砂漠の王カルカダン(帰還)
見難い火傷の子303
砂漠の王カルカダン(帰還)
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
戻り線は、来る時よりずっと狭く感じられた。
同じ地形のはずなのに違う。
それは、一行が今や巨大な獲物の価値を抱えているからだった。
優先箱。
厚布に包まれた喉肉と肩肉。
肋内。
そして、慎重に運ばれる肝。
どれも落とせない。
揺らせない。
遅らせたくない。
先頭を行くのは白砂隊だった。
サフィアが進路を見、ハリドが足場を確かめ、ユースフが前方の異変を拾う。
ミナは時折、保存箱の表面へ手を添えて熱を逃がす。
強い冷却ではない。
だが、箱の中の猶予を少しだけ延ばしてくれる。
その後ろを、威嚇の唸りが荷を抱えて進む。
ヨシダは肩肉の包みを担ぎ、パクエンは優先箱を抱え、フツウは荷の順と状態を見ながら歩いていた。
帳面は今、腰にしまわれている。
書くより先に、運ぶべき時だった。
灯継ぎの四人は最後尾寄りでついていく。
見学とはいえ、今は一歩の遅れも邪魔になる。
誰も軽口を叩かなかった。
砂混じりの地面は、荷を持つと急に意地悪になる。
踏みしめたつもりでも、半歩だけ沈む。
その半歩が、荷の揺れになる。
揺れは傷みになる。
傷みは価値の低下になる。
フツウが振り返らずに言った。
「左、狭いです。箱を傾けないで」
「分かってる」 とパクエン。
「分かっていても言います」
「今日はそればっかりだな」
「今日はそういう日です」
ヨシダが前を見たまま笑う。
「正しいから困る」
ハリドが前方で手を上げた。
「段差」
サフィアがすぐに続ける。
「一人ずつ。荷の重い順に通す。急がないで、止まらないで」
アオはその指示に、少しだけ目を見開いた。
急がないで、止まらないで。
矛盾しているようで、今の状況にはぴたりと合っている。
まずパクエンが優先箱を抱えたまま段差を越える。
ミナが横につき、箱が揺れないよう手を添える。
次にヨシダ。
肩肉の包みは大きく、視界を少し塞ぐ。
だが彼は足元だけは外さない。
重い荷を持っても、前衛の体幹は崩れなかった。
「通った」 とヨシダ。
「次、肋内」 とフツウ。
列が少しずつ進む。
遅い。
だが、必要な遅さだった。
その時、ユースフが振り返った。
「風下、動きがあります」
全員の空気が変わる。
サフィアが即座に問う。
「数は」
「小型、三……四。まだ遠いです。でも血を拾ってる」
ヨシダが肩肉を担いだまま鼻を鳴らす。
「来るか」
「来ます」 とサフィア。 「でも、ここで止まる方が悪い」
パクエンが箱を抱え直した。
「追い払うか」
「最小限で」 フツウが言う。 「血煙を増やしたくない」
「注文が多いな」 とヨシダ。
「料理人ほどではありません」 とサフィア。
こんな時でも、その返しは崩れなかった。
小さく笑いそうになったリナを、セトが肘でつつく。
今はまだ笑う場面ではない。
サフィアが短く指示を飛ばす。
「ユースフ、位置を見続けて。
ハリド、前を切らさないで。
ミナ、箱優先。
威嚇の唸りは荷を落とさないことを優先。迎撃は必要最低限」
「了解」
その言葉通り、誰も戦闘態勢には入りきらない。
荷を守ることが先。
敵を倒すことは二の次。
それが今回の依頼の形だった。
やがて、風下の低木の間に影が見えた。
灰色の毛並みをした、犬に似た小型獣。
血の匂いに引かれてきた scavenger だ。
一頭なら脅しで散る。
だが群れると面倒になる。
ヨシダが舌打ちする。
「鬱陶しいな」
「止まらないでください」 とフツウ。
「分かってる」
パクエンが片手だけで杖を持ち直し、振り向きざまに小さな火球を放った。
爆ぜるほどではない。
地面の手前で乾いた火花を散らすだけの牽制。
小型獣たちは一度たじろぎ、足を止める。
「十分です」 とサフィア。
「本気で焼いたら?」 とガイが小声で言う。
爆炎先生が即座に返した。
「血の匂いと焦げた匂いを一緒に撒く気か。馬鹿か」
ガイは口をつぐんだ。
アオはそのやり取りすら、勉強になると思った。
強い手があるからといって、使えばいいわけではない。
今必要なのは勝利ではなく、帰還だ。
列は進む。
小型獣は距離を測りながらついてくる。
だが近づきすぎるたび、パクエンの火花かヨシダの威圧で押し返される。
完全に排除しない。
けれど寄せもしない。
その加減が絶妙だった。
やがて地面の色が少し変わった。
白けた砂混じりの灰層から、乾いた土の割合が増える。
森の外縁が近い。
ハリドが短く言う。
「抜ける」
その一言で、全員の肩から見えない重みが少しだけ下りた。
まだ終わってはいない。
だが、最悪の地形は越えた。
外縁には、朝に置いてきた荷車が待っていた。
御者二名と護衛役の冒険者が、遠くから一行を見つけて駆け寄ってくる。
「戻ったか!」 「早いな!」
「喋る前に荷台を空けてください」 とフツウが即答した。 「優先箱から積みます。揺らさないで。布を二重に。角は後ろ。皮はまだです」
御者たちは一瞬だけ面食らったが、すぐに動いた。
こういう時、指示が明確なのは強い。
低床の荷車へ、まず心臓と肝の箱。
次に喉肉。
肩肉は二人がかりで持ち上げ、軸の真上へ。
肋内はその横。
角は最後に高枠の方へ固定。
皮は状態を見て、無理に積まず別巻きにする。
ミナが箱から手を離す前に言う。
「冷却、ここまでです。あとは急いで」
「十分です」 とフツウ。 「助かりました」
ミナは小さく息を吐いた。
魔法で全部を解決したわけではない。
だが、少しだけ猶予を繋いだ。
それで十分だった。
ヨシダが荷車の車輪を蹴って確かめる。
「これで王都まで持つか」
御者が頷く。
「飛ばせば昼前には着く」
「飛ばしすぎるな」 とフツウ。 「揺れます」
「どっちだよ」 と御者。
「急いで、丁寧にです」
パクエンが吹き出した。
「今日は本当にそればっかりだな」
サフィアは荷の固定を最後まで見届けてから、ようやく周囲の警戒を少し緩めた。
白砂隊の仕事も、ここでようやく一区切りだ。
ユースフが小さく肩を回す。
「……緊張しました」
「討伐より?」 とリナが思わず聞く。
ユースフは少し考えてから頷いた。
「討伐は、始まればやることが見えます。今日は、終わってからの方が怖かったです」
その言葉に、アオは強く頷きたくなった。
自分も同じだった。
戦っている時より、運んでいる時の方がずっと息が詰まった。
爆炎先生が灯継ぎを見た。
「覚えとけ。依頼ってのは、勝ったかどうかじゃねえ。終わったかどうかだ」
誰も返事をしなかった。
返事をするまでもなく、その通りだったからだ。
荷車が動き出す。
軋む音。
だが、朝の空荷の時よりずっと重い。
それでも前へ進む。
王都へ。
月舟楼へ。
価値を失う前に、厨房へ。
アオは荷車の後ろ姿を見ながら、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
未来を増やすこと。
帰る道を作ること。
それは戦場だけの話じゃない。
こうして、価値あるものを無事に届けることもまた、同じ線の上にある。
ヨシダが大きく息を吐いた。
「ようやく半分ってとこか」
「半分以上は終わってます」 とフツウ。
「じゃあ七割だな」
「納品確認が済むまで油断しないでください」
「お前、最後までそれ言う気だろ」
「言います」
そのやり取りに、今度こそ小さな笑いが漏れた。
緊張が少しだけほどける。
だが足は止まらない。
カルカダンはもう、ただの討伐対象ではなかった。
高級宿泊館《月舟楼》へ運ばれる、価値ある食材だ。
そしてその価値を守り切ることこそ、今日の依頼の本当の達成だった。
王都の門が見えてくる。
次に待つのは、受領と査定。
狩りの終わりではなく、仕事の完成がそこにあった。




