雨の後の手当て
見難い火傷の子307
雨の後の手当て
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
豪雨が去った翌朝、カルカダン牧場は別の場所のように見えた。
昨日まで遊び場だった窪地は、あちこちに水の筋を残している。
泥場と水場の境は崩れ、低いところにはまだ濁り水が溜まっていた。
西の土手は、越流路を切った部分が大きく抉れている。
仮設の土嚢は半分ほど流され、残ったものも形を失っていた。
空は晴れていた。
それがかえって、昨日の騒ぎを嘘のように見せる。
だが、嘘ではない。
見張り道を歩く人間の足取りは重く、声も低い。
誰もが、あと少しで何が起きていたかを知っているからだ。
アオたちが牧場に着いた時、もう作業は始まっていた。
鍬の音。
土を運ぶ音。
濡れた木材を引きずる音。
それに混じって、低く鼻を鳴らすカルカダンの声が聞こえる。
二頭とも生きていた。
高台の上に設けた仮囲いの中で、泥だらけのままじっとしている。
一頭は昨日転びかけた方で、前脚を少しかばっていた。
もう一頭は落ち着かない様子で、時折地面を掻く。
ネリスはそのすぐ外で、腰を落として様子を見ていた。
近づきすぎない。
だが遠すぎもしない。
視線と呼吸と耳の動きを、じっと拾っている。
「どう?」 とアオが声をかけると、ネリスは目を離さないまま答えた。
「命に別状はない。捻った方も骨までは行ってないだろう。熱が上がるか、腫れが強くなるかを見てる」
「よかった……」
「よくはない」 ネリスは淡々と言った。 「助かっただけだ。助かったことと、問題がなかったことは別だ」
その言い方に、アオは少しだけ背筋を伸ばした。
昨日から何度も思う。
この人は厳しい。
でも、その厳しさは現場に必要なものだ。
少し離れたところで、バルドが西の土手を見上げていた。
泥の乾ききらない斜面に立ち、腕を組んでいる。
その横ではフツウが、珍しく紙を何枚も広げていた。
簡単な見取り図に、何本も線が引き足されている。
「高台をもう一段上げる」 とバルドが言う。 「今の高さじゃ足りん。昨日の水位で分かった」
「上げるだけでは駄目です」 とフツウ。 「逃げ場が一つだと、そこへ殺到します。高台は二つ。できれば三つ。互いに見通せる位置で、導線は分けるべきです」
「三つは広さを食う」
「潰れるより安いです」
バルドは鼻を鳴らした。
反論ではなく、認める時の音だった。
セトがその図面を覗き込む。
「排水路は?」
「主排水路を太くするだけでは足りません」 とフツウ。 「北の流れ込みに沈砂溜めを作る。枝と土を先に止める。底の勾配も見直す。今は泥場へ寄せすぎです」
「泥場を低いところに置いたのが裏目に出たな」 とガイ。
「普段はそれでよかった」 バルドが言う。 「水を集めるには都合がいい。だが、集まりすぎた」
ヨシダが後ろから笑う。
「つまり、うまく行きすぎたってことか」
「笑い事じゃありません」 とフツウ。
「分かってるよ。だから笑ってるんだ」
そのやり取りに、少しだけ空気が緩む。
昨日の張り詰めた感じが、まだ完全には抜けていない。
だからこそ、こういう無駄口がありがたかった。
アオは高台の仮囲いを見た。
仔カルカダンは、昨日よりは落ち着いている。
だが、完全に元通りではない。
転びかけた方は、立つ位置を何度か変えてからようやく腰を落ち着けた。
もう一頭は、少しの物音にも耳を動かす。
「覚えてるんだね」 とアオが呟く。
ネリスが頷いた。
「覚える。痛いことも、怖いことも、足場の悪さも」 それから少しだけ声を落とす。 「だから、ここからが大事だ。昨日の場所を“危ない場所”として覚えさせるのか、“危なかったけど戻ってこられた場所”として覚えさせるのかで、後が変わる」
アオはその言葉を頭の中で繰り返した。
同じ出来事でも、残り方は一つではない。
それは人間も同じかもしれないと思う。
「どうするの?」 と聞くと、
「急がない」 とネリス。 「今日は高台から下ろさない。餌も水もここへ持ってくる。落ち着いて食べるか、歩き方が変わるか、互いの距離をどう取るかを見る。戻すのはその後だ」
「遊び場に戻すのか」
「戻す。ただし、その前に人間側が直す」
その時、バルドがこちらへ来た。
泥の乾いた跡が服に白く残っている。
一晩寝たはずなのに、顔は昨日より疲れて見えた。
「ネリス、脚はどうだ」
「今のところ軽い。だが無理はさせない」
「鎮静は?」
「不要。今はまだな」
バルドは頷いた。
それから高台の下を見回し、低く言う。
「……俺は、少し甘く見てた」
ネリスはすぐには返さなかった。
代わりに、仔カルカダンの耳の向きを見てから言う。
「何を」
「排水だ。豪雨だ。いや、違うな」 バルドは自分で言い直した。 「“遊び場にしておけば、多少の無理は吸収できる”と思ってた」
ネリスはそこで初めて彼を見た。
「発想は悪くない」
「慰めか?」
「違う。閉じ込めるより居着かせる方がましだ。今もそう思ってる」 彼女は淡々と続ける。 「ただ、居着く場所は安全でなければならない。快適なだけでは足りない」
バルドは短く息を吐いた。
「耳が痛いな」
「痛いうちに直せ」
その会話を聞きながら、アオは少しだけ安心した。
ネリスは否定していない。
全部が間違いだったわけではない。
足りなかったところを、今から埋めるのだ。
昼前になると、牧場の改修方針がだいぶ固まってきた。
まず、高台を二つ増やす。
今ある高台もさらに嵩上げし、雨の時に最低でも二方向へ逃げられるようにする。
次に、泥場と水場を分離する。
今までは近くに置いていたが、それだと豪雨時に一帯がまとめて危険になる。
泥場は浅く広く、水場は縁を固めて深さを管理する。
さらに、北の流れ込みには沈砂溜めを設け、枝や土が主排水路へ直接入らないようにする。
西の越流路は仮設ではなく、本設の石張りに近い形へ改める。
「金が飛ぶな」 とガイが言うと、
「飛ぶ前に命が飛ぶよりいい」 とフツウが返した。
「最近お前、言い方がいちいち重いな」
「最近ではなく、元からです」
ヨシダが大声で笑う。
白砂隊の面々もつられて笑った。
昨日の死にかけた空気を知っているからこそ、その笑いは少し荒い。
午後、ネリスはようやく仮囲いの中へ入った。
一人ではない。
バルドと、補助の若い飼育係が二人。
全員がゆっくり動く。
仔カルカダンの視界を塞がず、逃げ道を消さず、しかし不用意に背を向けもしない。
アオは見張り道の上から、その様子を見守った。
ネリスは転びかけた方の前脚を直接掴まない。
まず肩の動き、体重のかけ方、首の向き、耳の反応を見る。
それから少しずつ距離を詰め、触れる前に声をかける。
低く、短く、一定の調子で。
「……ああやって診るんだ」 とアオが呟くと、セトが隣で頷いた。
「いきなり触らない。相手に“次に何が来るか”を分からせるんだろう」
「人間相手でも同じかもね」
「かもしれない」
ネリスはしばらく観察した後、ようやく前脚の下部に手を当てた。
仔カルカダンは耳を動かしたが、暴れない。
少し嫌がる。
だが、逃げるほどではない。
ネリスは触る位置を変え、圧を変え、反応を見る。
最後に短く頷いた。
「腫れは軽い。固定まではいらない。冷やしたいが、こいつ相手に都合よくは行かないな」
「泥場はまだ使わせない方がいいか」 とバルド。
「今日はな。明日以降、歩様を見て決める」
そのやり取りに、アオは少しだけ感心した。
大きな獣を診るというのは、薬を使うことだけではない。
見て、待って、触れて、また待つ。
その積み重ねなのだ。
夕方、作業が一段落した頃、バルドは皆を集めた。
土塁の上、まだ湿った風の吹く見張り道だ。
「昨日で分かったことがある」 と彼は言った。 「この牧場は、まだ牧場じゃない。作りかけの考えだ」
誰も口を挟まない。
バルドは続ける。
「囲いを強くするだけじゃ足りん。遊び場にするだけでも足りん。水を逃がし、逃げ場を作り、慣らしを積み、医者の手が届く地面を保つ。そこまで揃って、ようやく飼えるかもしれん」
ヨシダが腕を組む。
「ずいぶん弱気になったな」
「逆だ」 とバルド。 「昨日までは、できると思ってた。今は、どうすればできるかが少し見えた」
その言葉に、ネリスがほんの少しだけ口元を緩めた。
笑ったというほどではない。
だが、完全な否定ではない顔だった。
アオはその場の空気を吸い込んだ。
土の匂い。
乾きかけた泥の匂い。
獣の匂い。
昨日の雨の名残。
危機は終わっていない。
むしろ、ここからが本番だ。
それでも、昨日より今日の方が前に進んでいる気がした。
失敗したから終わりではない。
失敗したから、次に必要なものが見える。
それはたぶん、火傷の痕と少し似ている。
消えない。
だが、残ったからこそ分かることがある。
高台の仮囲いの中で、仔カルカダンの一頭がゆっくりと立ち上がった。
前脚を試すように一歩、二歩と踏み出す。
まだ少しぎこちない。
けれど、立てる。
歩ける。
アオはそれを見て、静かに息を吐いた。
この牧場も、たぶん同じだ。
まだぎこちない。
まだ危うい。
でも、立ち上がって歩き直すことはできる。
その先に初出荷があるのなら、まずはここからだと思えた。




