消えた要検査品
見難い火傷の子312
消えた要検査品
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
バビロンでは、聞き分けの悪い子のところにはラマシュが来ると言う。
夜更かしをする子。
泣きやまない子。
大人の目を盗んで地下水路へ降りる子。
そういう子の名を、ラマシュは覚えるのだと。
ラマシュがどんな姿をしているのか、正確に知る者はいない。
痩せた女の姿をしているとも、墓肉を喰って肥えた獣だとも、地下の湿り気をまとって歩く影だとも言われる。
ただ、どの言い伝えにも共通していることがひとつだけあった。
あれは子どもを抱いていく。
喰うために。
囲うために。
あるいは、母の真似をするために。
だからバビロンの母親たちは、子を叱るとき、決まってその名を使った。
ラマシュが来るよ。
早くお眠り。
泣いていると見つかるよ。
それは半ば冗談で、半ば迷信で、そして時々、本当だった。
捨て子の多い年には、地下で子どもが消える。
飢えた季節には、夜の戸口に小さな泥の足跡が残る。
地下墓所に近い区画では、優しい女の声に返事をしてはいけないと、年寄りたちは真顔で言う。
名を呼ばれても振り向くな。
あれは母の声を真似る。
そう教えられて育つのが、この都市の子どもたちだった。
もっとも、孤児院の子どもたちにとって、夜にやって来る“母”は別にいた。
まだ陽も昇りきらないうちから、台所では火が入る。
青銅の鍋の底を叩く音がして、井戸水を汲み上げる滑車が軋む。
寝台の並ぶ部屋では、毛布を蹴飛ばした子どもに、誰かが無言で掛け直していく。
それから少し遅れて、食堂の鐘が鳴る。
孤児院の朝は、だいたいその音で始まった。
「起床時刻を超過しています。顔を洗いなさい。走らない。押さない。本日の粥は十分にあります」
怒鳴るわけではない。
けれど逆らいにくい声だった。
子どもたちは半分眠ったまま寝台を降り、半分はもう喧嘩を始め、年長の子が年少の子の襟首を掴んで引きずっていく。
そのあいだを、ひとりの女が静かに歩いていた。
旧式の母性オートマタ。
保育補助、家事補助、生活指導、簡易医療処置。
本来なら、もっと整った施設で使われるはずだった機体だと聞く。
だが今は、深淵ダンジョン第十六エリアの外れ、バビロンの孤児院で、朝の鐘を鳴らしている。
その機体名を知る者は少ない。
子どもたちはみな、ただマザーと呼んでいた。
マザーは大鍋を片手で持ち上げ、もう片方の手で椀を並べ、ついでのように転びかけた子どもの額を支える。
人間の女に似せて作られてはいるが、近くで見れば肌の継ぎ目は分かるし、首筋には整備用の細い線も走っている。
それでも子どもたちは気にしなかった。
朝に起こし、昼に叱り、夜に毛布を掛けるものは、この家では母と呼ばれる資格がある。
「マザー、パンが硬い」
食堂の端で、前歯の抜けた少年が言った。
「本日の焼成状態は通常範囲内です」
「うそだ、昨日より硬い」
「ではスープに浸してください」
「そういう問題じゃないんだよ」
「栄養摂取の観点からは重要な問題です」
少年の向かいで、年上の少女が吹き出した。
つられて何人かが笑う。
マザーは笑わない。
だが、ほんのわずかに首を傾げるその仕草が、子どもたちには妙に人間らしく見えた。
食堂の窓の外では、八倍の世界が朝を始めていた。
中庭の隅に積まれた麦束は子どもの背丈より高く、壁を走る蜥蜴は犬ほどもある。
井戸端に落ちていた葡萄はひと粒で拳大、夜のあいだに張られた蜘蛛の巣は漁網のように光っていた。
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
人間だけが例外みたいに小さい。
だから都市はいつも、何か巨大なものの食べ残しの上に築かれているように見えた。
「昨日、裏路地で見たんだ」
粥をすすりながら、年少のひとりが声を潜めた。
「何をですか」
マザーが即座に応じる。
「……ラマシュ」
食堂の空気が少しだけ止まった。
年長の子が、ばか、と小声で言う。
別の子は面白がって身を乗り出し、また別の子は露骨に嫌そうな顔をした。
ラマシュの話は、明るい食堂でするには向かない。
「どこで」
「裏路地の、井戸のないほう。泥がついてて、女みたいで、でも背中が変で」
「それで?」
「こっち見た。たぶん」
「見間違いだよ」と年長の少女が言った。「朝っぱらからやめて」
「ほんとだって。ミオも見ただろ」
名を呼ばれた小さな子は、椀を抱えたまま肩をすくめた。
「声がしたの。おいで、って」
今度こそ、何人かが黙った。
子どもたちはラマシュの話を笑うこともできる。
けれど、完全には笑い飛ばせない。
この都市では、そういうふうに育つ。
聞き分けの悪い子のところにはラマシュが来る。
泣いている子を抱いていく。
優しい声で名を呼ぶ。
それがただの脅し文句では済まない夜が、たしかにある。
マザーは数秒、沈黙した。
内部で何かを照合しているような、短い間だった。
「裏路地への単独進入は禁止されています」
それから、いつも通りの声で言った。
「特に夜間および早朝は危険度が上昇します。今後、許可なく外へ出た場合、朝食後の自由時間を制限します」
「ラマシュの話じゃないのかよ」
「危険対象の名称は問いません。危険は危険です」
「いるかもしれないじゃん」
「いるかもしれないものに近づかないための規則です」
それはあまりにも正しい返答で、何人かが不満そうに唇を尖らせた。
けれどマザーは気にしない。
椀の空いた子におかわりをよそい、袖口を粥で汚した子の手を拭き、食べるのが遅い子の前には匙を置き直す。
その手つきは正確で、無駄がなく、そして妙にやさしかった。
食堂の隅、まだ新しい寝台をあてがわれたばかりの子が、黙ってその様子を見ていた。
昨夜遅くに運び込まれてきた子だった。
煤と泥にまみれ、片頬から首筋にかけてひどい火傷の痕があり、誰にも名を言わなかった。
記録簿には、ひとまず保護順に振られた番号だけが書かれている。
三一二。
その子は、他の子どもたちがマザーに向ける気安さを、まだ理解できずにいるようだった。
椀にもほとんど手をつけず、ただ、食堂のざわめきの向こうで動く女の姿を見ている。
やがてマザーが、その視線に気づいた。
視線を返し、まっすぐ歩いてくる。
子どもはわずかに身を強ばらせた。
火傷のある側を隠すように肩を引く。
けれどマザーは速度を変えない。
ためらいも、憐れみも、露骨な観察もなく、その子の前で足を止めた。
「摂食量が不足しています」
静かな声で言う。
「痛みがありますか」
子どもは答えない。
「味覚異常、嚥下障害、あるいは対人緊張の可能性があります」
それからマザーは、ほんの少しだけ姿勢を低くした。
子どもの目線に合わせるための動作だった。
「無理に食べなくても構いません。ですが、水分は摂取してください」
差し出されたコップを、子どもは見た。
金属の指は大きくも小さくもなく、ただ安定していた。
傷を見ていないわけではない。
見て、それでも目をそらしていない。
「……ラマシュみたいだ」
誰にも聞こえないほど小さな声で、子どもが言った。
マザーは一拍置いた。
「否定します」
その返答があまりに即答で、近くにいた年長の少女が吹き出しかけ、慌てて口を押さえた。
「私は当院所属の保護補助機です」
そう言って、マザーはコップを机に置く。
「通称、マザー」
それから、少しだけ間を置いて続けた。
「あなたの呼称を確認したい。記録番号ではなく、名前が必要です」
食堂のざわめきが、遠くでまだ続いている。
窓の外では犬ほどの蜥蜴が壁を走り、巨大な麦穂が朝の風に揺れていた。
ラマシュは聞き分けの悪い子を抱いていくと、この都市では言う。
けれどその朝、三一二の前にいたのは、傷を見ても目をそらさず、番号ではなく名前を求める別の“母”だった。




