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見難い火傷の子  作者: 清風
313/321

本当に来たラマシュ

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子313



本当に来たラマシュ



深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。



バビロンでは、ラマシュは脅し文句のはずだった。


泣きやまない子を黙らせるための名であり、

夜更かしをする子を寝台へ追い返すための影であり、

地下へ降りたがる子の足を止めるための、古い都市の迷信だった。


見たと言い出す子どもは珍しくない。

路地の奥にいた。

井戸のそばで笑っていた。

母さんの声で呼んだ。

そういう話は、季節の変わり目ごとにひとつは出る。


だから最初にミオが「来た」と言ったときも、

年長の子どもたちは半分笑っていた。


「またラマシュ?」


「今度はどこにいたの」


「窓の外」


笑い声はそこで少しだけ弱くなった。


ミオは椀を抱えたまま、食堂の窓を見ていた。

朝の光の中では、そこには何もない。

ただ、外壁を犬ほどもある蜥蜴が走り、

夜露を含んだ巨大な蜘蛛の巣が白く光っているだけだ。


「立ってたの」

ミオは小さな声で言った。

「ずっと、こっち見てた」


「夢だよ」と誰かが言う。

「寝ぼけてたんだって」


「夢じゃないもん」


その言い方があまりに真剣で、

食堂の空気は少しだけ静かになった。


マザーは配膳の手を止めなかった。

大鍋から粥をよそい、空いた椀を下げ、

こぼした子の袖を拭きながら、いつもの声で言う。


「夜間、窓辺に接近することは禁止されています。異常を視認した場合は、単独で確認せず、直ちに報告しなさい」


「ラマシュでも?」


年長の少年が、からかうように言った。


「危険対象の名称は問いません」


マザーは答える。


「危険は危険です」


それはいつも通りの返答だった。

正しくて、少しだけ冷たくて、

けれどこの家ではいちばん頼りになる声だった。


食堂の隅では、三一二が黙って座っていた。

昨夜運び込まれてきたばかりの、火傷の子。

片頬から首筋にかけて爛れの痕を残し、

まだ誰にも名前を言わない子どもだった。


その子の前の椀は、ほとんど減っていない。


マザーがそちらへ向かおうとした、そのときだった。


食堂の戸口の下に、泥があった。


誰かが外から踏み込んだような、湿った跡だった。

朝の乾いた土ではない。

地下水路の底を這ってきたものみたいに、黒く、粘っている。


最初に気づいたのは、前歯の抜けた少年だった。


「……なあ」


その声で、何人かが戸口を見る。

笑い声はもう出なかった。


泥の跡はひとつではない。

戸口の外から内へ向かって、細長く続いている。

裸足の足跡にも見えたし、

長い指で床を掴んで進んだ痕にも見えた。


ミオが椀を落とした。


甲高い音が響く。

その瞬間、三一二がびくりと肩を震わせる。

火傷のある側を隠すように身を縮め、

誰にも聞こえないほど小さく息を呑んだ。


「来た」


ミオが泣きそうな声で言った。


「ほんとに来た」


マザーが戸口へ向かう。

歩幅は変わらない。

だが、その目の奥で記録灯がひとつ点いたのを、

近くにいた年長の少女は見た気がした。


「全員、食堂中央へ移動」


マザーが言う。


「窓から離れなさい。点呼を開始します」


「マザー」


年長の少年の声が、少しだけ裏返る。

「それ、何」


マザーは泥の跡を見下ろしたまま、短く答えた。


「未確認。ですが、外部侵入の可能性があります」


それから、ほんのわずかに間を置いて付け加える。


「昨夜の巡回記録を照合します」


食堂の空気が凍る。

子どもたちは互いに押し合いながら中央へ寄り、

誰ももうラマシュの名を冗談では口にしなかった。


窓の外では、八倍の朝が何事もない顔で明るくなっていく。

巨大な麦穂が風に揺れ、

犬ほどの蜥蜴が石壁を走り、

拳大の葡萄に朝露が光る。


その下で、戸口に残された泥だけが、

夜の続きみたいに黒かった。


マザーが戸口の泥を記録しているあいだも、子どもたちは食堂の中央で固まったままだった。


年長の子が年少の肩を抱き寄せ、泣き出したミオの背をさする。

誰も大きな声を出さない。

ついさっきまで粥の硬さで笑っていた場所とは思えないほど、食堂は静まり返っていた。


「点呼を開始します」


マザーの声だけが、いつも通りの高さで響く。


名前を呼ばれた子どもたちは、ひとりずつ返事をする。

かすれた声、震えた声、わざと平気そうにした声。

そのどれもが、普段より少し小さい。


三一二の番になって、ほんのわずかに間が空いた。


「……います」


返事はした。

だがその声は、まるで喉の奥に引っかかったみたいに硬かった。


マザーは一度だけ三一二を見た。

それから点呼を終え、戸口の泥へ視線を戻す。


「全員在席を確認。外部侵入の痕跡あり。追加確認を実施します」


「追加確認って、なに」


年長の少女が訊いた。

強がっているが、指先は白くなるほど自分の袖を握っている。


「昨夜の巡回記録を照合します」


「映ってるかもしれないってこと?」


「可能性があります」


その返答に、食堂の空気がまたひとつ冷えた。


子どもたちは、マザーの体に記録機能があることを知っている。

正確には理解していなくても、見たものを残せるらしい、という程度には知っていた。

転んだ子の傷口を後で確認したり、食料庫の在庫を数えたり、夜間巡回の経路を整備係に見せたりするためのものだと聞かされている。


けれど、怪物が映るかもしれないという話は別だった。


「見なくていい」


不意に、三一二が言った。


誰もすぐには反応できなかった。

その子が自分から口を開くこと自体、珍しかったからだ。


三一二は椀の縁を握りしめたまま、うつむいている。

火傷の痕が残る側の頬は、朝の光の中でひきつれたように固く見えた。


「見なくていい」


もう一度、今度は少しだけはっきり言う。


「どうして」


年長の少年が訊く。

責める声ではなかった。

ただ、分からないという声だった。


三一二は答えない。

代わりに肩が小さく震えた。

その震え方が寒さのせいではないと分かるまでに、そう時間はかからなかった。


マザーが近づく。

足音はほとんどしない。

三一二の前で止まり、いつものように少しだけ姿勢を低くする。


「理由を確認したい」


沈黙。


「映像の確認が、あなたに苦痛を与える可能性がありますか」


三一二の指先が、椀の縁から離れた。

代わりに、自分の服の裾を掴む。


「……来るから」


「何が」


「見たら、また来る」


食堂の中央で、誰かが息を呑んだ。


ミオが泣きそうな顔で年長の子にしがみつく。

前歯の抜けた少年は、さっきから一度も戸口の方を見ていない。

年長の少女だけが、三一二を見つめていた。


「見たの」


少女が訊く。


三一二はしばらく黙っていた。

やがて、ほんの少しだけ頷く。


「夜」


それだけ言って、唇を噛む。

言葉を続けるのが難しいのだと分かった。


マザーは急かさなかった。

ただ待った。

子どもたちも、誰も口を挟まなかった。


「窓のとこにいた」

三一二は途切れ途切れに言う。

「立ってた。ずっと」

「顔は見えなかった。けど、見てた」

「おいでって」

「痛いの、なくしてあげるって」


最後の一言で、食堂の何人かが目を伏せた。


それはあまりにも、子どもを誘う言葉として完成していた。

脅しではない。

怒鳴りでもない。

やさしい声で、弱っているところへ入り込むための言葉だった。


「母親の声でしたか」


マザーが訊く。


三一二は首を振る。

それから、少し迷ってから言った。


「……知らない声」

「でも、そういうふうに聞こえた」


マザーの記録灯が、またひとつ点いた。


「了解しました」


その声は変わらない。

だが、食堂にいる子どもたちはみな、マザーがいつもより深く考えていることを感じ取っていた。


「記録照合を行います。ただし、全員での視聴は推奨しません」


「なんで」


「精神的負荷の可能性があります」


「じゃあ誰が見るの」


「私と、成人管理者」


その返答に、年長の少女が小さく眉を寄せた。


「匠一を呼ぶの?」


「呼びます」


マザーは即答した。


「外部侵入の可能性、未確認危険対象の接近、保護対象への接触示唆。単独判断の範囲を超えています」


それは機械的な言い方だった。

けれど、その内容はつまり、本気で危険だと判断したということだった。


食堂の奥にある管理室は、もともと倉庫だった部屋を改装しただけの狭い空間だった。

壁には乾燥薬草の束と、修理待ちの農具と、古い帳簿が同居している。

その中央に、場違いなほど新しい再生端末がひとつだけ置かれていた。


匠一が呼ばれて来たとき、まだ上着の片袖に工具油がついていた。

寝起きではないが、完全に仕事の顔でもない。

ただ、食堂の空気を見た瞬間に表情が変わった。


「何があった」


「外部侵入痕跡を確認しました」


マザーが答える。


「昨夜の巡回記録との照合を要請します」


匠一の視線が、戸口から採取された泥の入った浅皿へ落ちる。

それから、部屋の隅で毛布にくるまって座っている三一二へ移った。

最後に、マザーの顔を見る。


「……本気か」


「はい」


短い沈黙のあと、匠一は端末の前に立った。


「再生」


壁に吊った白布へ、粗い映像が投影される。

色は薄く、夜間記録のせいで輪郭も甘い。

それでも、孤児院の回廊と食堂前の通路であることは分かった。


時刻表示は深夜。

子どもたちの就寝後だ。


映像の中で、マザーが回廊を歩いている。

寝台の数を確認し、窓の施錠を見て、火の始末を点検する。

その動きは規則的で、無駄がない。

毎晩繰り返している巡回そのものだった。


「ここまでは通常」


匠一が低く言う。


マザーは答えない。

記録の中の自分を見ている。


映像が食堂前の通路へ切り替わる。

戸口の外、石段へ続く短い廊下。

夜気が白く滲み、画面の端では巨大な蜘蛛の巣が風に揺れている。


最初は何もいない。


だが、数秒後だった。


画面の左端、戸口の外のさらに向こう。

石壁と闇の境目に、何かが立っていた。


誰もすぐには言葉を出せなかった。


人影に見えた。

女の形にも見えた。

だが、立ち方が違う。

肩の位置が高すぎる。

腕が長すぎる。

頭を傾ける角度が、人間の首の可動域を少しだけ越えている。


しかも、それは最初からそこにいたみたいに静かだった。

歩いて現れたのではない。

気づいたときには、もう立っている。


ミオが小さく悲鳴を呑み込む。

年長の少女が反射的にその目を塞ごうとして、遅れた。

三一二は毛布の端を握りしめたまま、画面から目を離せないでいる。


映像の中のマザーは、まだ気づいていない。

巡回経路に従って戸口へ近づく。

そのたびに、画面の端の影が少しずつ鮮明になる。


痩せた女の輪郭。

けれど腰から下の線が曖昧で、衣の裾にも、濡れた獣の腹にも見える。

腕の先は指というより、細長い枝のようだった。

顔は暗くて見えない。

ただ、そこに顔があるはずの位置だけが、妙に白い。


「停止」


匠一が言った。

だが自分で言っておきながら、すぐには端末に触れなかった。


「……いや、続けろ」


映像が進む。


その影が、動いた。


一歩ではない。

滑るように距離を詰める。

足がどうなっているのか分からない。

歩行というより、闇の濃いところから薄いところへ滲み出してくるみたいだった。


そして、音声が入る。


最初はノイズにしか聞こえない。

水音のような、布を引きずるような、遠くで誰かが囁くような音。

それが少しずつ、人の声に近づいていく。


『――おいで』


管理室の空気が凍った。


子どもたちの誰かが、はっきりと嗚咽を漏らした。

ミオではない。

もっと年上の、普段は強がる子だった。


『こわくない』

『もう、いたくない』


声は女のものだった。

若くも老いてもいない。

やさしいと言えばやさしい。

けれど、そのやさしさは誰かのためのものではなく、

相手をほどくためだけに作られた声音だった。


三一二が、毛布の中で小さく身を折った。


「止めて」


かすれた声が出る。


だが映像の中では、もう次の瞬間が始まっていた。


回廊の角、三一二の寝台がある部屋の窓辺に、内側から小さな影が近づく。

眠れずに起きたのか、あるいは声に呼ばれたのか。

子どもの輪郭が、窓の向こうにぼんやり浮かぶ。


その瞬間、映像の中のマザーが振り向いた。


記録灯が点く。

警告音が短く鳴る。

マザーが走る。


旧式機とは思えない加速だった。

通路の椅子が弾き飛び、壁に掛けた籠が落ちる。

画面が激しく揺れ、戸口の影が一瞬だけ真正面に入る。


白い。

顔ではない。

顔のあるべき場所に、白く濡れた面だけがある。

その中央が、笑ったように裂ける。


ノイズが走る。


次の瞬間、映像は床を映していた。

石床。

散った泥。

引きずられたような線。

そして、マザーの音声だけが残る。


「保護対象を確認。接触を阻止します」


その声の直後、金属がひしゃげる音がした。


映像が途切れる。


管理室の中で、誰もすぐには動かなかった。


端末の駆動音だけが、やけに大きく聞こえる。

外では朝が進み、巨大な何かの羽音が遠くを横切っていく。

けれどこの部屋だけ、まだ夜の底に取り残されたみたいだった。


最初に口を開いたのは匠一だった。


「……映ってる」


それは確認の言葉であると同時に、諦めの言葉でもあった。


「見間違いじゃない」


誰に向けたものでもない声だった。


マザーは沈黙している。

自分の記録の断絶点を、内部で何度も照合しているのかもしれない。


三一二は毛布を握ったまま、うつむいていた。

火傷の痕がある側の頬は見えない。

ただ、その肩が細かく震えている。


「来る」


三一二が言った。


誰も返事をしない。


「また来るよ」


今度は、はっきり聞こえた。


「だって、まだ連れていってないから」


その一言で、管理室にいた全員が理解した。

ラマシュは通りすがりではない。

偶然でもない。

あれは見に来たのだ。

確かめに。

狙った子が、まだそこにいるかどうかを。


マザーの記録灯が、静かに点滅した。


「警戒レベルを引き上げます」


その声はいつも通りだった。

だが、いつも通りであることが、かえって恐ろしかった。


「本日以降、夜間単独行動を全面禁止。窓際寝台の配置変更。巡回頻度を倍化します。成人管理者へ危険対象接近の正式報告を推奨」


匠一が顔を上げる。


「推奨、じゃない。報告する」


「了解しました」


「……だが」


そこで匠一は言葉を切った。

端末の停止した画面を見つめる。

白い布の上には、もう何も映っていない。

それでも、さっきまでそこにいたものの輪郭だけが、目の裏に残っている。


「報告したところで、すぐに有効な対策が来るとは限らない」


誰も反論しなかった。


証拠はある。

映像もある。

本当に来た。

だが、それだけだ。


何であるのか。

どう止めるのか。

何が効くのか。

どこまで入って来られるのか。

それはまだ、何ひとつ分からない。


管理室の隅で、三一二がかすかに顔を上げた。


「窓、閉めても来るよ」


その声は、泣いているわけでも、怯えているわけでもなかった。

もっと悪いものだった。

もう知っている子の声だった。

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