メディア王国立初等貴族学校の修学旅行・後編
見難い火傷の子311
メディア王国立初等貴族学校の修学旅行・後編
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
ゆえに、草は森となり、虫は獣となり、獣は災害となる。
その災害を、子どもたちは見に来ていた。
朝の民宿は、昨夜が嘘のように静かだった。
朝食の席で私語は少なく、食器の触れ合う音ばかりが耳につく。
女教師はいつも通りの顔をしていたが、男教師はいつもより少しだけ無言で、教頭は必要なことしか言わなかった。
「本日の見学は予定通り行います」
教頭が告げる。
「列を乱さないこと。指示に従うこと。昨夜の件は帰校後に記録します」
短い。
だが、それで十分だった。
やがて三台の大型馬車が、谷へ下る街道をゆっくりと進み始める。
濃紺の車体に金の縁取り。
扉にはメディア王国立初等貴族学校の校章。
前後を護衛騎士が固め、さらに園の案内役が徒歩で随行している。
だが馬車の中は、護衛の緊張とは別の意味で騒がしかった。
静かにしようとしているのに、静かになりきれない。
そういう種類のざわめきだった。
「本当にカルカダンがいるの?」 ルカが言う。
「しおりに書いてありました」 セレナが即座に返す。
「でも八倍なんでしょう?」 「そのはずですわ」 ミレイユの声は、昨日より少しだけ小さい。
「家より大きいって聞いた」 「誇張ではないと思う」 エドガーが言う。
「うそ」 「ほんと」
ルカとアシュレイが短く言い合う。
最後の声だけ、少し不安そうだった。
通路側に立つ女教師が、座席を軽く叩く。
「静かに。窓から身を乗り出さないこと。手袋を外さないこと。安全規則第二項を復唱できますね?」
「列を乱さない」 セレナが言う。
「許可なく柵に近づかない」 アシュレイが続ける。
「餌を与えない」 ミレイユが言い、
「刺激しない」 ルカが最後を取った。
「“刺激しない”って、具体的には?」 ルカがすぐに聞く。
「大声とか?」 ミレイユが言う。
「石投げとかじゃない?」 アシュレイが言う。
教師はそこで静かに言った。
「あなたが投げなくても、隣が投げない保証はありません」
車内が少しだけ静かになる。
昨夜の記憶が、何人かの頬をわずかに熱くした。
カイだけが、窓の外ではなく、しおりの見学図を見ていた。
初等貴族学校の上級学年。
年齢はまだ幼い。
だが家柄だけは一人前で、好奇心も見栄も強い。
先頭馬車の御者台で、護衛騎士が低く呟いた。
「見えてきた」
その一言で空気が変わった。
子どもたちが一斉に窓へ寄りかけ、教師が「寄らない」と鋭く制する。
それでも視線だけは外へ向く。
谷の向こう。
岩壁に抱かれるように広がる巨大な囲い。
青黒い金属柵。
石塁。
見張り台。
落とし格子。
遠目にも分かる。
あれは牧場というより、小さな砦だった。
そして風が吹いた。
獣臭。
泥。
湿った草。
乾いた血。
巨大な生き物の熱気。
馬車の中で、ルカが小さく呟く。
「……くさい」
正直すぎる感想だった。
だが教師は叱らなかった。
「覚えておきなさい」
静かな声だった。
「これが現場の匂いです」
その声音には、教室で授業をする時とは違う硬さがあった。
最後尾の馬車では、年配の男教師が一冊の冊子を閉じていた。
『勇者の記録と物語』
出発前の講義で読ませた教材。
編纂王国メディアの報道記事と、中等冒険者フツウの実務記録を並べたものだった。
勇者ロビンの一撃が戦線を救った夜。
その栄光と、その後始末。
男教師は窓の外の巨大柵を見ながら呟く。
「勇者は、確かに世界を救います」
近くの生徒がすぐに反応した。
ミレイユだった。
「では先生、ここは勇者様が守った場所なのですか?」
教師は少しだけ考え、それから答える。
「半分はそうです」
そして続けた。
「もう半分は、勇者の後に残された場所です」
意味が分からない、という顔が並ぶ。
それでいい、と教師は思った。
今日ここで見せたいのは、まさにその“残された後”なのだから。
馬車列は減速し、カルカダン園の外門前で停止した。
門前には既に園の職員たちが並んでいた。
案内主任、飼育担当、記録係。
見学用の導線は整えられ、外門の脇には注意事項を書いた板まで立てられている。
その少し後ろ、搬入路の脇には、教師たちが事前に協力を依頼していた三人の姿もあった。
記録帳を抱えたフツウ。
腕を組むバルド。
白い外套を纏ったネリス。
その背後。
第三囲いへ続く搬入路の奥で、灰白色の巨影がゆっくりと動いた。
生徒の一人が窓越しにそれを見つける。
セレナだった。
「いた」
声が震えていた。
「……本当に、いた」
それは絵本ではなかった。
英雄譚の背景でもなかった。
耳を揺らし、泥を踏み、生きた熱を放つ巨大な獣が、ただそこに存在していた。
教師が静かに息を吸う。
「降車します。二列。私語は控えめに。質問は見学後半で受けます」
扉が開く。
八倍の世界の匂いが、子どもたちを迎えた。
見学は、最初から子どもたちの想像を裏切った。
もっと派手で、もっと英雄譚めいたものを期待していた者もいた。
だが実際に彼らの前にあったのは、柵の厚み、門の重さ、見張り台の配置、餌の搬入記録、糞尿処理の導線、負傷時の退避路、そして毎日積み上がる報告書だった。
「こちらが第三囲いです」
園の案内主任が、見学用の柵の前で足を止めた。
「個体の機嫌が不安定な日は、見学位置を二歩下げます。本日は風向きの関係で匂いは強いですが、比較的落ち着いています」
カイが、思わず見張り台と搬入路を見比べていた。
「正面から近づかせない構造なんですね」
その呟きに、フツウが一瞬だけ視線を向ける。
「そうです。正面は見せるための門で、実際に使うのは横の導線です」
カイは黙る。
昨夜、枕投げの退路を語っていた口が、今は本物の退避路を見ていた。
別の生徒が、柵の向こうの巨体を見上げながら問う。
ルカだった。
「勇者様は、これと戦ったのですか」
フツウは柵の向こうの巨体を見上げたまま答えた。
「戦いました。ですが、倒した後に必要なのは別の仕事です」
「別の仕事?」 ルカが聞く。
「記録し、囲い、運び、餌を計算し、怪我人を減らし、次に備えることです」
「どうして記録が要るんですの?」 ミレイユが聞く。
「次に同じことが起きた時、前より少しでもましにするためです」
フツウは落ち着いた声で言った。
「誰がどこで怪我をしたか、何に驚いたか、どこから逃がしたか、何が足りなかったか。そういうことを残しておかないと、後の対応が毎回手探りになります」
それは英雄譚の言葉ではなかった。
だが、だからこそ重かった。
ネリスが白い外套の袖を押さえながら、静かに補足する。
「奇跡は一度で終わります。けれど管理は、終わりません」
子どもたちは黙って聞いていた。
教師たちも口を挟まない。
園職員の説明とは違う、生々しい実務の話だった。
昨日見た議事堂、屋台村、競技場。
決める場所。
暮らす場所。
作る場所。
そして今、守るために管理する場所。
「じゃあ、フツウさんはずっとそういうことをしてるんですか」 セレナが尋ねる。
「ずっと、というほどでもありませんが、そういう後の仕事に関わることはあります」
そこへ、背後から太い声が飛んだ。
「おい、フツウ」
生徒たちが一斉に振り向く。
搬入路の脇に、大盾を背負った大柄な男が立っていた。
陽に焼けた顔、分厚い肩、いかにも前線の人間という立ち姿。
片手には兜を抱え、もう片方の手で面倒くさそうにこちらを指している。
「いいかげん戻ってこい」
声が大きい。
怒鳴っているわけではないのに、よく通る。
フツウは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく頭を下げた。
「すみません。少し話しすぎました」
「少しじゃねえ」 大男――ヨシダは即座に返す。
「パクエンが待ってる。荷の確認もまだだ」 「今行きます」 「今すぐだ」
そのやり取りだけで、生徒たちの中の像が少し組み替わる。
園の人ではない。
教師でもない。
ここで説明していたのは、たまたま立ち会っていた冒険者で、しかも今も別の仕事の途中なのだ。
男教師は、そのやり取りを見ながら小さく呟いた。
「……これが、勇者の後です」
ルカが思わず聞く。
「え、フツウさん、ここの人じゃないの?」
ヨシダが怪訝そうに眉を上げた。
「は?」 「いや、その、ずっと説明してたから……」 「こいつは説明してただけだ」 「一応、先生に頼まれて来ています」 フツウが静かに言う。 「頼まれても戻ってこい」 ヨシダは容赦がない。
ミレイユが小さく呟く。
「では、どちらの方なんですの」
フツウは少しだけ困ったように笑った。
「冒険者です。パーティ『威嚇の唸り』で記録を担当しています」
「記録係?」 エドガーが反応する。
「戦わないんですか」 「最低限はできますが、前線は担当外です」 「出すわけあるか」 ヨシダが言った。 「こいつが前に出たら、後で困るのはこっちだ」
それは雑な言い方だったが、妙に庇う響きがあった。
フツウは記録帳を抱え直し、生徒たちを見回す。
「まあ、そういうわけで。見たことは忘れないように」
それから教師へ軽く頭を下げた。
「先生方も、ありがとうございました」
ヨシダが踵を返す。
「ほら、来い」 「はい」
フツウはその後を追う。
大盾の男の背中は大きく、歩幅も広い。
少し離れた先では、杖を持った痩せた男――おそらくパクエンが、いかにも待たされた顔でこちらを見ていた。
「遅い」 「すみません」 「記録係が予定を乱すな」 「その通りです」
三人はそのまま、園の見学導線ではなく、搬入路の脇を抜けて別の方角へ歩いていく。
その背中を見送りながら、ルカがぽつりと言った。
「……ほんとに、別の人たちだったんだ」
「最初からそう言っていたわけではありませんけれど」 セレナが言う。
だがその声も、少しだけ不思議そうだった。
男教師は小さく冊子の背を撫でる。
『勇者の記録と物語』
そこに載っていた名前が、また物語の外へ戻っていく。
そのこと自体が、生徒たちには少しだけ新鮮だった。
子どもたちはもう、昨日のようには騒がなかった。
ただ見ていた。
巨大な獣を。
それを囲う柵を。
柵のこちら側で働く人々を。
そして、英雄譚の続きを。
見学の終わり際、最初に「くさい」と呟いたルカが、今度は少し違う声で言った。
「……でも、必要な匂いなんですね」
教師はその言葉に、すぐには答えなかった。
やがて、ほんの少しだけ頷く。
「そうです。覚えて帰りなさい」
谷を渡る風が、もう一度吹いた。
獣臭と泥と草の匂いを運びながら。
それは不快で、重くて、忘れがたい。
けれどきっと――
彼らが最初に学ぶべき、現実の匂いでもあった。
その夜、一行はもう一泊だけバビロンへ滞在した。
最終日は自由行動。
班ごとに街を歩き、土産を選び、屋台を巡り、共和国の空気に触れる時間となる。
議事堂をもう一度見に行く者。
競技場の建設現場を眺める者。
香辛料を買い込みすぎて教師に止められる者。
昨夜の騒ぎを思い出して、宿の女将へ妙に丁寧に頭を下げる者もいた。
そして帰郷。
英雄譚だけでは終わらない国があり、
議場の言葉が石になり、
巨大な獣の匂いの向こうで、誰かが管理を続けている。
その三日間で子どもたちが知ったのは、世界が教室よりずっと広く、重く、そして現実的だということだった。




