戸口の、その下の隙間を。
誰も動かなかった。
油皿の火が、もう一度だけ揺れた。
そして、戸口の向こうから、何かが板を撫でるような、長い爪の先で木目をなぞるような音がした。
きい、とも、しい、ともつかない、湿った音だった。
ミオが息を呑む。
年長の少年が反射的に中央の子どもたちの前へ膝立ちになる。
年長の少女は声を出しかけて、口を押さえた。
マザーだけが動かない。
その静止が、かえって恐ろしかった。
聞いている。
待っている。
戸口の向こうにいるものの位置を、音だけで測っている。
音は、しばらく止んだ。
止んでしまったことの方が、よほど怖かった。
次に来るのが分かるからだ。
みいが、毛布の端を握りしめる。
火傷の痕がある側の頬は暗がりに沈んで見えない。
けれど、その喉が小さく上下するのが、近くの子には分かった。
そして。
戸口の向こうから、女の声がした。
『――みい』
寝台部屋の全員の背筋が凍った。
それは大きな声ではなかった。
むしろ、すぐ耳のそばで囁かれたみたいに近い声だった。
やさしい。
眠れない子を起こさないように気をつける母親の声に、ひどくよく似ている。
けれど、その部屋の誰も、そのやさしさを信じなかった。
なぜならその名は、ついさっき、この部屋の中で生まれたばかりだったからだ。




