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見難い火傷の子  作者: 清風
305/326

カルカダン牧場計画

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子305



カルカダン牧場計画



深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


月舟楼の夜席は、珍しくざわめいていた。


その日の目玉は、砂漠の王カルカダン。

喉肉の炙りは香ばしく、肩肉の煮込みは濃く、肝の香草焼きには独特の深みがある。

高い。

だが、皿が空くのは早かった。

珍味としての物珍しさだけではない。

きちんとうまいのだ。


給仕が空いた皿を下げていく。

杯が満ちる。

客たちの頬はほどよく緩み、卓ごとの声も少しずつ大きくなっていた。


その中の一卓で、男が皿を見ながら何気なく言った。


「うまいな。……で、こういうのは飼えんのか?」


名はロジェ。

王都で布と香料を扱う商人で、月舟楼にも時折顔を出す、ごく普通の客だった。


同席していた男が吹き出す。


「何を言い出す。相手はカルカダンだぞ」


「だからだ」 とロジェは肩をすくめた。 「うまくて、高くて、数が出ない。なら誰だって考えるだろう。狩るしかないから高いんだ。飼えれば話は早い」


「鹿や鶏じゃあるまいし」


「最初から無理と決めるのも早いさ」


酔いに任せた軽口。

そのはずだった。


だが、少し離れた席でその言葉を聞いた男が、杯を置いた。


日に焼けた顔。

太い指。

爪の間に土の色が残っている。

商人というより、現場の人間だ。


「……飼う、か」


その呟きに、ロジェがそちらを見る。


「何だ、旦那。できると思うか?」


男はすぐには答えなかった。

代わりに、運ばれていく次の皿を見た。

カルカダン肩肉の煮込み。

骨の周りまで丁寧に火が入っている。


「柵じゃ無理だな」


「ほう?」


「木も鉄も、ああいう角持ちには向かん。押すだけじゃない。引っ掛ける。こじる。持ち上げる。真正面から止める作りは、いずれ壊される」


ロジェの同席者が、半ば面白がって身を乗り出した。


「じゃあ、どう囲う」


男は杯を持ち上げ、少しだけ口を湿らせてから言った。


「土だ」


卓が一瞬だけ静かになる。


「土手で囲う。高く盛る。外は緩く、内は急にする。空堀も切る。柵で止めるんじゃない。地形で勢いを殺す」


ロジェが目を細めた。


「牧場というより砦だな」


「相手が相手だ」 男は平然と返した。 「平地に囲いを立てるから無理に見える。最初から窪地に落とし込めばいい。干上がったダムの底みたいなもんだ。上から見張って、下で飼う」


その言葉に、別の席で飲んでいた男が鼻で笑った。


「おいおい、また始まったぞ」


声の主はヨシダだった。

大盾使いの巨漢は、杯を片手に振り返る。

その隣にはパクエン、少し離れてフツウ、さらに壁際には白砂隊の面々もいる。

納品を終えた後、流れで月舟楼の夜席に顔を出していたのだ。


ヨシダは男の顔を見て、呆れたように言う。


「バルド、お前まだそういう話してたのか」


バルド。

王都近郊で大型鳥類や荒い家畜を扱う牧場主だ。

珍獣まがいの飼育にも手を出しては、半分成功し、半分失敗していることで知られている。


「まだじゃない。今日、確信に変わった」 とバルド。 「食える。高く売れる。角も皮も取れる。なら考える価値はある」


パクエンが杯を揺らしながら言う。


「考えるだけなら自由だが、相手はカルカダンだぞ」


「知ってるさ。だから柵じゃなく土手だと言ってる」


ヨシダが笑う。


「そこまで行くと牧場って言葉が軽いな」


「名前はどうでもいい」 バルドは真顔だった。 「要は、囲い地を作るんだ。広い窪地を掘るか、元からある地形を使う。周囲を土塁で固める。見張り道を上に通す。出入口は二重。導線は曲げる。真正面から走れないようにする」


フツウがそこで初めて口を挟んだ。


「維持費が高すぎます。土塁の補修、排水、見張り、人員、餌、水。採算が合う保証はありません」


「最初から安く済むとは思ってない」 とバルド。 「だが、毎回命懸けで狩るより、数年後に回る仕組みを作る方がでかい」


ロジェが面白そうに笑う。


「ほら見ろ。言ってみるもんだ」


「お前は言っただけだろうが」 と同席者。


そのやり取りを聞きながら、アオは少し離れた席で静かに耳を傾けていた。

灯継ぎの四人も今日は同席している。

リナは半ば呆れ、セトは興味深そうに、ガイは「本気かよ」という顔でバルドを見ていた。


そこへ、料理長ザイードが給仕の確認のために姿を見せた。

忙しい最中らしく、袖は捲られたままだ。

だが「カルカダン牧場」という言葉だけは聞き逃さなかったらしい。


「飼うのは勝手だ」 とザイードは言った。 「だが、飼った肉が同じ味になる保証はない」


バルドがそちらを見る。


「味が落ちると?」


「走らせず、餌を変え、環境を変えれば肉は変わる」 ザイードの声は淡々としている。 「今日の皿の価値は、カルカダンという名前だけじゃない。野で育ち、野で締まり、きちんと持ち帰られたからだ」


ロジェが感心したように頷く。


「なるほど。量が増えても質が落ちれば意味がないか」


「意味がないとは言わん」 ザイードは即座に返した。 「別の価値にはなる。だが、同じ価値だと思うな」


その言葉に、バルドは少しだけ口元を上げた。


「いい。そういう話だ。できるかどうかじゃない。やった時に何が変わるかを詰める」


ヨシダが杯を置く。


「いや、その前に“できるかどうか”を詰めろ」


笑いが起きた。

だが、バルドは笑わない。


「仔からだな」


その一言で、空気が少し変わる。


パクエンが眉を上げた。


「ほう」


「成体を囲うのは無理がある。やるなら仔から慣らす。導線を覚えさせる。餌場を固定する。台車も地面の延長として覚えさせる」


「台車?」 とリナが思わず声を漏らす。


バルドは灯継ぎの方を見た。


「搬出だ。巨大台車を使う。床を低くして、砂を敷く。乗り物じゃなく地面に見せる。自分で乗らせるんだ」


ガイが顔をしかめる。


「そんな都合よく乗るか?」


「慣らせば乗る獣はいる」


「カルカダンだぞ」


「だから仔からだ」


セトが静かに問う。


「乗せた後は?」


「そこで鎮静をかける」 とバルド。 「完全に暴れさせない。鈍らせて、姿勢を整えて、固定して運ぶ」


その瞬間、近くの席から低い声が飛んだ。


「言うのは簡単だ」


皆がそちらを見る。

いつの間に来ていたのか、灰色の外套を羽織った女が立っていた。

年は三十前後。

髪は短くまとめられ、腰には細い革鞄。

薬瓶と器具の匂いがする。


バルドが顔をしかめる。


「いたのか、ネリス」


「いたとも」 女――ネリスは空いた席に腰を下ろした。 「カルカダンを台車に乗せて眠らせる、なんて話が聞こえたらな」


ロジェが小声で尋ねる。


「誰だ?」


フツウが答えた。


「魔物医です。大型危険獣の鎮静と治療を専門にしています」


ロジェの目が少し丸くなる。

アオもまた、初めて聞く職名に意識を向けた。


ネリスはバルドを見た。


「眠らせるだけならできる」


「だけなら、か」 とバルド。


「眠ったまま脚を折らせず、呼吸を止めず、途中で起こさず、起きた後に暴れさせず運ぶなら話は別だ」 ネリスは淡々と言う。 「巨体の鎮静は量の問題じゃない。興奮、呼吸、倒れる向き、覚醒の兆候、全部見る。牧場主の思いつきで済む話じゃない」


ヨシダがにやりとする。


「ほら来た」


だがバルドは引かなかった。


「無理だとは言わんのだな」


ネリスは少しだけ黙った。

それから、杯ではなく水差しを取って自分で注ぐ。


「仔から慣らし、導線を固定し、台車を日常に組み込み、鎮静を最後の工程にするなら、不可能とは言わない」


「ほら見ろ」 とバルド。


「ただし」 ネリスは即座に続けた。 「それは“眠らせれば運べる”という話じゃない。“運べるように育てた個体なら、最後に眠らせて運べるかもしれない”という話だ。順番を間違えるな」


その言葉に、セトが小さく頷いた。

アオもまた、胸の中で同じ言葉を反芻する。

最後の一手だけを見てはいけない。

そこへ至るまでの積み重ねが要る。

それは今日見た討伐と納品の話にも、どこか似ていた。


ロジェは感心したように息を吐いた。


「軽口のつもりだったんだが、思ったより大事になってきたな」


「お前が火をつけた」 と同席者。


「火をつけたのは皿だろう」


その時、給仕が新しい皿を運んできた。

カルカダンの脂を使った焼き野菜。

香りが立つ。

卓の空気が少しだけ和らいだ。


ザイードはその皿を一瞥してから、最後に言った。


「やるなら好きにしろ。だが、次に持ち込む時は“カルカダンだから高い”では通らん。“うまいから高い”で通せ」


「厳しいな」 とバルド。


「当然だ」


ザイードはそれだけ言って、また厨房へ戻っていった。


しばらく沈黙が落ちる。

その沈黙を破ったのは、意外にもアオだった。


「……でも、考える人が出るのは分かる気がします」


皆の視線が集まる。

アオは少しだけ言葉を探してから続けた。


「今日のカルカダンは、ただ危ないだけの魔物じゃなかったです。倒して、運んで、料理して、食べて、価値になってた。だったら、その価値を増やせないかって考える人が出るのは、たぶん自然なんだと思います」


ネリスがアオを見る。

その目は厳しいが、否定ではなかった。


「自然だ。だからこそ、自然に死人も出る」 と彼女は言う。 「夢を見るなら、死なせない手順まで考えろ」


バルドが腕を組む。


「分かってる」


「分かってない顔だな」 とヨシダ。


「分かってるさ。だからまず地形を見る。窪地、水場、土質、風向き、出入口。次に仔の確保。次に導線。次に医者だ」


「順番は悪くない」 とネリス。


フツウが帳面もないのに計算する顔で呟く。


「資金調達、用地確保、労働力、事故補償、護衛契約……」


パクエンが笑う。


「もう始める気か?」


「始める気の人間がいるなら、必要なものを数えただけです」


ロジェは杯を持ち上げた。


「では、未来のカルカダン牧場に」


「気が早い」 と何人かが同時に言った。


笑いが起きる。

だが、その笑いの中に、完全な冗談だけではない熱が混じっていた。


月舟楼の夜は更けていく。

厨房ではまだ火が落ちていない。

皿の上で価値になったものが、今度は人の頭の中で別の形へ変わろうとしている。


危険な夢だ。

無茶な話だ。

けれど、うまいものを食べた人間が、次を考えないはずもない。


アオはそのざわめきを聞きながら、ふと自分の手を見る。

見えにくい火傷の痕は、まだ薄く残っていた。

消えたわけではない。

けれど、前よりは目立たない。

痛みも、もう昔ほどではない。


傷は残る。

危険も消えない。

それでも人は、残ったものを使って次を考える。


カルカダン牧場計画。

それが本当に形になるかは、まだ誰にも分からない。

だが少なくとも今夜、月舟楼の一卓で生まれたその言葉は、ただの酔客の冗談だけでは終わらなかった。


それだけで、十分に始まりだった。

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