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見難い火傷の子  作者: 清風
306/326

カルカダン牧場の危機

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子306



カルカダン牧場の危機



深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。



カルカダン牧場は、最初のひと月だけ見れば順調だった。


窪地を利用した囲い地は、外から見れば半ば砦のようで、内に入れば妙にのびのびとしていた。

土塁の内側には緩い起伏があり、泥浴び場が二つ、浅い水場が一つ、体を擦りつけるための岩場が三か所。

餌場は一つに固定せず、日ごとに散らしてある。

風の抜ける高まりには日除けの骨組みまで組まれていた。


「囲うんじゃない。居着かせるんだ」


そう言ったバルドの考えは、少なくとも仔のカルカダン相手には当たっていた。

連れて来られた二頭は、最初こそ荒れたものの、数日もすれば泥場と水場の位置を覚え、決まった導線を歩くようになった。

低床の巨大台車も、餌を置いて慣らせば警戒は薄れた。

台車の上で食べ、水を飲み、時にはそのまま寝そべることすらある。


「思ったより賢いな」 とヨシダが言えば、


「思ったより単純なだけかもしれん」 とバルドは返した。


ネリスはそのやり取りを聞きながら、仔の呼吸や目の動きを見ていた。


「賢いかどうかはどうでもいい。落ち着いて見える時ほど、何に慣れて何に慣れていないかを見誤るな」


相変わらず厳しい。

だが、その厳しさがあるからこそ、現場は浮かれすぎずに済んでいた。


アオたち灯継ぎも、何度か牧場を訪れていた。

討伐や納品の縁で顔を出したのが始まりだったが、今では半ば見物、半ば手伝いのようなものだ。

リナは泥場の位置を見て「本当に遊び場みたい」と呟き、ガイは土塁の厚みを見て「遊び場にしては金がかかりすぎる」と顔をしかめ、セトは排水路の勾配をじっと見ていた。


「気になるの?」 とアオが聞くと、セトは短く答えた。


「水の逃げ道が少ない」


その言葉を聞いた時、アオは少しだけ胸に引っかかるものを覚えた。

だが、その日は空も高く、風も乾いていた。

雨の気配など、どこにもなかった。


だから誰も、その三日後に空が割れたような豪雨になるとは思わなかった。


昼過ぎからだった。


最初は遠くで雷が鳴っただけだった。

それが一度、二度と重なるうちに、空の色が変わる。

乾いた風が止み、代わりに湿った重い空気が流れ込んできた。


「降るな」 とバルドが言った時には、もう遅かった。


大粒の雨が落ちる。

一つ、二つではない。

叩きつけるような雨脚が、あっという間に土を黒く染めた。


「排水路を見ろ!」 バルドの声が飛ぶ。 「北側の流れ込みも確認しろ! 枝でも石でも詰まってたら終わるぞ!」


牧場の人間が散る。

ヨシダたちも反射的に動いた。

アオはリナと一緒に見張り道へ上がり、下を見た瞬間、息を呑んだ。


窪地の底に、もう水が走っている。


普段なら泥場の周りに吸われるはずの雨が、今日は違った。

地面が吸うより早く降っている。

浅い水場はすぐに縁を失い、泥場との境目も消えた。

低いところへ低いところへと、水が集まっていく。


仔のカルカダン二頭が落ち着かない。

鼻を鳴らし、耳を振り、足を踏み鳴らしている。

一頭が高まりへ向かって歩き、もう一頭もそれに続いた。

だが途中で足を取られ、泥を跳ね上げる。


「まだ浅い!」 とガイが叫ぶ。 「今のうちに上へ寄せろ!」


「追うな! 慌てさせるな!」 ネリスの声が鋭く飛んだ。 「走らせたら転ぶ!」


彼女はもう雨の中へ降りていた。

外套を脱ぎ捨て、短い指示を次々に飛ばす。


「餌桶を持て! いつもの導線を使え! 高台へ誘え! 棒で追うな、音を立てるな!」


バルドもすぐに動く。


「南の高まりを開けろ! 仕切りを外せ! 水場側は閉じるな、逃げ道を一本にするな!」


フツウは見張り道の上で、濡れた帳面を庇いながら叫んだ。


「北排水路、流量不足! 西側も溢れます!」


「見れば分かる!」 とヨシダが怒鳴り返す。 「で、どうする!」


「越流路を切るしかありません!」


その言葉に、バルドの顔が歪んだ。

越流路はある。

だが、まだ仮だ。

本格運用前の暫定措置で、土も締まり切っていない。

切れば水は逃げる。

だが同時に、土塁の一部を自分で弱めることになる。


迷っている時間はなかった。


窪地の底で、一頭が滑った。


前脚が泥に取られ、巨体がぐらりと傾く。

もう一頭が驚いて横へ跳ね、ぶつかりそうになる。

アオの喉がひゅっと鳴った。


「ネリス!」


「見えてる!」


ネリスは泥を蹴って駆け寄る。

だが真正面には入らない。

転びかけた個体の視界の外から回り込み、低く短い声をかける。

何を言っているのかは雨音で聞こえない。

それでも仔は一瞬だけ動きを止めた。


その隙に、バルドが餌桶を投げるように置く。

匂いに引かれたもう一頭がそちらへ向き、つられて転びかけた方も首を上げた。


「今だ、寄せろ! 高台へ!」


人が動く。

だが追わない。

囲まない。

いつもの導線をなぞるように、左右へ散って圧をかける。

遊び場として覚えさせた道を、今は避難路として使う。


それでも水は増える。


排水路の一つが、上流から流れてきた枝と土で半ば塞がっていた。

見張りの一人が棒で掻き出そうとして、足を滑らせる。

ヨシダが片手で襟首を掴んで引き戻した。


「死にたいのか!」


「す、すみません!」


「謝る暇があったら掘れ!」


パクエンと白砂隊の二人が鍬を持って駆ける。

だが掘っても掘っても、水は濁って流れ込んでくる。

追いつかない。


「バルド!」 フツウが叫ぶ。 「越流路を切らないと底が保ちません!」


バルドは一瞬だけ目を閉じた。

次に開いた時には、もう決めていた。


「切る! 西の土手を落とせ! 人を集めろ!」


「正気か!」 とガイ。


「正気だからだ! 底で溺れさせる気か!」


ヨシダが笑うように息を吐いた。


「そう来なくちゃな」


大盾使いは鍬ではなく、土嚢を抱えて走った。

切るだけでは崩れすぎる。

流れを作り、壊す場所を限定しなければならない。

パクエンが指示を飛ばし、白砂隊が土を削る。

フツウは流れの角度を見て、どこを落とせば本体の土塁に響かないかを叫び続けた。


アオも土嚢を運んだ。

雨で前が見えない。

足元は滑る。

火傷の痕が残る手に泥が入り、ざらつく。

それでも止まれない。


下では、ようやく二頭の仔カルカダンが高まりへ上がっていた。

だが安心はできない。

一頭は興奮して鼻を鳴らし続け、もう一頭は前脚を気にしている。

転びかけた時に捻ったのかもしれない。


ネリスが高台へ上がり、距離を取りながら様子を見る。

無理に触らない。

今はまず、立っていられることが大事だ。


「鎮静は?」 とセトが叫ぶ。


「まだ使わない!」 ネリスは即答した。 「この足場で眠らせたら本当に倒れる!」


その判断に、アオはぞくりとした。

眠らせれば静かになる。

そう思ってしまいそうになる。

だが違う。

静かに倒れて、そのまま起きられなくなることだってあるのだ。


西の土手で、ついに人の声が変わった。


「抜けるぞ!」


次の瞬間、濁った水が一気に走った。


仮の越流路が切り開かれ、窪地に溜まりかけていた水が横へ逃げる。

最初は細い筋だった。

それがすぐに太くなり、土を削り、唸るような流れになる。

危うい。

だが、底に溜まるよりはましだった。


「下がれ! 削られるぞ!」


ヨシダの怒鳴り声で皆が飛び退く。

流れはしばらく暴れたが、土嚢と石で誘導された先へどうにか収まり始めた。


雨はなおも強い。

だが、窪地の底に溜まる水位は、ようやく上昇を止めた。


誰もすぐには声を出さなかった。

ただ雨音と、水の流れる音と、荒い息だけがある。


やがてネリスが、高台の上から短く言った。


「二頭とも生きてる」


その一言で、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。


バルドは泥だらけの顔を拭いもせず、窪地を見下ろした。

遊び場のはずだった。

居着かせる場所のはずだった。

だが一歩間違えば、あれはそのまま溺死場になっていた。


フツウが静かに言う。


「排水路が足りません。高台も低い。泥場と水場の位置も近すぎます」


「分かってる」 とバルド。


「分かっていなかったから、こうなったんです」


いつも通りの冷たい言い方だった。

だが責めるためだけの声ではない。

次に進めるための確認だった。


ネリスが高台から降りてくる。

濡れた髪が頬に張りついていた。


「前脚を軽く捻ってる。今夜は様子見だ。熱を持つようなら固定する」 それから、バルドを真っ直ぐ見た。 「眠らせることと、安全に眠らせることは別だと言ったが、今日のはその前段階だ。立っていられる地面がなければ、医者にできることは減る」


バルドは何も言わなかった。

言い返せないのではない。

言い返す意味がないのだ。


ヨシダが肩で息をしながら笑う。


「牧場ってのは、もっとのどかなもんだと思ってたぜ」


「これは牧場じゃない」 とガイが吐き捨てる。 「半分、治水工事だ」


「半分どころか全部だろ」 とパクエン。


その言葉に、なぜか少しだけ笑いが起きた。

疲れ切った後の、乾いた笑いだった。


アオは見張り道の上から、雨に煙る窪地を見た。

泥場も水場も、今はただの濁った地面にしか見えない。

けれど、そこに作ろうとしていたものが間違いだったとは思わなかった。


足りなかったのだ。

考えが。

備えが。

自然を見積もる目が。


傷は残る。

失敗も残る。

だが、残ったものを見て次を変えるしかない。


バルドが低く言った。


「排水路を増やす。高台をもう一段上げる。越流路は仮じゃなく本設にする。雨季の頭数も絞る」


フツウが即座に続ける。


「北側流れ込みには沈砂溜めが必要です。枝と土を先に止める。見張り道から直接触れる点検口も」


「泥場は分けろ」 とネリス。 「避難高台の近くに作るな。興奮した個体が足を取られる」


「台車導線も上へ逃がせるようにしよう」 とセトが言う。 「普段の搬出路を、そのまま退避路に使えるように」


バルドが頷く。


「そうする」


ロジェの軽口から始まった計画は、今や完全に冗談ではなくなっていた。

金になるか。

うまくいくか。

そんな話の前に、まず生かしておけるかが問われている。


雨は夕方になってようやく弱まり始めた。

空の端に、わずかに薄明るい色が戻る。


高台の上で、仔カルカダンの一頭が鼻を鳴らした。

もう一頭は泥だらけのまま、しかししっかりと立っている。


アオはその姿を見て、静かに息を吐いた。


危機は去っていない。

むしろ、今ようやく本当の難しさが姿を見せただけだ。

けれど、それでも。


今夜を越えたなら、この牧場は少しだけ本物に近づく。


そう思えた。

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