カルカダン牧場計画
見難い火傷の子305
カルカダン牧場計画
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
月舟楼の夜席は、珍しくざわめいていた。
その日の目玉は、砂漠の王カルカダン。
喉肉の炙りは香ばしく、肩肉の煮込みは濃く、肝の香草焼きには独特の深みがある。
高い。
だが、皿が空くのは早かった。
珍味としての物珍しさだけではない。
きちんとうまいのだ。
給仕が空いた皿を下げていく。
杯が満ちる。
客たちの頬はほどよく緩み、卓ごとの声も少しずつ大きくなっていた。
その中の一卓で、男が皿を見ながら何気なく言った。
「うまいな。……で、こういうのは飼えんのか?」
名はロジェ。
王都で布と香料を扱う商人で、月舟楼にも時折顔を出す、ごく普通の客だった。
同席していた男が吹き出す。
「何を言い出す。相手はカルカダンだぞ」
「だからだ」 とロジェは肩をすくめた。 「うまくて、高くて、数が出ない。なら誰だって考えるだろう。狩るしかないから高いんだ。飼えれば話は早い」
「鹿や鶏じゃあるまいし」
「最初から無理と決めるのも早いさ」
酔いに任せた軽口。
そのはずだった。
だが、少し離れた席でその言葉を聞いた男が、杯を置いた。
日に焼けた顔。
太い指。
爪の間に土の色が残っている。
商人というより、現場の人間だ。
「……飼う、か」
その呟きに、ロジェがそちらを見る。
「何だ、旦那。できると思うか?」
男はすぐには答えなかった。
代わりに、運ばれていく次の皿を見た。
カルカダン肩肉の煮込み。
骨の周りまで丁寧に火が入っている。
「柵じゃ無理だな」
「ほう?」
「木も鉄も、ああいう角持ちには向かん。押すだけじゃない。引っ掛ける。こじる。持ち上げる。真正面から止める作りは、いずれ壊される」
ロジェの同席者が、半ば面白がって身を乗り出した。
「じゃあ、どう囲う」
男は杯を持ち上げ、少しだけ口を湿らせてから言った。
「土だ」
卓が一瞬だけ静かになる。
「土手で囲う。高く盛る。外は緩く、内は急にする。空堀も切る。柵で止めるんじゃない。地形で勢いを殺す」
ロジェが目を細めた。
「牧場というより砦だな」
「相手が相手だ」 男は平然と返した。 「平地に囲いを立てるから無理に見える。最初から窪地に落とし込めばいい。干上がったダムの底みたいなもんだ。上から見張って、下で飼う」
その言葉に、別の席で飲んでいた男が鼻で笑った。
「おいおい、また始まったぞ」
声の主はヨシダだった。
大盾使いの巨漢は、杯を片手に振り返る。
その隣にはパクエン、少し離れてフツウ、さらに壁際には白砂隊の面々もいる。
納品を終えた後、流れで月舟楼の夜席に顔を出していたのだ。
ヨシダは男の顔を見て、呆れたように言う。
「バルド、お前まだそういう話してたのか」
バルド。
王都近郊で大型鳥類や荒い家畜を扱う牧場主だ。
珍獣まがいの飼育にも手を出しては、半分成功し、半分失敗していることで知られている。
「まだじゃない。今日、確信に変わった」 とバルド。 「食える。高く売れる。角も皮も取れる。なら考える価値はある」
パクエンが杯を揺らしながら言う。
「考えるだけなら自由だが、相手はカルカダンだぞ」
「知ってるさ。だから柵じゃなく土手だと言ってる」
ヨシダが笑う。
「そこまで行くと牧場って言葉が軽いな」
「名前はどうでもいい」 バルドは真顔だった。 「要は、囲い地を作るんだ。広い窪地を掘るか、元からある地形を使う。周囲を土塁で固める。見張り道を上に通す。出入口は二重。導線は曲げる。真正面から走れないようにする」
フツウがそこで初めて口を挟んだ。
「維持費が高すぎます。土塁の補修、排水、見張り、人員、餌、水。採算が合う保証はありません」
「最初から安く済むとは思ってない」 とバルド。 「だが、毎回命懸けで狩るより、数年後に回る仕組みを作る方がでかい」
ロジェが面白そうに笑う。
「ほら見ろ。言ってみるもんだ」
「お前は言っただけだろうが」 と同席者。
そのやり取りを聞きながら、アオは少し離れた席で静かに耳を傾けていた。
灯継ぎの四人も今日は同席している。
リナは半ば呆れ、セトは興味深そうに、ガイは「本気かよ」という顔でバルドを見ていた。
そこへ、料理長ザイードが給仕の確認のために姿を見せた。
忙しい最中らしく、袖は捲られたままだ。
だが「カルカダン牧場」という言葉だけは聞き逃さなかったらしい。
「飼うのは勝手だ」 とザイードは言った。 「だが、飼った肉が同じ味になる保証はない」
バルドがそちらを見る。
「味が落ちると?」
「走らせず、餌を変え、環境を変えれば肉は変わる」 ザイードの声は淡々としている。 「今日の皿の価値は、カルカダンという名前だけじゃない。野で育ち、野で締まり、きちんと持ち帰られたからだ」
ロジェが感心したように頷く。
「なるほど。量が増えても質が落ちれば意味がないか」
「意味がないとは言わん」 ザイードは即座に返した。 「別の価値にはなる。だが、同じ価値だと思うな」
その言葉に、バルドは少しだけ口元を上げた。
「いい。そういう話だ。できるかどうかじゃない。やった時に何が変わるかを詰める」
ヨシダが杯を置く。
「いや、その前に“できるかどうか”を詰めろ」
笑いが起きた。
だが、バルドは笑わない。
「仔からだな」
その一言で、空気が少し変わる。
パクエンが眉を上げた。
「ほう」
「成体を囲うのは無理がある。やるなら仔から慣らす。導線を覚えさせる。餌場を固定する。台車も地面の延長として覚えさせる」
「台車?」 とリナが思わず声を漏らす。
バルドは灯継ぎの方を見た。
「搬出だ。巨大台車を使う。床を低くして、砂を敷く。乗り物じゃなく地面に見せる。自分で乗らせるんだ」
ガイが顔をしかめる。
「そんな都合よく乗るか?」
「慣らせば乗る獣はいる」
「カルカダンだぞ」
「だから仔からだ」
セトが静かに問う。
「乗せた後は?」
「そこで鎮静をかける」 とバルド。 「完全に暴れさせない。鈍らせて、姿勢を整えて、固定して運ぶ」
その瞬間、近くの席から低い声が飛んだ。
「言うのは簡単だ」
皆がそちらを見る。
いつの間に来ていたのか、灰色の外套を羽織った女が立っていた。
年は三十前後。
髪は短くまとめられ、腰には細い革鞄。
薬瓶と器具の匂いがする。
バルドが顔をしかめる。
「いたのか、ネリス」
「いたとも」 女――ネリスは空いた席に腰を下ろした。 「カルカダンを台車に乗せて眠らせる、なんて話が聞こえたらな」
ロジェが小声で尋ねる。
「誰だ?」
フツウが答えた。
「魔物医です。大型危険獣の鎮静と治療を専門にしています」
ロジェの目が少し丸くなる。
アオもまた、初めて聞く職名に意識を向けた。
ネリスはバルドを見た。
「眠らせるだけならできる」
「だけなら、か」 とバルド。
「眠ったまま脚を折らせず、呼吸を止めず、途中で起こさず、起きた後に暴れさせず運ぶなら話は別だ」 ネリスは淡々と言う。 「巨体の鎮静は量の問題じゃない。興奮、呼吸、倒れる向き、覚醒の兆候、全部見る。牧場主の思いつきで済む話じゃない」
ヨシダがにやりとする。
「ほら来た」
だがバルドは引かなかった。
「無理だとは言わんのだな」
ネリスは少しだけ黙った。
それから、杯ではなく水差しを取って自分で注ぐ。
「仔から慣らし、導線を固定し、台車を日常に組み込み、鎮静を最後の工程にするなら、不可能とは言わない」
「ほら見ろ」 とバルド。
「ただし」 ネリスは即座に続けた。 「それは“眠らせれば運べる”という話じゃない。“運べるように育てた個体なら、最後に眠らせて運べるかもしれない”という話だ。順番を間違えるな」
その言葉に、セトが小さく頷いた。
アオもまた、胸の中で同じ言葉を反芻する。
最後の一手だけを見てはいけない。
そこへ至るまでの積み重ねが要る。
それは今日見た討伐と納品の話にも、どこか似ていた。
ロジェは感心したように息を吐いた。
「軽口のつもりだったんだが、思ったより大事になってきたな」
「お前が火をつけた」 と同席者。
「火をつけたのは皿だろう」
その時、給仕が新しい皿を運んできた。
カルカダンの脂を使った焼き野菜。
香りが立つ。
卓の空気が少しだけ和らいだ。
ザイードはその皿を一瞥してから、最後に言った。
「やるなら好きにしろ。だが、次に持ち込む時は“カルカダンだから高い”では通らん。“うまいから高い”で通せ」
「厳しいな」 とバルド。
「当然だ」
ザイードはそれだけ言って、また厨房へ戻っていった。
しばらく沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、意外にもアオだった。
「……でも、考える人が出るのは分かる気がします」
皆の視線が集まる。
アオは少しだけ言葉を探してから続けた。
「今日のカルカダンは、ただ危ないだけの魔物じゃなかったです。倒して、運んで、料理して、食べて、価値になってた。だったら、その価値を増やせないかって考える人が出るのは、たぶん自然なんだと思います」
ネリスがアオを見る。
その目は厳しいが、否定ではなかった。
「自然だ。だからこそ、自然に死人も出る」 と彼女は言う。 「夢を見るなら、死なせない手順まで考えろ」
バルドが腕を組む。
「分かってる」
「分かってない顔だな」 とヨシダ。
「分かってるさ。だからまず地形を見る。窪地、水場、土質、風向き、出入口。次に仔の確保。次に導線。次に医者だ」
「順番は悪くない」 とネリス。
フツウが帳面もないのに計算する顔で呟く。
「資金調達、用地確保、労働力、事故補償、護衛契約……」
パクエンが笑う。
「もう始める気か?」
「始める気の人間がいるなら、必要なものを数えただけです」
ロジェは杯を持ち上げた。
「では、未来のカルカダン牧場に」
「気が早い」 と何人かが同時に言った。
笑いが起きる。
だが、その笑いの中に、完全な冗談だけではない熱が混じっていた。
月舟楼の夜は更けていく。
厨房ではまだ火が落ちていない。
皿の上で価値になったものが、今度は人の頭の中で別の形へ変わろうとしている。
危険な夢だ。
無茶な話だ。
けれど、うまいものを食べた人間が、次を考えないはずもない。
アオはそのざわめきを聞きながら、ふと自分の手を見る。
見えにくい火傷の痕は、まだ薄く残っていた。
消えたわけではない。
けれど、前よりは目立たない。
痛みも、もう昔ほどではない。
傷は残る。
危険も消えない。
それでも人は、残ったものを使って次を考える。
カルカダン牧場計画。
それが本当に形になるかは、まだ誰にも分からない。
だが少なくとも今夜、月舟楼の一卓で生まれたその言葉は、ただの酔客の冗談だけでは終わらなかった。
それだけで、十分に始まりだった。




