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見難い火傷の子  作者: 清風
308/322

カルカダン初出荷

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子308



カルカダン初出荷



深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。



豪雨から二十日後、カルカダン牧場はようやく「次の段階」に進もうとしていた。


西の越流路は仮設ではなくなり、石と固めた土で流れを制御する形に改められている。

北の流れ込みには沈砂溜めが設けられ、枝や土がそのまま主排水路へ入らないようになった。

高台は三つ。

互いに見通せる位置に置かれ、どこからでも最低二方向へ逃げられる。

泥場と水場は分けられ、導線の途中には低床台車へ自然に乗り入れられる緩い坂まで作られていた。


見た目は相変わらず、牧場というより半分要塞、半分土木施設だ。

だが、前よりずっと「生き物を置いておける場所」になっていた。


仔カルカダン二頭も、豪雨の後に大きく崩れることはなかった。

転びかけた方の前脚は軽い捻挫で済み、今ではほとんど跛行も見えない。

もう一頭も、雨の後しばらくは物音に敏感だったが、泥場と高台を行き来するうちに落ち着きを取り戻した。


そして今日、ついに一頭を出す。


「初出荷」と言っても、まだ本格的な食肉流通ではない。

若い個体を一頭、月舟楼へ運ぶ。

量よりも、まずは安全に運べるか、状態を保って納品できるか、そこを見るための試みだ。


朝の空気は乾いていた。

雲は薄く、風も穏やかだ。

誰も口にはしないが、全員が空を何度も見上げていた。


「今日は降らん」 とヨシダが言う。


「言うな」 とガイが即座に返す。


「縁起でも担いでるのか」


「担げるものは担ぐ」


そんなやり取りの向こうで、バルドは台車の最終確認をしていた。

巨大台車は以前より改良されている。

床はさらに低く、滑り止めの砂が均一に敷かれ、側面の固定具も露骨な拘束具に見えないよう工夫されていた。

乗せてから縛るのではなく、乗った状態で自然に位置が定まるように作り直されている。


ネリスはその周囲を一周し、留め具と緩衝材を確かめた。


「固定は急ぐな」 と彼女は言う。 「乗せることと、固定することは別工程だ。途中で一つにするな」


「分かってる」 とバルド。


「本当に?」


「今日は分かってる」


ネリスは少しだけ目を細めたが、それ以上は言わなかった。


アオたち灯継ぎも、見張り道の脇にいた。

手伝いに来たというより、もうここまで来たら見届けたいのだ。

リナは緊張した顔で台車を見つめ、セトは導線の先を確認し、ガイは「うまく行く気がしねえ」と言いながらもその場を離れない。


「どっちの仔を出すの?」 とアオが聞くと、バルドが答えた。


「脚を痛めなかった方だ。今日はまず、条件のいい方で通す」


無理をしない。

見栄を張らない。

豪雨の後、バルドはそこを覚えたらしかった。


出荷の準備は、いつもの朝と同じように始まった。


餌を散らす。

水場を見せる。

高台から下ろし、決まった導線を歩かせる。

人間は左右に散り、圧をかけすぎない。

追わない。

急がせない。

「出荷だから特別な日」にしないためだ。


選ばれた一頭は、鼻を鳴らしながらゆっくり歩いた。

泥場の縁で少し止まり、いつものように匂いを確かめる。

その先に、低床台車がある。

床には餌。

見慣れた匂い。

見慣れた高さ。

何度も乗って、何度も降りた場所だ。


「ここまではいつも通り」 とセトが小さく言う。


アオは頷いた。

問題はこの先だ。

乗ることと、降ろさずに運ぶことは違う。


カルカダンは台車の前で一度止まり、耳を動かした。

後ろから押す者はいない。

左右から囲う者もいない。

ただ、前に餌があり、いつもの導線が続いているだけだ。


一歩。

もう一歩。


巨体が台車の床へ乗る。

木がわずかに軋む。

だが、以前のような不安定さはない。

床は低く、重心もぶれにくい。

カルカダンはそのまま餌に鼻先を寄せた。


「止めるな」 ネリスが低く言う。 「食わせろ。落ち着かせろ」


バルドが手を上げ、周囲の動きを止める。

誰も急がない。

誰も成功した顔をしない。

まだ半分も終わっていないからだ。


カルカダンはしばらく餌を食べた。

耳の向きが落ち着く。

尾の動きも荒くない。

そこで初めて、左右の緩衝板が静かに寄せられた。

挟むのではない。

「ここが立ち位置だ」と示すように、ゆっくりと。


カルカダンの耳がぴくりと動く。


アオの喉が詰まる。

だがネリスは動かない。


「まだ」 と彼女は言う。 「驚いただけだ。怖がってはいない」


本当にその通りだった。

カルカダンは一度だけ頭を上げたが、すぐにまた餌へ戻る。

その隙に、足元の留めが一つ、二つと入る。

完全拘束ではない。

大きく踏み外さないための補助だ。


「鎮静は?」 とリナが小声で聞く。


「最後」 とネリス。 「必要最小限。立てるうちに立たせて運ぶ」


やがて準備が整う。

ネリスが近づき、首筋の状態を見て、呼吸を数え、目の動きを確かめる。

それから短く頷いた。


「入れる。量は浅く」


薬が使われた。

だが、眠らせるためではない。

興奮を鈍らせ、輸送中の暴発を抑えるための、ごく浅い鎮静だ。


カルカダンはすぐには変わらない。

少しして、耳の動きがゆるくなる。

首の力がわずかに抜ける。

だが立っている。

目も開いている。


「いい」 とネリス。 「これ以上は入れない」


バルドが深く息を吐いた。


「出すぞ」


台車が動き始めた。


最初の一歩が、いちばん怖い。

車輪が回り、床がわずかに揺れる。

カルカダンの脚が踏ん張る。

頭が上がる。

アオは思わず手を握った。


だが、暴れない。


台車はゆっくりと、牧場の導線をなぞるように進む。

普段から慣らしていた搬出路。

高台へも繋がる緩い坂。

雨の時には退避路にもなる道だ。

その道を、今日は外へ向かって行く。


門は二重。

内門を抜け、短い中間区画へ入り、そこで一度止まる。

カルカダンの呼吸を見る。

耳を見る。

脚の位置を見る。

問題なし。


外門が開く。


その瞬間、外の匂いが流れ込んだ。

乾いた土。

遠くの草。

人の多い道の気配。

カルカダンの鼻がひくりと動く。


「来るか」 とガイが呟く。


だが来なかった。

カルカダンは頭を少し上げただけで、台車の上に留まった。

浅い鎮静が効いている。

それだけではない。

ここまでの慣らしが効いている。


ネリスが短く言う。


「行ける」


その一言で、ようやく皆が少しだけ息をした。


月舟楼までの道は、決して長くはない。

だが今日に限っては、やけに遠く感じられた。

台車は急がない。

揺らさない。

角を曲がる時は声を掛け合い、段差は事前に埋めてある。

白砂隊が前後を固め、ヨシダが横につき、バルドとネリスは台車のすぐ脇を歩いた。


アオたちも後ろからついていく。

町へ近づくにつれ、人の目が増えた。


「あれが……」 「本当に運んでるぞ」 「生きたままか?」


ざわめきが広がる。

だが誰も近づきすぎない。

白砂隊の視線と、カルカダンそのものの迫力が、それを許さなかった。


月舟楼の裏手に着いた時、ザイードはもう待っていた。

腕を組み、無駄口もなく台車を見る。

その目は料理人のものだが、同時に品を見極める商人の目でもある。


「……生きたまま、ここまで持ってきたか」 と彼は言った。


「まずはな」 とバルド。


「まずは、か」


ザイードは台車の周りを一度見て、カルカダンの呼吸と姿勢を確かめた。

それからネリスを見る。


「無茶はしてないな?」


「今日はしてない」 とネリス。


「今日は、ね」 ザイードは鼻で笑った。 「ならいい」


搬入はさらに慎重だった。

ここで暴れれば、今までの全部が無駄になる。

だがカルカダンは、浅い鎮静の中で大きく崩れることなく、決められた区画へ移された。

最後まで完全には気を抜けなかったが、それでも――


終わった。


本当に終わったのだと分かったのは、ザイードが短く言った一言の後だった。


「受ける」


その瞬間、張り詰めていたものが一気にほどけた。


ヨシダが大きく息を吐く。

ガイは「まじかよ」と呟き、リナは胸の前で手を握り、セトは静かに目を閉じた。

フツウは何か計算している顔のままだったが、口元だけ少し緩んでいる。

バルドは笑わなかった。

ただ、台車の縁に手を置いて、しばらく何も言わなかった。


ネリスがその横で言う。


「一回だ」


「ああ」 とバルド。


「成功じゃない。成功例が一つできただけだ」


「ああ」


「次も同じとは限らない」


「分かってる」


その返事は、前よりずっと素直だった。


ザイードが皆を見回す。


「だが、価値はある」 彼ははっきりと言った。 「危険を減らし、状態を保ち、ここまで運べるなら、話は変わる。カルカダンだから高いんじゃない。扱えるから高くなる」


その言葉に、アオは少しだけ胸が熱くなるのを感じた。


ただ狩ってきたのではない。

ただ運んだのでもない。

考えて、失敗して、直して、ようやくここまで来た。

豪雨の夜、泥の中で必死に守ったものが、今こうして次の形になっている。


月舟楼の裏手には、昼の光が差していた。

台車の車輪にはまだ乾ききらない泥がついている。

その泥は、危機の名残でもあり、ここまで来た証でもあった。


バルドがようやく顔を上げる。


「次は、もっと楽にやる」


ヨシダが笑う。


「初回でそれ言えるなら上出来だ」


「楽に、だ。雑にじゃない」 とネリス。


「分かってるさ」


アオはそのやり取りを聞きながら、静かに息を吐いた。

見えにくい火傷の痕は、今日も手の甲に残っている。

消えてはいない。

けれど、前よりずっと気にならない。


傷があるままでも、次へ進める。

危機を越えた後でも、ちゃんと形になるものはある。


カルカダン初出荷。

それは大成功というにはまだ早い。

けれど確かに、冗談から始まった計画が、現実の一歩を踏み出した日だった。


そしてその一歩は、思っていたよりずっと重く、ずっと確かなものに見えた。

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