カルカダン牧場の危機
見難い火傷の子306
カルカダン牧場の危機
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
カルカダン牧場は、最初のひと月だけ見れば順調だった。
窪地を利用した囲い地は、外から見れば半ば砦のようで、内に入れば妙にのびのびとしていた。
土塁の内側には緩い起伏があり、泥浴び場が二つ、浅い水場が一つ、体を擦りつけるための岩場が三か所。
餌場は一つに固定せず、日ごとに散らしてある。
風の抜ける高まりには日除けの骨組みまで組まれていた。
「囲うんじゃない。居着かせるんだ」
そう言ったバルドの考えは、少なくとも仔のカルカダン相手には当たっていた。
連れて来られた二頭は、最初こそ荒れたものの、数日もすれば泥場と水場の位置を覚え、決まった導線を歩くようになった。
低床の巨大台車も、餌を置いて慣らせば警戒は薄れた。
台車の上で食べ、水を飲み、時にはそのまま寝そべることすらある。
「思ったより賢いな」 とヨシダが言えば、
「思ったより単純なだけかもしれん」 とバルドは返した。
ネリスはそのやり取りを聞きながら、仔の呼吸や目の動きを見ていた。
「賢いかどうかはどうでもいい。落ち着いて見える時ほど、何に慣れて何に慣れていないかを見誤るな」
相変わらず厳しい。
だが、その厳しさがあるからこそ、現場は浮かれすぎずに済んでいた。
アオたち灯継ぎも、何度か牧場を訪れていた。
討伐や納品の縁で顔を出したのが始まりだったが、今では半ば見物、半ば手伝いのようなものだ。
リナは泥場の位置を見て「本当に遊び場みたい」と呟き、ガイは土塁の厚みを見て「遊び場にしては金がかかりすぎる」と顔をしかめ、セトは排水路の勾配をじっと見ていた。
「気になるの?」 とアオが聞くと、セトは短く答えた。
「水の逃げ道が少ない」
その言葉を聞いた時、アオは少しだけ胸に引っかかるものを覚えた。
だが、その日は空も高く、風も乾いていた。
雨の気配など、どこにもなかった。
だから誰も、その三日後に空が割れたような豪雨になるとは思わなかった。
昼過ぎからだった。
最初は遠くで雷が鳴っただけだった。
それが一度、二度と重なるうちに、空の色が変わる。
乾いた風が止み、代わりに湿った重い空気が流れ込んできた。
「降るな」 とバルドが言った時には、もう遅かった。
大粒の雨が落ちる。
一つ、二つではない。
叩きつけるような雨脚が、あっという間に土を黒く染めた。
「排水路を見ろ!」 バルドの声が飛ぶ。 「北側の流れ込みも確認しろ! 枝でも石でも詰まってたら終わるぞ!」
牧場の人間が散る。
ヨシダたちも反射的に動いた。
アオはリナと一緒に見張り道へ上がり、下を見た瞬間、息を呑んだ。
窪地の底に、もう水が走っている。
普段なら泥場の周りに吸われるはずの雨が、今日は違った。
地面が吸うより早く降っている。
浅い水場はすぐに縁を失い、泥場との境目も消えた。
低いところへ低いところへと、水が集まっていく。
仔のカルカダン二頭が落ち着かない。
鼻を鳴らし、耳を振り、足を踏み鳴らしている。
一頭が高まりへ向かって歩き、もう一頭もそれに続いた。
だが途中で足を取られ、泥を跳ね上げる。
「まだ浅い!」 とガイが叫ぶ。 「今のうちに上へ寄せろ!」
「追うな! 慌てさせるな!」 ネリスの声が鋭く飛んだ。 「走らせたら転ぶ!」
彼女はもう雨の中へ降りていた。
外套を脱ぎ捨て、短い指示を次々に飛ばす。
「餌桶を持て! いつもの導線を使え! 高台へ誘え! 棒で追うな、音を立てるな!」
バルドもすぐに動く。
「南の高まりを開けろ! 仕切りを外せ! 水場側は閉じるな、逃げ道を一本にするな!」
フツウは見張り道の上で、濡れた帳面を庇いながら叫んだ。
「北排水路、流量不足! 西側も溢れます!」
「見れば分かる!」 とヨシダが怒鳴り返す。 「で、どうする!」
「越流路を切るしかありません!」
その言葉に、バルドの顔が歪んだ。
越流路はある。
だが、まだ仮だ。
本格運用前の暫定措置で、土も締まり切っていない。
切れば水は逃げる。
だが同時に、土塁の一部を自分で弱めることになる。
迷っている時間はなかった。
窪地の底で、一頭が滑った。
前脚が泥に取られ、巨体がぐらりと傾く。
もう一頭が驚いて横へ跳ね、ぶつかりそうになる。
アオの喉がひゅっと鳴った。
「ネリス!」
「見えてる!」
ネリスは泥を蹴って駆け寄る。
だが真正面には入らない。
転びかけた個体の視界の外から回り込み、低く短い声をかける。
何を言っているのかは雨音で聞こえない。
それでも仔は一瞬だけ動きを止めた。
その隙に、バルドが餌桶を投げるように置く。
匂いに引かれたもう一頭がそちらへ向き、つられて転びかけた方も首を上げた。
「今だ、寄せろ! 高台へ!」
人が動く。
だが追わない。
囲まない。
いつもの導線をなぞるように、左右へ散って圧をかける。
遊び場として覚えさせた道を、今は避難路として使う。
それでも水は増える。
排水路の一つが、上流から流れてきた枝と土で半ば塞がっていた。
見張りの一人が棒で掻き出そうとして、足を滑らせる。
ヨシダが片手で襟首を掴んで引き戻した。
「死にたいのか!」
「す、すみません!」
「謝る暇があったら掘れ!」
パクエンと白砂隊の二人が鍬を持って駆ける。
だが掘っても掘っても、水は濁って流れ込んでくる。
追いつかない。
「バルド!」 フツウが叫ぶ。 「越流路を切らないと底が保ちません!」
バルドは一瞬だけ目を閉じた。
次に開いた時には、もう決めていた。
「切る! 西の土手を落とせ! 人を集めろ!」
「正気か!」 とガイ。
「正気だからだ! 底で溺れさせる気か!」
ヨシダが笑うように息を吐いた。
「そう来なくちゃな」
大盾使いは鍬ではなく、土嚢を抱えて走った。
切るだけでは崩れすぎる。
流れを作り、壊す場所を限定しなければならない。
パクエンが指示を飛ばし、白砂隊が土を削る。
フツウは流れの角度を見て、どこを落とせば本体の土塁に響かないかを叫び続けた。
アオも土嚢を運んだ。
雨で前が見えない。
足元は滑る。
火傷の痕が残る手に泥が入り、ざらつく。
それでも止まれない。
下では、ようやく二頭の仔カルカダンが高まりへ上がっていた。
だが安心はできない。
一頭は興奮して鼻を鳴らし続け、もう一頭は前脚を気にしている。
転びかけた時に捻ったのかもしれない。
ネリスが高台へ上がり、距離を取りながら様子を見る。
無理に触らない。
今はまず、立っていられることが大事だ。
「鎮静は?」 とセトが叫ぶ。
「まだ使わない!」 ネリスは即答した。 「この足場で眠らせたら本当に倒れる!」
その判断に、アオはぞくりとした。
眠らせれば静かになる。
そう思ってしまいそうになる。
だが違う。
静かに倒れて、そのまま起きられなくなることだってあるのだ。
西の土手で、ついに人の声が変わった。
「抜けるぞ!」
次の瞬間、濁った水が一気に走った。
仮の越流路が切り開かれ、窪地に溜まりかけていた水が横へ逃げる。
最初は細い筋だった。
それがすぐに太くなり、土を削り、唸るような流れになる。
危うい。
だが、底に溜まるよりはましだった。
「下がれ! 削られるぞ!」
ヨシダの怒鳴り声で皆が飛び退く。
流れはしばらく暴れたが、土嚢と石で誘導された先へどうにか収まり始めた。
雨はなおも強い。
だが、窪地の底に溜まる水位は、ようやく上昇を止めた。
誰もすぐには声を出さなかった。
ただ雨音と、水の流れる音と、荒い息だけがある。
やがてネリスが、高台の上から短く言った。
「二頭とも生きてる」
その一言で、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
バルドは泥だらけの顔を拭いもせず、窪地を見下ろした。
遊び場のはずだった。
居着かせる場所のはずだった。
だが一歩間違えば、あれはそのまま溺死場になっていた。
フツウが静かに言う。
「排水路が足りません。高台も低い。泥場と水場の位置も近すぎます」
「分かってる」 とバルド。
「分かっていなかったから、こうなったんです」
いつも通りの冷たい言い方だった。
だが責めるためだけの声ではない。
次に進めるための確認だった。
ネリスが高台から降りてくる。
濡れた髪が頬に張りついていた。
「前脚を軽く捻ってる。今夜は様子見だ。熱を持つようなら固定する」 それから、バルドを真っ直ぐ見た。 「眠らせることと、安全に眠らせることは別だと言ったが、今日のはその前段階だ。立っていられる地面がなければ、医者にできることは減る」
バルドは何も言わなかった。
言い返せないのではない。
言い返す意味がないのだ。
ヨシダが肩で息をしながら笑う。
「牧場ってのは、もっとのどかなもんだと思ってたぜ」
「これは牧場じゃない」 とガイが吐き捨てる。 「半分、治水工事だ」
「半分どころか全部だろ」 とパクエン。
その言葉に、なぜか少しだけ笑いが起きた。
疲れ切った後の、乾いた笑いだった。
アオは見張り道の上から、雨に煙る窪地を見た。
泥場も水場も、今はただの濁った地面にしか見えない。
けれど、そこに作ろうとしていたものが間違いだったとは思わなかった。
足りなかったのだ。
考えが。
備えが。
自然を見積もる目が。
傷は残る。
失敗も残る。
だが、残ったものを見て次を変えるしかない。
バルドが低く言った。
「排水路を増やす。高台をもう一段上げる。越流路は仮じゃなく本設にする。雨季の頭数も絞る」
フツウが即座に続ける。
「北側流れ込みには沈砂溜めが必要です。枝と土を先に止める。見張り道から直接触れる点検口も」
「泥場は分けろ」 とネリス。 「避難高台の近くに作るな。興奮した個体が足を取られる」
「台車導線も上へ逃がせるようにしよう」 とセトが言う。 「普段の搬出路を、そのまま退避路に使えるように」
バルドが頷く。
「そうする」
ロジェの軽口から始まった計画は、今や完全に冗談ではなくなっていた。
金になるか。
うまくいくか。
そんな話の前に、まず生かしておけるかが問われている。
雨は夕方になってようやく弱まり始めた。
空の端に、わずかに薄明るい色が戻る。
高台の上で、仔カルカダンの一頭が鼻を鳴らした。
もう一頭は泥だらけのまま、しかししっかりと立っている。
アオはその姿を見て、静かに息を吐いた。
危機は去っていない。
むしろ、今ようやく本当の難しさが姿を見せただけだ。
けれど、それでも。
今夜を越えたなら、この牧場は少しだけ本物に近づく。
そう思えた。




