第23章「ある日の決闘」
「はぁ?」
決闘。物騒な単語だが、魔法学園には決闘制度がある。
特に魔獣同士を戦わせることは召喚魔法の仕組み上、重傷であっても完治するためにゲーム感覚でかなり気軽に行われており、学内ランキングまで存在する。
魔法実技試験の騎馬戦とは違って、召喚した魔獣同士を戦わせるが召喚者への攻撃は禁止されている。この辺もゲーム感覚になる原因なのだろうが、倫理的な問題はさておき召喚魔法の使用経験を積極的に積み、使役技術の向上に一役買っているため学園理事会は特に奨励はしないものの、禁止もしなかった。
これもそうした決闘の一幕。レイラが学園理事会から魔人の管理を一任されてからまだほんの数日の頃の事である。
魔法学科3年生の男子生徒が、こともあろうに1年生の女子生徒に決闘を申し込んだ。
逆ならわからなくもないが、上級生が経験の浅い下級生に決闘を申し込むなど、恥を知れ案件である。
両者の使役獣は共にウルフハウンドと呼ばれる大型の四足獣で、この点に関しては両者の条件はイーブンだが、経験量から言えば3年生の方が圧倒的に有利なのは間違いない。その上、この男子生徒は四足獣部門のランキング1位の実力者なのだ。しかし、挑まれた女子の方も上級者により短期間に相当な訓練を受けており、経験不足を補うに充分な実力を付けていた。
「だから、そっちじゃなくてだなっ!」
自身の名誉のために、男子生徒はその点を強調した。非常に稀なケースだが挑まれた女子生徒には2体目の使役獣がいて、そちらと戦わせたいというのが挑戦者の希望だったのだ。その”そっちじゃない”方というのは角や尻尾など、魔獣的な部位を備える点を除くと学園に入学を申請するにも少し早そうな、身長140センチ前後、ヒト換算で14歳程度に見える、そんな少女を体長5メートルの四足獣と戦わせる相手に指名しているのだ。普通なら到底許容される行為ではないが、その少女は王国の定める人類にも獣人のいずれにも属さず、暫定的に魔人と呼ばれていた。
「どっちを出そうが私の自由ではございませんの?」
レイラの傍らには青灰色の鬣を持つ巨大な狼が控えていた。魔獣としては比較的ポピュラーな部類だが、この毛色はなかなか珍しく、レイラは海を泳ぐイルカのイメージがあると主張して”ウルフィン”と名付けていた。落第回避に向けて特訓をしてきたおかげで学園に登録の有る魔獣相手ならそうそう負けることはないとアランからも太鼓判を捺されている。大体、目の前の生徒が連れているのも同じウルフハウンド種ではないか。ウルフィンで不足する相手ではないはずだ。
「わかっているだろう!連戦が禁止されている以上、そいつと戦ったら魔人と戦うまでにまた並び直しなんだよ。」
決闘でのし上がるというのに憧れる生徒もいるが、学園理事会としては力が支配する無法地帯化というのは認められず、学内での決闘には様々な制約を設けている。
たとえば同一の対戦者同士の決闘には10日以上の間隔を開けなくてはならない。魔獣の再召喚が出来なくなるまで何度も繰り返し戦闘不能に追い込むといういじめの様な行為が行われた事があり、それを防ぐするための追加ルールである。この10日間の間に魔獣のメンタルの回復や訓練を行い再度の挑戦に備えるのだが、今、レイラとの決闘が成立した場合、勝っても負けてもこの挑戦者は再戦まで10日待たなくてはならない。それの何が問題かと言えば
「はあ・・・」
「なっ・・・!」
レイラの大きなため息は、もちろん相手に聞かせるためである。
「確かに、この子にすら勝てないようでは・・・」
わざと一呼吸置いてたっぷり嫌味を込めると
「魔人に挑んだら骨も残りませんわねぇ。」
レイラの煽りに周囲の観衆から笑いが沸き起こる。
レイラに決闘を吹っ掛けた生徒は顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
「ぅ、うるさい!俺だって魔人がいなきゃお前に決闘なんて挑まねえよっ。」
一介の地方貴族の子息が公爵令嬢に対してとって良い態度ではなかったが、同世代の学生間ではよくあることで余程の事が無ければ問題にされることはない。ただ、ここで言葉遣いに留意できるかどうかは将来の出世に関わってくることなので、彼の態度は決して褒められたものではない。
「まったく、そうまでして挑んでどうなさいますの?こんな格差マッチ、学園が認めないのではなくて?」
なぜ挑戦者はレイラの連れている魔人と自分のウルフハウンドを戦わせることに拘るのか。
「格が違うっていうのは熟知している、俺も実技試験を受けていたからな。」
「そういえばそんなこともありましたわね。結果はいかがでした?私はまあ、皆さんよくご存じでしょうけれども。」
自分が魔法で他人にマウントをとれる日が来るとは思っていなかったレイラは、この話題では得意の絶頂にあった。生き残れば良いかと思っていたら圧倒的強者のアランを下してまさかの優勝をしてしまったのだ。浮かれすぎてかつての意地の悪い所が前面に出ているが、魔人を従えることの重みを理解していなかった頃なのでまあ仕方あるまい。
「あの異常な動き、ただ強いんじゃない、あの魔人は格闘センスがものすごく良いんだ。ただでさえ魔人相手に魔獣が勝てるわけがないとしても、あの動きを実際に体験させるのは今後の成長の足掛かりになる。」
魔獣と魔人ではそもそも格が違いすぎる。身体の特徴が獣に近く、爪や牙が主な武器というのが魔獣。稀にブレスの類を吐く者もいるが、ベータのような特殊な翼竜など、見慣れた獣の姿からかけ離れた種類の者に限られている。
さらに珍しいのはコカトリスなどの複数の動物の特徴を持ったキメラ系魔獣で、その姿は自然な進化では有り得ない物であり人為的に合成したのではないかとさえ言われている。魔獣の合成技術は地球にはないので、そんな魔獣は存在し得ない。にも拘らずその存在が囁かれ続けるのは、翼竜など空想上の生物と言われていた魔獣の大半が現出しているからなのだが、レイラの連れている魔人も見方によってはキメラ系である。ユニコーンの様な特徴を多く持つこの魔人は、元となるユニコーン自体が山羊の身体に馬の頭が付いたキメラ(諸説あり)である上に、獣人に見られる頭部の耳が無く、大型化して毛皮で覆ったエルフ耳になっている。この位置に獣耳がある例は他にないのだ。ただでさえ空想上の生物だった物が、更に人為的に合成までされた姿で現れるというのはなかなか想像しがたい事だったが、実際のところ某国の諜報機関が秘密裏に保有しており、半年ほど後にレイラ襲撃に使用されることになる。
全ての元凶は交換現象である。かれこれ5000年、或いは1万年に及ぶかもしれない、地球は土地や海洋、或いは何もない空間を切り取られ、異次元や異世界と呼ばれる地球の物理法則の及ばない世界の同じ形状の範囲と入れ替えられてきた。人類の知らないところで始まったそれは一時は大都市を堂々と切り取るほどの頻発振りだったが、空間の交換が起きた双方の世界に大きな傷跡を残しながら次第に発生頻度を低下させていた。レイラたちの世代では先日の行方不明事件までは百年以上の間発生しておらず、研究も停滞していた。交換現象は自然現象なのか、自然現象だとしてその原因は何で、対処法はあるのか。何も明らかになっていないのである。
さて、魔獣と言えば使用者も多いウルフハウンドはその名の通り、狼の様な外見の超大型猟犬で、主な武器は爪と牙、筋力と体重を活かした体当たりなど。知能は比較的高く主人に良く懐き、初心者の初召喚によくかかることから近在の世界に住む種と推測されている。
レイラとこの生徒は同じウルフハウンドを従えていたが、両者には経験量以外にもはっきりとした差がある。レイラは試験対策として自分を乗せた状態での回避運動に重点を置いた育成をしているのに対し、挑戦者の方は本来の特徴を伸ばしたヒットアンドアウェイタイプ、両者が実際に戦えば互いに攻撃を当てられないまま時間が過ぎて行った挙句、疲れてきたところで集中力に勝る挑戦者が一発当ててレイラを沈めるという展開になるのではないだろうか。
だが魔人シリカと戦うとなるとそうはいかない。
過去の記録を鵜吞みにするならばその戦闘力は交戦状態にあった軍勢の両方を壊滅させるほどであり、しかも自身は全く傷つかない。つまり、倒すどころか傷を付ける方法すらない。強いて挙げるなら魔人は相手の攻撃をまともに受ける傾向があるので、とにかく当てていればそのうち変化があるかもしれない、というくらいか。
「要するに、負ける前提で魔人に一矢当てたという実績がほしい、と?」
「まあ、そういうことだ。」
「下らないですわね。」
「何だと?」
「最初から負けに来る相手と、どうして戦って差し上げる必要があるのかしら?私が勝つのは当たり前、それどころか勝ち方によっては私の方が非難されるような決闘、受けられるわけがないでしょう。」
挑戦者は口ごもった。魔人を擁するレイラは勝ち目の無い勝負を挑んできた相手を一方的にいたぶることができる。だが、そんな勝ち方は決闘そのものを穢す行為であり、挑まれた側が自分の家名に傷を付けることになるというところまでは考えていなかったのだ。
だが、既に2人の周りには相当数の人だかりができており、今更挑戦を取り下げることもできない。
何を思ったか、決闘を申し込んだ少年はレイラの前に跪いた。
「レイラ・ブラッドベリー殿、無理を承知でお願いいたします。魔人との決闘をお許しください!」
決闘を申し込んでおいて”お前、弱すぎるから”という理由で断られたら赤っ恥、ここまでして対戦が敵わなければ、それはそれで恥の多い学園生活を送ることになるだろう。
「ち、ちょっと・・・」
「どうか、どうか~~~!!」
戦う前から”一矢報いる”というのも微妙に変だが、負けが確定しているのは間違いない。この生徒の方も”全力でぶつかりたい”とか脳まで筋肉でできている者の発想だ。だが、先ほどの発言からして真っ当な強さを極めたいタイプなのかもしれない。そういう思考をする、いわゆる”戦いだけが人生”というのはレイラには理解できなかったが、真直ぐ自分に向けられた瞳からは真夏の太陽の様な熱いものを感じた。例えるならば愛の告白のような
「ま・・・まあ、そこまでおっしゃるなら今回だけ。一度だけ魔人と戦わせて差し上げてもよろしくてよ?」
「レイラ様赤くなってらっしゃる・・・」
周囲で見物していた生徒たちからそんな声が漏れ聞こえた。言われると却って意識してしまい益々心拍が上がる。
「お、闘技場の予約はあなたがしなさいよ?日時が決まったらご連絡なさい。」
「おお、受けてくれるか。お前に挑戦できるなら闘技場の予約ぐらい何度でもやるぞ。」
「一度で充分ですわよっ。」
魔獣同士を戦わせるとなると、種類にも依るがそれなりの場を用意しないと周囲の被害を無視できないことがある。ウルフハウンドはブレスを吐くような魔獣ではないが、機敏な動きと高速移動からの突進は相当な破壊力があり、このレベルの魔獣を使った決闘は闘技場を使って行うことになる。より小型の魔獣や特殊攻撃持ちなら防護環境の整った中庭、逆に大型なら学外の荒野などの場合もある。闘技場を使う場合は施設数が限られているため、その予約は順番待ちである。
決闘の日はすぐにやってきた。
魔人が戦うというので先に予約していた生徒が順番を譲ってくれたらしい。
レイラにとっては因縁の場所だ。試験当日、ここでウルフィンを呼び出せなかったことが今の状況につながっている。未だにその原因はわかっておらず、ウルフィンで決闘に応じることになった場合またしても失敗するのではないかという不安はあった。しかし、いざ現地入りしてみるとウルフィン召喚はあっさりと成功した。今、レイラは2体の魔獣を同時に使役している状態で、しかもその片方は魔人である。その事実だけでもレイラの実力が窺い知れ、見物人に噂の種を提供した。先日までの散々な成績は能ある鷹の姿であり、試験をきっかけにいよいよ爪を見せ始めた、と、生徒たちは思っていた。
だが、真の状況はもう少し複雑だ。
レイラはウルフハウンドについては確かに使役状態に置いているが、魔人については必ずしもそうではない。意図せず召喚してしまった魔人”シリカ”は、限界を超えた魔力注入による召喚宝珠の破損という事故によって、使役すべき用途が無くなっても元の世界へ送還できなくなっていた。通常そのようなことは起こらないのだが、レイラの持つ膨大な魔力を限界まで注ぎ込まれた結果、宝珠は自壊してしまった。壊れた宝珠は修復のため(分析も兼ねて)理事会に預けられていて、レイラは宝珠の情報を複写した予備宝珠を使ってウルフィンを召喚している。だが、魔人については複写前の情報には含まれておらず、宝珠を修復しても召喚元の世界に関する情報の復元は望み薄だ。例えるなら、ページ単位でばらけたノートとページそのものが溶けたり焼けたりしたノートの違いという感じだろうか。
送還するべき世界がわからない者を適当な世界へ飛ばすわけにはいかず、今のところレイラの命令には従うらしいというだけの理由で、学園理事会は落第確実の成績だった少女に魔人の管理を一任した。魔人の居、食、住、全てにおける権限をレイラに付与し便宜を図ると宣言したのだ。レイラとしてもそんな得体の知れない者を傍に置きたいわけがないのだが、預けられそうな当てを探して学園内を歩き回ってみたが叶わず、それどころか興味本位に魔人を解剖しようとする教師までいてとても他者に預けられる状況ではなくなってしまった。
還す当てがない上に、自分の留守中は寮に置いておくのも不安なためレイラは魔人を日常的に連れ歩いてるが、通常なら魔人が現れたというだけで国家の存亡にかかわる非常事態である。それを呑気に授業にまで連れて来ているのには理事会の意向もはたらいている。
敵対的な勢力の手に渡るリスクを考えれば徹底的に所在を秘匿した上で幽閉というのが定石だが、学園理事会は全く逆の手を打った。学園内で魔人を自由に行動させておいて魔人に関する情報を積極的に公開したのである。魔人の研究をするならば魔法学園以上に設備の整った施設は考えられない。その上で余程素性が怪しい者を除いて外部の研究者を受け入れると表明した。恐らく数週間のうちに近隣諸国出身の研究者で学内は賑わう事になるだろう。
魔人の事を知りたければご自由に、といったところだろう。軍事、政治的に魔人を利用しようとするならレイラごと魔人を誘拐するというのも有り得なくはないが、魔法学園には王国騎士団の派遣部隊に加えて独自の警備部もあり、当然ながらレイラは重点警備対象であった。
加えて、敵の敵は必ずしも味方ではない。複数の国から派遣された研究者同士が実は相互に敵対勢力でもあり、牽制し合った結果レイラの安全が保たれるという皮肉な状況も起きていた。
レイラを取り巻く状況はさておき、決闘の当日。闘技場に先に来て待っていた挑戦者の様子がおかしい。
「いまさらそんなことを言われても承服できかねる。お・・・、私としては真っ向勝負をお願いしたい。」
学園から派遣された審判員に詰め寄っているが、審判員は意に介さないようで
「君の意志はできるだけ尊重するが、魔人に直接挑みたいという希望を叶えるのも相当な譲歩なのだ。ならば対戦形式についてはこちらの指定に従ってもらいたい。」
「なんでしょう?レイラ様。」
「さあ・・・対戦形式と聞こえたから、じゃんけん勝負に変更とかかしら。」
実は魔人はじゃんけんも強い。勝つも負けるも思いのままで、命令されれば90連敗でもやってのけるのだ。
「来ましたか、レイラ・ブラッドベリー。では両者が揃ったところで改めて、運営からの伝達事項を伝えます。」
審判員は書類挟みに挟んでいた通知を広げて読み始めた。
「・・・以上。内容を了承したら両者、署名のうえ開始位置で待機するように。」
「なるほど、そう来ましたか。」
「こんな間際になってから言う事か?俺は従う必要を認めない!」
「でも従わなければ勝負そのものが成立しませんわよ。それに、これはこれで互いの魔獣の力と知恵を比べる面白い趣向だと思いますけれど。」
「しかし・・・真っ向勝負こそ決闘とは思わないか?」
「あなた、ご自分が手塩にかけて育てた魔獣がひき肉になるのをそんなにご覧になりたくて?」
レイラの台詞は圧倒的強者のそれだったが、今回はそれが正論だった。魔人に爪も牙も効かないことは既に試験会場で見ている。そんな相手に一発だけでも当てたという実績を作るために魔獣を犠牲にするというのは魔獣使いのエゴが過ぎる。見物の生徒からもレイラを支持する声が多く、挑戦者は渋々署名した。
試験の時にも増して観客が押し寄せた結果、観覧席は満席となり、
「レイラ!」
「あら、これはアラン殿下、ディーン殿下、ご機嫌麗しゅう。」
王族であるアラン達は貴賓席からの見物である。
「理事会も面白いことを考えるね。これなら相手を殺す心配はほとんどないだろう。」
「そんな心配はまったくないと嬉しいのですけれど。」
「短期間で準備できたのはさすがだと思うし、他の候補も見せてもらったけれど、これが一番競技らしいと思うよ。」
聞けば他の案はステーキ早食い対決とかパズルの早解きとか、有利不利の振れ幅が激しい物ばかりだったらしい。正直なところ何をやっても”超”が付くほどの格差戦になるため、勝負を成立させるために理事会も相当に頭をひねったようだ。
「殿下が仰るのでしたら・・・ただ、私、魔人にそのような細かい命令を出したことが無いのでどこまで従わせることができるか、正直不安で」
「おや、君ともあろうものが弱音を吐くのかい?仮にもこの僕を下して優勝した君が。」
「・・・失言でしたわ。魔人にはまだ未知の部分が多いですが、私のできる限りの力をぶつけて参ります。」
「だよな。でなきゃ兄上が学内3位に格下げになって、お前の嫁ぎ先はうちじゃなくてそいつの家だ。」
「とつ・・・・!?」
特にそんな取り決めは無く、レイラが王家に嫁ぐのは既に既定路線なのだが、ディーンは新たなルールを追加して決闘を盛り上げたいようだ。
「でも、このまま私が1位に居続けたらどうなりますの?」
「そうだな、王家から公爵家へ、前代未聞の婿養子かな?」
「絶対に勝ちますわ!そうしたら毎年秋には2人で柿を収穫して渋柿は軒先に吊るしますわよ!!」
「まてまて、冗談だぞ?わかっていると思うが今のは冗談だからな?」
「うわぁ、卒業までに魔人の倒し方を考えないといけないのか。」
「兄上までふざけないでくれよ・・・」
「決闘者は待機位置へ。」
「あら、もう準備が整ったようですわね。では殿下方、行ってまいります。」
「行ってらっしゃい。」
「お前の戦いぶり、見せてもらうぞ。」
この場はディーンは運営に助けられた感じだが、こういうネタはずっと後を引くことが多い。口には気を付けるべし。
闘技場の中心には5メートル間隔で高さ20メートルの石柱が建てられていた。これが21本、対戦者を挟んで直線に並んでいる。両者の距離は凡そ100メートル離れていて、それぞれ自分の陣地内から出ることはできない。魔獣騎馬戦と違って最初から魔獣同士を戦わせる勝負なので、試合開始前にその陣地で自分の魔獣を呼び出し待機するというのが先日の試験と大きく違うところか。
事前に説明されたルールはこうだ。
この21本の石柱の上には紐の付いた鈴が置かれている。合計21個ある鈴を相手より先に回収し、すべての鈴が柱から無くなった時点でより多くを持っていれば勝利となる。棒引きを1対1でやると考えればよいだろうか。勝敗の判定基準も同じような物で、陣地内に置いた鈴はその時点で権利が確定し、対戦相手が持ち出すことはできない。命のかかった決闘は実に単純なゲームに置き換えられた。
石柱の直径は2メートル弱しかない。体長5メートルを超えるウルフハウンドには狭いが、挑戦者には作戦があるようで別に慌てた様子はない。
今回は魔法実技試験の時とは違って、魔獣を召喚するタイミングは自由である。
待機位置で開始の合図を待って召喚するのは盛り上がるが、決闘の場合は予め召喚しておいて仕込みなどあれば済ませてから待機位置に立つことが多い。仕込みというのは魔獣への追加装備である。実技試験では大型魔獣への鞍の装着の手際も評価対象になるが、決闘においては勝敗以外の評価は無い。また、実技試験では忌避される毒爪やスパイク付き装具も、決闘では自由に付けられる。
また、その能力があるならば魔獣を魔法で強化することも自由である。反応速度向上、耐冷気属性付与など、多様な能力向上が可能だが、それを実行できる者は少ない。その理由はまず単純に魔力をそれだけ必要とするという事、それから、もっと単純にそれらの魔法が難しくて学生でいる間に習得するのが困難であること。それでも、過去の事例では毎年何件かそういった上級者の対決というのがある。
そして今回の挑戦者も、ただプライドが高く無謀なだけの生徒ではなかった。
挑戦者は召喚魔方陣に重ねるように何か別の魔法陣を描き出した。何らかの属性付与としてもこういう使い方は珍しいし、観戦の教員たちも感心したように覗き込んでいる。
ほどなくして2メートルほどに縮んだウルフハウンドが現れた。レイラたちも実際に見ることは初めてだったが、物の大きさだけを変える魔法があるという噂は本当だったようだ。
「あらかわいい。」
レイラの感想通り、この大きさのウルフハウンドは独特な体型をした大型犬といった感じだ。
「このくらいの準備はしている。」
いや全然”このくらい”ではないのだが、物体の大きさを変える魔法というものは確かにあるが、生物に対して使うと思いがけない障害が起きやすいので普段は避けられている。どれほどの鍛錬を積んだのか、この生徒は自分の相棒に対して躊躇なくそれを使ったばかりか、召喚魔法と同時に掛けてみせたのだ。
「大した度胸というか、さすがにそこは感心せざるを得ないわね。」
「フン、何事も実践あるのみ。というより実はな、これは召喚に重ねるのが成功のコツなんだよ。」
レイラが他人を褒めるのは珍しく、それに気を良くしたのか挑戦者は訊いてもいないことを話しだした。
「あら、そんな秘訣のような物がありますの?」
「お前と違って俺たちは普通の魔力量しかないからな、色々工夫をしているんだ。」
魔法陣の使用時には魔力の奔流のような物が外周を走る現象が見られることがある。それは事実魔力が走っているのであって、エネルギーに魔法の効果を発生させるためのパターンを与えているのだが、光って見えるのは本来の魔法の効果ではないので実を言うと魔力が多少無駄になっている。魔法陣を重ねるとその無駄に消えるはずの魔力を起動の補助として再生できる上、起動のタイミングを計るのに都合が良いのだ。結果として魔力の節約になるばかりか、生物の縮小という繊細な操作の成功率を上げることに成功している。
「とはいえ滅茶苦茶神経を使うから、今回みたいな特別な時用の、文字通りのとっておきだ。」
「確かに、今のお話しだけではちんぷんかんぷんですわ。」
まだ試合が始まってもいないのに、対戦相手は既に疲れた様子が見える。
一方、レイラの連れている魔人は召喚された獣というより親戚の子供とでも形容した方が良さそうだ。
これから起きることに不安を感じている様子もなく、特に命令をされているわけでもないのにレイラの横に並び立っている。あまりに大人しいその姿は、魔法実技試験尾の時の衝撃的なスタイルとは違って魔法学園の制服姿だった。召喚時に全裸だったため追加装備としてレイラの制服を着ているのだが、事情を知らなければ生徒と魔獣を戦わせる違法マッチと思っただろう。制服を装備した結果、魔人の見た目はますますただの獣人の少女になっていた。
「では、これより自分の魔獣に競技内容を伝えよ。5分後に合図とともに競技開始とする。」
2人はそれぞれの魔獣に競技内容を教え始めた。ルールや勝利条件を伝えるより、単にこの柱の上にある鈴を取って来い、という命令を伝えるのがやっとだが、あまり複雑なことを教えると魔獣が混乱する。できるだけ単純な内容で伝えて無駄なく迅速に行動させることが重要だろう。重要なのだが
「ええと、鈴よ、鈴。見たことはあるかしら?こんな大きさの、振ると音がする球で・・・」
通常なら事前に競技内容が伝えられていても良さそうなのだが、運営事務局が通常の決闘として手続きをしてしまったため理事会が事情を知ったのが昨日、そこから貫徹同然でこの準備をしたらしい。そのせいで、今から競技内容をそれぞれ自分の魔獣に教えなくてはならない。ミニゲーム同然の簡単な競技は、その前段階で思いがけず魔獣と主人の信頼関係が試されることとなった。
「こう、中空の球の中に玉が入っていて、紐が付いていて・・・」
レイラが魔人に鈴というものを説明している間にあっという間に5分が過ぎてしまった。
「両者、開始位置へ。」
「だから・・・ああ、もうッ!」
挑戦者の方は言葉の話せない魔獣を相手に上手く説明ができたようだ。粛々と待機位置へ移動している。
レイラも移動しながら最後の指示を与えていた。
「あの柱の上に丸い物が置いてあって、その丸い物というのは・・・」
「ぅあぷ・・・?」
魔人ははっきりした言葉を話さないため、レイラの言ったことが理解できているのかどうかわからない。知能は高いはずなのだが、いや、逆に知能が高いせいで相手の本心を探ってしまっているのだろうか。ちょっと何を言っているかわからない、その行動に意味はあるのか?とでも訊きたそうな顔でレイラを見上げているのだ。更には開始時間が迫っているというのに、肝心の柱に背を向けてしまっている。
審判が右手を挙げた。決闘の宣言がされる。見学者のざわつきが瞬時に静まる。
レイラの名を読み上げ、続いて挑戦者の生徒の名前・・・だが、レイラは魔人の緊張感のない様子が気になって相手の名前も耳に入らなかった。
「いざ尋常に・・・始め!」
審判員の声が響き渡る。言い忘れていたが、決闘がゲーム対決になったことで判定が複雑化し、同じ競技を3戦先に取った方を勝者とすることなどが決められた。
ウルフハウンドが最寄りの柱へ向かって駆け出した。一方の魔人にはそんな様子はなく、レイラはまだ競技内容の説明を試みている。
身体が小さくなったことで不利になりそうなものだが、優れた猟犬でもあるウルフハウンドは木登りも得意である。石柱の真下までたどり着くと、そのままの勢いで石柱を駆け上り、あっという間に最初の鈴を獲得した。
そして主人の元へ戻るかと思いきや、石柱の頂上で姿勢を整えると5メートル離れた次の石柱まで跳躍した。
猫や虎ならともかく、ウルフハウンドにそのような芸当はなかなかむずかしい。だがいとも簡単に飛び移って見せると、最初の鈴を一旦置いて、二つの鈴に結ばれた紐を器用にそろえると一緒に咥えて主人の所へ戻って行った。
リスクを承知で縮小をしたのはこのためだったのか。元のサイズのままでは柱を登るには都合が良いが、鈴に対しては体が大きすぎて、咥えやすいように紐を結んであっても尚拾い上げるのが難しい。柱を登る速さと鈴を拾い上げるのにかかる時間のバランスを考えた上で最適な身長を、フィールドを一目見ただけで瞬時に見抜いたというのか。
この挑戦者、さすがに出来る。
突然の試合内容の変更にも柔軟に対応し、確実に勝ちに来ているのだ。
鈴を2つずつ運ぶのは魔獣自身の判断だろうか、3つ同時に咥えるのは難しいと考えたとしたら結構な知能だ。
挑戦者はさっそく2点を獲得。そしてすぐに3点目、4点目に向かう。
観客席から歓声が上がった。一方の魔人はその様子をレイラの陣地から見ていて、その動きに感心したように手まで叩いていた。魔人が一向に動こうとしないことに観客もざわついている。このまま負けるのか?それも、まるで知能の低さを晒すような姿で?
「見たでしょう?あれを10・・・11?向うよりたくさん取ってこないと負けなのよ。ほら、もう8個目を取りに来たわ・・・せめて完封だけは避けて頂戴。」
レイラが魔人を動かそうとして焦るあまり、次第に身振り手振りが増える。その様子は傍から見ても明らかであり、滑稽でもあった。実技試験、騎馬戦の成績も所詮は偶然だったのか。高まりかけたレイラの名声は再び土に塗れようとしていた。
「はー・・・」
魔人がようやく動いた。動いたがまだ陣地から出ておらず、その第一声はなんとも気の抜けた一声で、その間にも相手は11個目の鈴を得ようとしていた。
”ゾゴンッ!”
魔人の両腕が破裂したように見えた。直後、すさまじい衝撃と轟音がレイラを襲った。
「きゃっ!」
突風が砂を巻き上げ、土煙に魔人の姿はかき消えた。パラパラと降り注ぐ小石の中には少し大き目な物もある。さすがの動体視力でレイラはそれらを躱し、避けきれないものは手で受け止めた。受け止めたものの軽さに気付き手の中をよく見ると、それは石柱の上にあるはずの鈴だった。
「え・・・」
レイラの陣地にぼたぼたと鈴が落ちてきた。
「どうしたっていうの・・・これは。」
土煙の中に魔人の背中が見え、晴れるにしたがってその前に城壁が出来ているのが見えてきた。
「何よこれ・・・」
巨石を積み上げた城壁に猟犬が挟まって悲鳴を上げていた。それでレイラは現状を理解した。
これは魔人の仕業なのだ。
ようやく試合内容を理解したか、あるいは諦めて茶番に付き合うことにした魔人は、どのような方法によってかまだ鈴が乗っていた石柱を全部自分の目の前に引き寄せた。両腕が破裂したように見えたことと関係がありそうだが、レイラが着せた制服は肘から先が無くなっていた。そして、石柱が1か所に集まってぶつかった弾みで天辺にあった鈴は全てレイラの陣地に落下したのだ。
いや、一つは魔人の足元に転がっていた。
そして、先ほどから上の方でひんひんと鳴いているのはウルフハウンドが石柱に足を挟まれて動けなくなっていたのだった。魔人が行動を始めたことを察知した忠犬は、得体の知れない相手にまともに当たるより、決勝点となる鈴をどうにか確保しようとしてそれまでより少し長くその場に居てしまった。そしてそのわずかな時間のせいで石柱自体を引き寄せるという魔人の暴挙に巻き込まれてしまったのだ。
容赦なく引き寄せられた石柱は隙間なく並んでおり、そこに挟まった忠犬は前脚が完全につぶれてしまっていた。まだ少しは動かせるようだが、抜け出そうともがく度に挟まれた傷が広がってしまう。2メートルのウルフハウンドが宙づりになっていると自重で今にも足が千切れそうだ。生きているうちに送還すれば召喚魔法の効果で治りそうだが、これだけの怪我をした後では怪我自体が治ったとしてもすぐに召喚に応じるだろうか。深手を負わされたという恐怖は魔獣であっても記憶に深く刻まれる。手を出してはならない相手に挑んでしまったという後悔に似た感情が生まれていても不思議ではない。しかもこの試合は3戦先取の1戦目である。
それ以前に、忠犬が挟まっているのは石柱のかなり上の方で、救助するには石柱の合わせ目をどうにかして広げなくてはならない。棒のような物でこじ開けるか、魔法で石柱を壊すことになるが、そのまま地面に落ちればただでは済まないだろう。せめて元の大きさであれば落下ダメージもわずかですんだのだろうが、この時点で忠犬の運命は詰んでいた。それでも
「審判!この試合、棄権する。」
挑戦者は無理をしなかった。相棒の危機において、優先すべきことを間違わなかった。状況を確認するため審判がレイラの陣地に集まってくる。哀れなウルフハウンドはもがいたおかげで自分の脚をひねって脱臼してしまい、もはや自分の体重を傷口で支えているような状態になっていた。下から見ると口から泡を吹いているようにも見える。試合放棄ならその判断を急がねばならない。
「お待ちなさい!」
空気の読めない我らの令嬢が一声でその場を凍り付かせた。
「レ、レイラ・ブラッドベリー。自分の陣地で待機してい給え。」
だが、そもそもレイラは自分の陣地から出ていなかった。
「棄権などなさっては、駄犬とはいえ命を懸けた忠義に報いることなど出来ないのではなくて?」
レイラの声は質、大きさ共に良く通る。通るだけにその場にいたすべての者に正確に伝わった。後で言い逃れの余地などない程に。
「レイラ・ブラッドベリー、見ての通り、急いで降ろさないと危険な状態なんだ。この挑戦は無謀だった、俺の負けだと認める。だから即時棄権を申し入れたい。」
「嫌ですわ!」
信じがたい暴虐振りである。この場に魔人がいなければ、レイラ株は瞬時に紙切れ以下になっていただろう。レイラの人気を支えたのは魔人への恐怖、それとも純粋に人望か。
「そんな終わり方、私が許しませんことよ!」
特に命令をした素振りは無かったが、いつの間にか魔人は既にその位置へ移動して命令を待っていた。
「・・・おやりなさい。」
命令一下、魔人が石柱に手を付くと、上方で挟まっていたウルフハウンドがそのままの状態で、挟まったまま滑り落ちてきた。どういう仕組みなのか、脚を挟んだわずかな隙間の方が下まで降りてきたかのようだ。ただ落下するより余程優しく落着したのを確認すると、ウルフハウンドの上体を抱えるようにして無造作に引き抜いた。
”ギャヒィ!”
魔法で縮小していたウルフハウンドの身体はそれでも大型犬より余程大きかったが、魔人は本当に無造作にその巨体を抱えて、いや、石柱の存在を無視するかのような方向から手を突っ込んで引き出した。一応、助け出されたのか?魔人の両腕をすり抜けて自分の主人との間に立とうとするが、千切れても不思議ではないような勢いで引き抜かれたその脚はまだ付いていたものの、身体を支えられるような状態ではない。頭を上げようとしては何度も這いつくばり、それでも魔人との間に立って主人を守ろうとするのはなかなか健気な姿だった。
魔人は再びウルフハウンドを捕らえようと距離を詰め始めた。牙や爪の攻撃を警戒する様子は全くなく、無造作に歩み寄る。無警戒過ぎてその歩く姿の方が不気味なほどだ。
ウルフハウンドは逃げようとすれば逃げられるか、踵を返した瞬間に後ろから狩られるか絶妙な距離だが、前脚を怪我しているので急な方向転換は難しい。とびかかる魔人を躱すような動きは不可能だ。今から可能な行動は限られている。
その中で唯一、勝利へ向かう選択肢。
本来なら主人である挑戦者が次の行動指示を与えなくてはならないのだが、現場の迫力に圧倒されて一言も発せずにいた。こんな状況でも普段と変わらず話すことができるレイラはやはりどこかおかしいのだろう。しかし
「ーーーッ!」
レイラは魔人に何かを命じたが、実際には命令より先に魔人が動いていた。ウルフハウンドが魔人の喉を狙ってとびかかったのだ。まともに動く後ろ脚の力だけで可能な戦術は奇襲の一択、それもその一撃で致命傷を与えるのでなくては勝ちはない。自分の間合いにのこのこと進入してきた魔人に向かって猛然と突進し、突き立てようとした牙はいとも容易く防がれてしまったが、地面に引き倒せば再度喉を狙うチャンスはある。
脚の一本が使えないとはいえ自分よりはるかに小さいユニコーン少女の腕を噛んだまま振り回すくらいのことは容易かっただろう。だが、見た目に反して魔人の脚は地中に根を張ったかのように微動だにせず、逆に自分より体の大きいウルフハウンドを踏ん張る様子も無しに振り解いた。食い込むはずの牙も爪も、魔人の肌に傷一つ付けることはできず、ただ着ていた服を裂いただけだけだった。
ウルフハウンドは態勢を立て直して再度攻撃に転じようとした。
”ウボッ!・・・ボゥッ・・・!”
魔人の動きの方がはるかに早い上に容赦が無かった。ウルフハウンドの開いた口に手を突っ込んで顎を掴み、一気に引き寄せて肩の傷口にかぶり付いた。
”ヴミーッ!、ヴミーッッ!!”
格が違い過ぎた。
果敢に挑んだ忠犬は魔人に組み伏せられ、逆に傷ついた前肢に噛みつかれていた。
”キュウ―ッ・・・キュウゥ・・・”
「もう勝負は付いた、魔人を下げてくれ!」
「・・・」
「レイラ・ブラッドベリー、聞いているのか?!」
レイラは自分の陣地に仁王立ちのまま動かなかった。
腰に手を当て、扇を開いて口元を隠しているが、笑っているのだろうか。
「頼む、魔人を・・・もう充分だろう、放すように命令してくれ!」
扇子で顔を隠しているが、時々肩が震えている。果たして、レイラは笑いをこらえていた。
レイラは魔人と昨日や今日の付き合いではない。かといって、まだ出会って一週間ほどなので言うほどの付き合いでもない。だが、魔人があまりにも自分の意のままに動くのでつい笑ってしまっていた。
「あら、放してよろしいんですの?もう少しこのままにした方がよろしいんじゃなくて?」
言い放つと、下がった目尻や歪んだ口角のせいで煽り顔に見える。
「冗談じゃない、いくら治せるからと言っても足を食い千切るような怪我だと・・・、知っているだろう、もう召喚出来なくなるかもしれないんだぞ。」
そう、どんな重傷でも生きてさえいれば送還魔法の効果によって完治する。単純な転移魔法ではなく、宝珠に記録された情報によって身体を再構成するからだ。だが、心の傷は癒せない。
魔人に前脚を食い千切られたという恐怖の体験は脳に深く刻み込まれ、召喚魔法に対する強力な反発を生み出す。即ち、召喚に応じなくなる。
「いまならまだ間に合う、治療をしたいから放してくれ。」
「あらあら、そういうことでしたの、でしたら・・・」
レイラは最高の(悪い)笑顔で
「ますます放すわけには参りませんわ。」
魔人はウルフハウンドの肩を咥えてモガモガやっており、ウルフハウンドはまだ脱出を諦めていない様子だったが、踏ん張る後ろ脚からは力が感じられない。
「・・・そんな」
抵抗する意思を喪失したウルフハウンドはふさふさとした尻尾を左右に揺らし、箒のように砂を掃き動かすだけになった。
「んばー。」
緊張感の一切ない声で魔人は口を離し、口の周りに付いた毛を吐き出した。魔人が初めて見せる不快そうな表情は、一応ダメージを受けたと解釈して良いのだろうか。換毛期ではないが日常的に毛が抜けることで知られるウルフハウンドならではの光景だ。
「もうそのくらいでいいわ。放してあげなさい。」
解放されたウルフハウンドは怪我の具合を確かめるように立ち上がった。先ほどの哭き方から考えると思った以上に傷は浅いようだが、すぐには動き出さなかった。自分の傷口を舐めようとして何度も転倒した。
実にわざとらしいが、この時はまだ魔人の固有能力についてあまり知られていなかったのだから仕方がない。
石柱に挟まったウルフハウンドを傷つけずに移動させたことも含めて、魔人が治療を施したのだ。
まず潜行能力。地中に潜って移動可能なのだが、この時一緒に荷物を運ぶことができる。魔人に触られたウルフハウンドは地中を移動可能な荷物となり、そのまま地上へ降ろされた。
そして”ティーラブ能力”。命名者は魔法学園の生物教師。由来は口から破壊的エネルギーを吐く”ブレス”の逆。傷を舐め取るように治す、と表現されるが、薬効のある液体を分泌しているわけではなく、明らかに舌の届かない深さの傷が治ったり、傷の度合いによっては治癒魔法より回復が遅いなどその効能は微妙である。
レイラ自身もこの能力を体験していたため、気の毒な状況になっていたウルフハウンドをなんとかしてやろうくらいに思ったが、挑戦者の憔悴した様子を見て少し意地悪をしたくなったようだ。なかなか立派な性格をしていらっしゃる。
ウルフハウンドは傷口がむず痒いのか、後肢で掻こうとして塞がったばかりの傷口を抉ってしまい、驚いて飛び上がっていた。
「どうした、戻って来い。」
命令に従っておずおずと主人の方へ歩き始めたが、何か心残りでもあるのか、後ろを振り返ってしばらく立ち止まり、主人とレイラを交互に見た後、なぜかレイラの方へ向かって歩き始めた。
「ちょっと、舌を持ち上げてくれない?いちいち隙間に指を突っ込んだらいつまでも取りきれないわ。」
レイラは魔人の口の中に付着した毛を取ってやっていた。だが、魔人は取りやすいように舌を避けるというわけでもなく、レイラは魔人の短い舌をその都度指で持ち上げなくてはならなかった。
魔人の口の中はまだウルフハウンドの抜け毛が残っていて、舌の根まで付着した毛をレイラは苦労して取ってやっていた。水で濯がせれば早いのだが、取って欲しそうに口を開けて縋ってくるのを無下にもできない。
(魔人でもこれは気持ちが悪いのね。)
仕方なく毛を取ってやることにしたレイラだったが、魔人の口の中に躊躇なく指を突っ込んだのは観客を少なからず驚かせた。
実家で家畜に触れることが多かったレイラならではの行動だったが、良く知らない観客からは魔人相手に短期間にこれほどの信頼関係を構築した、さすがはレイラ様という風に見えていたようだ。
「もしかしてあなた、これ・・・これ以上上がらないの?」
「あがあが・・・」
レイラは魔人の意外な欠点を発見した。舌を動かす力が極端に弱く、持ち上げた状態を維持できないのだ。幼児のような発音もそのせいだろう。
ただ、それがわかったからと言って何がどうなるというものでもない。
そんなやり取りをしていたため、ウルフハウンドの巨体がすぐそばに来るまで気が付かなかった。いや、標準サイズの半分以下になっていたとしても2メートルもある毛玉が近づいてくるのだから、もう少し警戒心を持つべきだったかもしれない。レイラの前で大口を開けていた魔人からは明らかに見える向きだったが、全く無警戒にウルフハウンドに接触された。
”んっ”
完全に相手の間合いだったが、レイラはそれを危険と感じなかった。故郷で動物に触れる機会が多かったためか、他の生徒より動物の気持ちに敏感らしい。大丈夫、敵意は無い。これはたぶん・・・
マズルを突き出し、咥えていた物を足元に落とした。
「・・・あら、案外躾の行き届いた駄犬なのね。」
レイラは差し出された鈴を拾い上げた。怪我を治してやったことに対する礼のつもりなのだろう。
「まあ、当然の謝礼として受け取っておくわ。」
当の魔人は何が起きているのか理解できない様子だったが、レイラの反応を見て何かを学習したらしい。どこからか鈴を取り出すと、
「んっ。」
促されたウルハウンドが首を垂れると、その首に紐を結び付けた。
お土産をもらったウルフハウンドは嬉しそうに尻尾を振りながら帰って行った。
決闘自体は挑戦者の棄権が有効とされてレイラの判定勝ちとなった。
その時点でウルフハウンドの怪我の状態は再戦に問題無かったが、舞台の方が滅茶滅茶になっていて再開は不可能だった。運営曰く、
「魔獣同士の決闘では施設にもある程度損傷が出ることを想定しているが、ここまでの破壊は想定外だった。」
石柱を束ねて一気に引き寄せたのはもちろん魔人の仕業だ。
鈴をレイラの足元に落とす事まで完璧に計算されていた。魔人の足元に落ちてきたのはウルフハウンドが咥えていた内の一個だ。
”スペクター・ギムレット”(怪物の錐)。名前が判明している魔人の能力だが、命名者は不明である。魔人はこの名前を正しく発音できていない。前腕の尺骨に沿って鰭のような形に生えた毛で、馬で言う距毛が変化した物のようだが、これが無限に伸びる上に自在に動いて重量物を掴んで動かしたり、繊細な彫刻作業をしたりするのだ。錐の名の示すように、尖った先端を押し付けて揉むことで穴を開けることができる。武器として使うと非常にえげつない代物だが、専ら便利な道具や悪戯用として使われている。ドリルという名前でないのは左右に凡そ90度ずつしか回せないため。
今回、魔人はこの能力で石柱を瞬時に移動させた。両腕が破裂したように見えたのは制服の袖を突き破ってこの毛が伸びたからである。レイラは替えの制服を2着も台無しにされてしまった。
そのころ貴賓席では
「魔人が動かなくてどうなるかと思ったが、敵の治療までしてやるとか、余裕の勝利だな。ちょっと調子に乗り過ぎな気もしたが・・・兄上?」
「うん・・・どこまでがレイラの命令だったのか、ちょっと気にならないか?」
ルール上、一度どちらかの陣地に入った鈴には手を出せない。ウルフハウンドは最終的に10個目の鈴を咥えた状態だったが、そのうち1個を魔人に献上したことで挑戦者側の獲得数は9個となる。その後魔人に付けられた鈴は一度レイラの陣地に入った物なので獲得数に加算されず、点数は12:9となる。これがウルフハウンドが11個目を咥えることに成功していたとしても点数は11:10でレイラの勝利となっただろう。
実力だけで言えば魔人の完封勝ちになるところが、ルールの把握に時間がかかって僅差となった。
あの日、出現したばかりで言葉が通じるかもわからないという状況から一瞬で自分の役割を理解し、アランの翼竜さえも下してレイラを優勝させた魔人の知能がこの程度のはずはない。
今も、レイラは魔人にそれほど複雑な命令は出せていない。御庭番の報告ではルールの説明すら完全にはできていなかったらしい。
「魔人がわざと、焦らしたっていうのか?」
「有り得なくはない・・・いや、やはりこの結果を狙ったんじゃないかと思う。治療の件はレイラらしいと思うが、魔人はレイラの命令というより、意思に従ったようにも見える。」
「つまり、どういうことだ?」
「魔人の知能はただ高いだけじゃない。レイラという特定の人物と相性がとても良い・・・というくらいにしか報告は書けないかな、今はまだ。」
2人の王子はレイラの決闘を呑気に見物していたわけではなかった。
多くの文献に記述され、恐らく世界一有名な魔人の力がどの程度の物か確かめる。
そして、レイラがその力を何に使うかを見極める。
学園を卒業すればアランと婚約する予定の人物が不穏な考えに取り付かれた時、自分のするべきこと。
幼いころから従兄か兄弟のように関わってきたレイラを、このような形で内偵するのは王子たちにとっては心苦しい事だった。
「決闘なんて言うから覚悟を決めてきたのに、一体あれは何だったのかしらね。」
「生徒同士で命のやり取りをさせるわけにはいかないということでは無いでしょうか。」
当たり前のことをいうステラにレイラは苛立ちを隠そうともしなかった。
「当然でしょう!私が言いたいのは、どうして運動会みたいなことをやらされたのかってことよ!」
「も、申し訳ございません、レイラ様。」
「しかも、肝心の魔人は・・・ああっ、もう!何歳か知らないけれど、何なのあれ?馬鹿なの?」
制限時間内に競技内容を理解できなかったばかりか、理解したと思ったらルールとして明文化されていない方法で勝とうとするとか、魔人の知能は低いのか高いのか・・・
「やはり、ちゃんとした名前を付けた方が宜しいのではないでしょうか。」
「名前?」
「はい。召喚した魔獣に自分の物として固有の名前をつけるのです。」
「知ってるわよ、登録用紙を貰ったでしょう・・・でも、こんな魔人にふさわしい名前なんて考えつかないわよ。」
決闘に応じるには運営にその呼び名と種族を申告するというのは既に書いた通り。レイラは魔人シリカの申告をする際に記入の不備を指摘されたものの、今回は特別に一時保留という扱いで申告することができた。というのは、「種族名:魔人」、「個体識別名:シリカ」と記入したところ「種族名:魔人シリカ」ではないかと指摘されてしまったのだ。
魔人だろうが魔女だろうが、種族と呼び名、戦歴などの付帯情報を記録しておくだけの物なので種族名を問題にすることなどナンセンスなのだが、この時はレイラも受け付けた担当者も「魔人」という単語に必要以上に身構えてしまったと言えるかもしれない。無用な心配をして余計な手続きを増やしてしまった。
つまり、レイラはこの魔人の正しい種族名を見つけ出すか、規定の命名法に従って自分で決定しなければならない。
「まあ、その件については生物学科で訊いて来ればいいでしょう。」
「識別名はどうなさいますか?」
これについては受付も特に指摘はしておらず、このまま登録しても良いのだが、学園としては自分の召喚獣には固有の名前を与えることを推奨している。魔獣に名を付けると単純な信頼を超えた絆が生まれるといわれていて、事務的な識別用というよりは特別感があり、使役魔獣を得た生徒はほぼ例外なくこだわりのある名前を付けるのが恒例となっている。
「名前なんて言われても困るのよね・・・こんなのが出て来るなんて思わなかったし、そもそも魔獣じゃないし。」
「ですが、名前を付けるという行為には主人からの最初の贈り物という意味もございます。もしかしたら、今よりは言う事を聞くようになるかもしれません。」
結果がどうあれ、レイラたちには魔人は勝手に行動しているだけに見えているのだった。最悪の展開にだけはならないように気を付けているが、本音を言えば魔人がいつ無制限に暴れ始めるかわかった物ではない。一日でも早く主従をはっきり教え込まないといけないのだ。
「贈り物って、もう制服2着と下着を贈って、あっという間にダメにされてるわよ。」
「物質的な贈り物ではなく、心に残る、一生ものの贈り物、という事ではどうでしょうか。」
「一生心に残ると言えば、あの魔人、初対面でいきなり唇を重ねてきたわよ。」
「え・・・」
ステラとしてはレイラのために考えた提案だったのだが、レイラは何を言っても否定的に切り返して来た。まるでステラを言い負かすことの方が目的のように。毎日なにがしかステラを傷つけずにはいられないのだろうか。
「・・・まあ、いつまでも魔人や”あれ”というのも趣が無いし、登録用紙もちゃんとしたのを出さなくてはならないわね。」
ステラを虐めたところで提出物という現実は変わらないのである。
「とはいえ、どうしたものやら。もっと怪物的ならよかったのにまるで子供なんですもの。」
「なんというか、かわいい名前を付けたくなりますね。」
魔人の容姿は明らかにヒトではない部分を備えながら、全体的にはあまりにもヒトだった。それも自分より年下に見える。そんな相手を所有し名前を付けるという行為に、かつて存在した悪名高いエドモンズ帝国の臭いを感じてしまう。
「いっそこのまま魔人シリカで良くない?」
「今は一時しのぎで通っているだけです。万一今後同じ種族が現れた時に面倒なことになりますよ?」
本来シリカとはこの魔人の歴史上の呼称であって個体を指す物ではない。この数千年の間に、各地に出没した魔人と呼ばれる存在のうち、大きさや外見の特徴が一致し、三剣教の本尊としても有名なものは”シリカ”という名称で記録されているが、これは記録者が分類のために書いたものであり、それが当然であると言わんばかりに同一の個体のような書き方をされてきた。そういう意味ではこのまま”シリカ”で登録しても問題は起きなさそうではある。
「”魔人シリカ”の”シリカ”、”魔人”の”シリカ”・・・」
しかし
「ぬ?」
「え、何?」
付かず離れず勝手に歩いていた魔人が不意にレイラの正面に現れた。
「ああ、あなたの名前よ。早く決めて登録をしなくてはいけないの。」
「しぇぃ・・・」
「シェイ?」
「名前でしょうか?」
「シェイなの?あなたの名前は。」
「しぇー・・・、しぇー、いーっ・・・」
「違うと言いたいのでしょうか。」
「シェーイー、としか聞こえないわ。」
「しぇー、・・・ぱっ」
どうにも要領を得ない。魔人の舌が短いのか、発音が悪いのだ。
「もう、シリカでいいわ。響きも悪くないし、他に同族がいるのならそっちの方こそ自分の名前くらい持っているでしょう。」
「わかりました。では、さっそく登録書を。」
「そうね、綴りは”Silica”でいいかしら。」
実際、これまでに記された書物では魔人シリカは一体ずつでしか現れていなかったし、その特徴は一致していた。
レイラは魔人と目の高さを合わせると、言い聞かせるようにこう言った。
「今からあなたの名前は正式に”シリカ”になりました。しっかり覚えて、書けるようにしておきなさい。」
「しー、ぷぁ!」
「・・・シリカ。」
「しーぱ!」
「わかったのかしら?」
「多分・・・」
今まで内輪でシリカと呼ばれていた魔人は、実はこの時ようやく自分だけの名前を得たのだった。
こんなやり取りがあった後、わずか一カ月後にはレイラはまさしく懸念していた状況に遭遇する。
その後も決闘外での襲撃や国外の敵対勢力の襲撃など、魔人シリカに関わった事で入学したころには想像もしなかった事件が降りかかったが、レイラはそのすべてを乗り切って無事に学園生活を続けることができた。
そうした事件を通じてわかった事。
やはり魔人シリカは不死身であり、少なくとも三剣教の時代から生き続けているらしいと考えられる。
一方で、歴史上はエドモンズ帝国の時代に最低2個体の魔人シリカが出現した。この時点で魔人シリカが複数いると記録されてもおかしくは無いのだが、出現した場所というのがシリカにそっくりな姿の海エルフ一族の集団の中だったため魔人として認識されなかった可能性がある。また、それらの出自はシリカ同様に不明である。
その他に、魔人シリカの身体についてかなり突っ込んだ場所まで観察が行われたが、角や蹄など明らかに人外な部位以外はヒトの特徴が濃い、というかヒトその物の外観でありながら、機能はまったく異なる可能性が指摘されている。
また、それまでの定説を覆す事実として、魔人シリカに影響を及ぼす物質があるらしいこともわかった。それはヒトやその他の人類にとっては基本的に無毒な物で、シリカへの影響も限定的な物であったが、一切の毒も薬も効かないという従来の説を覆したというのは大事件であり、一応それについては目撃者も少ないことから現国王の名で緘口令が敷かれている。
発見は魔人のみに留まらなかった。
まだレイラと当事者しか知らないことだが、魔法学園首脳部の多くは異世界人だった。
この異世界人は時空転送技術によりシリカにそっくりな人造人間を様々な時代に送り込んでいたが、一部は全く異なる世界に到着し歴史に干渉していた。それらを修復するために技術者を時空転送したが、その転送技術は実は一方通行だった。交換現象との関りも指摘されたが、シリカに作用しなかったことから無関係と考えられている。
存在しないと思われていたコカトリスが出現した。
進化という言葉では説明が付かないことからキメラに分類される魔獣は存在しないとされていたが、レイラ誘拐を企んだ某国が一体を保有していた。通説通りに石化能力を持っていたがレイラには効かなかった。この時、レイラを襲った刺客が所持していたのが石化効果のある麻痺毒であり、これはコカトリス研究の副産物であった。刺客の計画としてはこの毒で石化したレイラを連れ帰り、現地で石化解除薬を投与する予定だったらしい。だが、肝心の解除薬は開発中で、しかもレイラに石化が効かなかったことで計画は完全に頓挫してしまった。
ここまでは一応、世界的な大発見。
レイラ個人についても一つの発見があった。
レイラの魔力量の多さはやはり異常であり、単純に身体を複製しても同じ能力は得られない事がわかった。転移魔法の失敗で複製レイラが出現したが、本人の完全な複製であるにもかかわらず常人並みの魔力生産能力しかなく、一方でレイラと同様の魔力消費をするため常に魔力不足で消滅の危機にあった。特に魔法を使うわけでもないのに消耗する理由は、レイラが日常的に何かを透視し続けているためだと複製は気づいたが周囲にはまだ秘密にしている。
複製レイラ”ベータ”は当初、レイラから安全に分離、または消去する方法が見つかるまでの命であり、一日の殆どを寝て過ごし外出などもってのほかという生活を送る予定だったが、レイラ側の事情によってさまざまな重大事件に首を突っ込んだ結果、秘匿されていたその存在は一部で公然の秘密となり、この時代には絶滅しているはずの海エルフの少女”クリスタ”を伴って割と安直に外出するようになっていた。
魔人シリカの出現は、当初は大きな驚きと畏怖を持って受け取られたが、その後1年にも満たない期間の学園生活は人々の魔人に対する恐怖心を大いに和らげた。魔人は命令されなければ他の生命や物品を損壊することはなく、王国も外国からの”旅行者”や”行商人”の入国を特に制限しなかったことで魔人の在り様は近隣諸国に詳しく伝わるところとなった。
それはレイラ誘拐未遂事件など様々な事件を引き起こしたが、首謀者の追及は場合によっては戦争の口実にもなりかねない。
魔人を有するフォレスタル王国は他国から見れば大きな脅威だったが、外交官の努力の甲斐あって本格的な武力衝突には至らなかった。その際、必要以上に魔人の情報を公開したのも外交戦略である。そして魔人目当ての入国者が一気に増加したおかげで警備部門の業務は多忙を極め、しばしばレイラ自身が自称観光客や自称研究者の相手をしていた。
そんな中、とある国との軍事同盟が成立した。様々な理由から安全保障上の最大の懸案国だったその国は、バローを雇ってレイラ誘拐を企てた国でもあった。
バローが機密情報を持って出奔したという事実はフォレスタルでも重要機密扱いで、バローは生命の保証と引き換えに魔法学園で石化解除薬の開発を継続させられていた。かの国はバローの引き渡しを求めてきたが、フォレスタルはそのような人物の存在を否定し、代わりに研究成果を渡すことで合意した。つまり、表向きバローは存在しなくなったのである。
そのバローが、珍しくステラの留守中にレイラを訪ねてきた。
「まあ、殺されないというだけで飼い殺しのような生活でしたけどね。」
バローは皮肉っぽく言って肩をすくめた。
誘拐未遂事件の時に受けた特殊な毒のせいで、ステラの身体は未だに石化の危険を孕んでいた。その毒薬を善意で以って投与した張本人は、雇い主の元を出奔して今は魔法学園に身を寄せ、その時に盗み出した石化解除薬の完成と量産のための研究をしている。乗り物酔いに苦しむステラを見かねて、とある出処から入手した石化毒を微量ずつ投与したのは彼だ。だが、石化に至らない量だったその毒はコカトリスに遭遇したことで効力を増強されてしまった。責任を感じた彼は一度は石像となったステラを持ち帰って回復薬を投与しようとしたが、ステラの扱いを巡って雇い主と決裂し、石像のままのステラと開発中の解毒薬を持ってレイラに保護を求め、今に至っている。
なんやかやあってステラは一応元の身体を取り戻したものの、薬が切れると再び石化してしまう可能性があり、バローは学園内で解毒薬の開発を手伝いながら臨床試験の一環として試作薬を届けている。その都度健康診断を行い、石化の兆候が表れていないか確認をしているのだが、一見健康そうに見えるステラの身体には石化因子とでもいうべきものが不活性状態で潜伏している。
この因子が何かのきっかけで活性化するとステラの身体は再び石化する可能性がある。完全に石化する前に解除薬を投与すれば助かるが、完全に石化してしまった場合でも一時的に元に戻す方法は一応、ある。あるにはあるが、レイラの複製が増える可能性があるためバローは定期的に検診に通ってきて、活性化の兆候を見逃すまいとしている。
「盗賊として鳴らした分は帳消しですの?」
「まあ、そっちの稼業はフォレスタルではほとんど働いていませんが。向こうの国では最後に盗んだ物が物だけに重犯罪者ですから、手続き上バローという人物はもう存在しないことになりました。」
途端にレイラが色めき立った。
「ということは、新しい名前を付けますのねっ?」
「おっと、そっちの方はもう決まっているんですよ。」
「あら、それは残念。」
シリカ、ベータと、他者の名付けをした経験は思いのほか気持ちが良かったらしく、レイラはバローの新しい名前も考えようとしたが誰かに先を越されてしまったようだ。
「それで、これからは何とお呼びすればいいんですの?」
そこでバローは少し口ごもった。余程言いにくい名前でも付けたのだろうか。
「いえ、実を言いますと・・・名前だけの話ではないのです。」
バローの表情は困ったような、何かを言いたいような・・・いや、言わせたいのかもしれない、そんな顔を見て
「もしかして、学園に居られなくなるとか?」
レイラのその一言でバローの表情から緊張が消えた。
「さすが姫様、やはり最初にお話しするなら姫様と決めておいて正解でした。」
「あら・・・褒める所なんかあったかしら?」
かつて誘拐計画を実行するにあたって、バローにはレイラに関する様々な情報が届けられていた。
その情報には学業成績が残念なことももちろん入っていたが、バローはその点には疑念を抱いていた。
魔力容量が非常に多く、魔法学園での励み方次第では歴史的な魔法使いに成長する可能性もある。入学試験の成績も上々だったが、実際に入学してみると知識が全くと言っていいほど入って行かず、入学3か月で早くも落ちこぼれの様相を見せ始めた。だが、レイラの学業不振は魔法に留まらず、学園で教えているすべての科目に置いて落第寸前という有様、入学時にわざわざ連れてきた専属メイドに当たり散らす毎日だったが、口では散々な暴言を吐いて起きながら暴力をふるったという話は無かった。もしかしたらレイラはメイドが嫌いなのではなく、好きだから傍に置いているのではないか。毎日のように浴びせる暴言は、本心で伝えたいことを言えずに誤魔化している、伝えられないからますます苛立つという若さゆえの悪循環なのかもしれなかった。
それほどレイラが執着するメイドとは何者なのか。
買収して味方につける可能性も考慮して、ステラに関する調査も行われていた。
ステラはブラッドベリー公爵家に仕えるメイドだったが、メイドとして入る前は公爵家と親交のある植物研究者ニューマン夫妻の娘であった。地位としては平民であったがレイラとは実の姉妹のように育ち、その縁でアラン、ディーンとも親しかった。
しかし、幼少の彼女を不幸が襲う。研究中の事故により両親が他界、ステラは孤児となってしまう。不憫に思ったレイラの両親はステラを養子に迎えることを考えたが、親しかったはずのレイラが強く拒否、彼女には罰が必要だと主張して養子の話を撤回させ、メイドとして自分の傍に置くと言い出した。しかも直後からレイラの態度が豹変、ステラに対してきつい言葉を日常的に浴びせ始めた。
これに対してレイラの両親は幾度となくレイラを咎めたのだが、狡猾なレイラは暴力だけは一切振るわず、また他ならぬステラがレイラの態度を受け入れてしまったためいつしか2人の関係はこの状態で公認のようになってしまった。
「でね、私は思ったんですよ。ニューマン夫妻の事故と姫様の豹変には何か関係があるのではないか、と。」
「そんな、おじ様のことは不幸な事故でしたし、ステラはあのまま孤児にしてしまうわけにはいかず、妹として家に入るのも本人は望んでいないしで、なんとか傍に置いておかないと・・・住み込みのメイドで良いんじゃないかと思っただけよ。」
「それでステラさんを自分のメイドに?」
「そうよ。私の部屋のことや個人的な習慣に詳しかったし、うってつけの人材だと思うでしょう?」
「それで魔法学園まで連れてきた。」
「そうよ、便利だし慣れた相手だから都合がいいでしょう?何か問題が?」
バローはレイラの唇のわずかな震えを見逃さなかった。
「自分に付けられた家庭教師に自分の小遣いから彼女の分の月謝を捻出してまで、ですか?」
「それは・・・」
「メイドというだけで寮に住む資格は足りているのに、彼女は姫様のご学友でもいらっしゃる。なぜそこまでの面倒を?」
「そ・・・後ろで話を聞いていただけのステラの方がお金を出して教わっている私より頭が良かったからよ。ただで授業を受けさせたなんて知られたら家名に傷が付くでしょう?」
「なるほど、家庭教師は姫様一人に教えるだけで2人分の月謝を受け取れてウハウハだったというわけですね?」
「・・・そうよ。悪い?」
「でも、魔法学園を一緒に受験するなんて、ご両親がよく了承してくださいましたね。」
「は?そんなの、寮に同居するのは最初から決まっていたことだから当然のことでしょう?」
「魔法学園の授業料は安くないでしょう。公爵とはいえ一介のメイドにそこまでする義理は無いと思いますが。」
珍しくレイラが言い負けそうになっていた。
「ニューマン夫妻の事故にステラさんが関わっていたからではないですか?」
「く・・・」
レイラのこんな憔悴した表情はそうそう見られない。
「そんなこと・・・あるわけないでしょう、あの子は関係ないわ。」
「ですが・・・」
「本当に関係ないのよ!」
「そうですね、彼女は関係ない。」
「・・・そうよ、関係ないのよ。」
「でも本人はそうは思っていない?」
バローに誘導されてしまったが、レイラ自身、いつか誰かに聞いてほしいとは思っていた。だが、よりによってこの男か。この男に話して大丈夫なのか。
「・・・あれは、ステラのせいじゃない。」
ニューマン夫妻の研究所で起こった事故は、爆発を伴う火事で研究所を全焼したものだった。
事故当時、ステラは研究所の両親を訪ねた際に研究室の機材を裾に引っ掛けて壊してしまい、正体のわからない液体が漏れたという。
ニューマン夫妻はその場の片づけを自分たちで行い、ステラにはレイラの所へ行かせた。直後に研究所で爆発があり、夫妻は焼死した。
「あれは確か、倉庫に積まれていた肥料の発熱が原因だったのでは?」
「ええ、でも、ステラは自分がこぼした薬品のせい、自分のせいだと固く信じていて、」
「・・・それは、今も?」
「だいぶ良くなったとは思うけれど、ちょっとでも気を緩めるとあの子、自分を責めるから。」
「姫様が無関係の理由で責め立てることで、毎日罰を受けていると思わせていた、と。」
「あの子が自分で自分を許すまでは・・・」
「なるほど・・・これはもしかすると・・・」
「え?何?」
バローは真剣な目で話し始めた。
「ステラさんの石化因子がいつまでも無くならない理由ですが、自分を許せない気持ちが強すぎて偶々体内に入った毒を、排出するのと同じ速さで体内で生成しているのではないかと。」
「それじゃあステラは・・・」
「彼女自身の力で自分を石化しようとしている。だからいつまでも石化因子が消えない。」
「でも、ヒトの身体でそんなこと、毒の合成なんてできるんですの?」
「魔獣の毒は化学反応より魔法による変性が主体で生成されますから、人並み外れた集中力があれば不可能ではないでしょう。臓器の機能とは関係ありません。」
ステラの頭脳の優秀さの証明でもあるが、こういう形で発揮されるとは。
「そんな・・・それじゃあどれだけ薬を貰っても治らないじゃないの。」
「その場しのぎ、一時的に石化因子を抑えたり減らしたりはできるでしょう。その間に・・・」
「その間?」
「姫様の力で、彼女の傷を解消してあげてください。」
「・・・何ですの?それ。」
「あの時の約束は守れなくなってしまいますが、それが出来るのは本人か、姫様だけです。」
「だから、なんで私・・・」
「本人に努力させるわけにはいかない。それは姫様自身がおっしゃったことでしょう。」
自分が責任をもって治すと言ったあの夜の約束は、もはや守ることができない。だがレイラが治すとは
「ステラさんには自分が罰せられているという意識が必要です。そしてそれを完璧なバランスで実行できるのは彼女の精神状態を常に監視しているあなただけなのです、姫様。」
バローは何を言いだしたのか。だがレイラはそこに突っ込めなかった。
「圧が高すぎれば彼女の精神は壊れてしまいます、軽すぎれば彼女自身によって彼女が罰せられます。」
「つまり石化する、ということね。」
「姫様の抜群のバランス感覚と・・・力で以って、上手く自分を許せるほうへ誘ってあげてください。」
バローがステラの留守にやってきたのはこの話をするためだった。
レイラがステラのために何をしているのか、ステラに知られたらこれまでの努力が水泡に帰す。しかし
「力って・・・」
「敢えて申し上げませんが、姫様、自覚はおありですよね。」
バローの含みのある言葉に、レイラは自分の秘密のことを言われていると知った。
「それはお気遣いいただきどうもありがとうございます。ということは、かの国の情報機関には知られているということですわね。」
「ええ、姫様は実に巧妙に隠していらっしゃいます、自分の試験の成績を犠牲にしても。」
「それは、親友の命がかかっている事ですから。」
「仮にステラさんの事が無かったら、試験の答えなんて自由自在だった、ですか?」
バローは絶妙にキーワードを外しながら会話を続けた。
「それがそう簡単でもないのよ。ここだけの話だけれど、問題用紙を見ても回答は浮かんでこないのよ。同じ問題を解いている他の生徒を覗かなきゃならないし、それが正しいっていう保証もないし。」
「案外ポンコツな力なんですね。」
「でも、ヒトの本質みたいなものを見るのは得意なのよ。あなたにここまで話すのも・・・」
「話すのも?」
「あなたがこの秘密を話さないとわかっているから。」
実はレイラは自分の透視能力について自覚していた。ベータが知らなかったフリをしたのはクリスタの口が今一つ軽いと見たからだ。自分が王家に嫁ぐ話が起きたのもこの能力のせいだし、この能力のせいで人の機嫌を窺がう子供になりそうだったのを苦労して強く育てたのは主にレイラの母だった。透視した人物像を無視した態度を取るのはまるで敢えて火中の栗を拾いに行く、見えている地雷を踏みながら進むような行為だったが、初手の失敗を立て直すことこそ大切である、と教えられたレイラは、尊大な態度で接しながら相手への気遣いを忘れない、ある意味面倒くさい女性になりつつあった。
だが、この透視能力は使い方次第で強力な武器になる。
フォレスタル王は早くからレイラに目をつけ、ブラッドベリー家に縁談を持ちかけた。
レイラもそれを承知で受けようとしている。他家に嫁げばそこでどのように利用されるかわからない。だが国の中心にあって国政に関わるのであれば少なくとも内戦になることは防げるだろう。下剋上も楽しいかもしれないが、レイラは面倒な争いごとは避けて通りたかったのだ。
「では、私も秘密を守れるように最善を尽くさねばなりませんね。」
「ご自身も見つからないようにしなければならないというのに、余計なことを教えてしまってごめんなさい。」
「いえいえ、私の方から探りを入れたのですし、仕事柄こういうのは慣れていますから。それよりもステラさんです。」
ステラもレイラの傍に長くいると秘密に気付いていてもおかしくはない。だがバローの話はそこではなかった。
「薬効的には石化因子はもう消滅しているはずです。にも拘らず血液検査には陽性反応が出る。先ほどの話にもどりますが、彼女の深層意識のようなものが魔力で石化因子をコピーし続けているとすれば、それは心の持ち様次第で消し去ることもできるという事です。」
「そのようですね。」
「私はもう行かねばなりません。薬はもう完成していると言っていいでしょう、薬局でこのレシピを出していただければ、研究所の関係者が処方してくれます。ですが、根本治療するなら」
「私次第、ということね。」
「そうです。」
今でもレイラは透視能力全開でステラの心の振れを感知し、安定した状態へ引き戻すような言葉をかけてきた。ただ、現在の境遇はステラの思い描く”罰”からは程遠く、レイラは厳しい言葉ばかりをかけ続けることになってしまった。そこへ魔人の出現、更に石化障害。レイラの消耗は激しくなるばかりと思われたが、魔人の世話というのが丁度良い負荷になったらしく、レイラがステラに厳しい言葉をかけることは減って行った。
バローの言う通りなら、これからのレイラ次第でステラは再び石像になるか、或いは過去も含めて呪いから解放されることになる。石化を一時的に元に戻す方法はあるが、レイラが3人になる危険性があるためほぼ不可能と思って良い。だが、この呪いを解く方法・・・ステラが自分自身を責め続けていて、レイラはこれまでステラの心を安定させることに執心してきたが、そこからさらに一歩踏み込んで、ステラを開放する。そんなことができるだろうか。
透視能力という反則技を使ってもできなかったことが、どうすればできるというのだろうか。
「難しいかもしれませんが、彼女自身に戦ってもらうしかないでしょう。」
「戦う?ステラが?」
「彼女が何をそこまで気に病んでいるかは私にはわかりませんが、それで自分を罰したいという自分をねじ伏せる、あるいは完全に消し去るのです。」
バローの言う事はわかるが、抽象的だ。
「具体的にどうすればいいのよ!それがわからないから私は毎日、ステラに酷い言葉を・・・ッ」
「申し訳ありませんが姫様、それがわかるのはあなただけです。心の奥深くに付いた傷はデリケートです。その傷を抉る日々を繰り返す彼女の気を傷から逸らすのではなく、立ち向かわせること。彼女が何をしたとしても、今ここに居ていいということ。いてほしいと望む人がいる・・・」
「ステラは・・・ここに居ていい。」
「・・・とかなんとかそんな感じの話で説得することですね。あなたでなくては無理です。」
「・・・」
「・・・」
「それって、なんかそれっぽいことを言ってみただけじゃありません?」
「いやいや、本当にそれぐらいしかないんですって。そしてその時彼女を支えられるのは姫様以外にないでしょう。」
「簡単に言ってくれますわね。」
ステラの自罰願望。死すら生ぬるいと思っている、過去の過ちに対する罰。ニューマン研究所の焼け跡の検証ではステラの主張は一応否定されたが、ひっくり返した器具からこぼれたという液体の正体はわかっていない。検証通りに何の関係も無いかもしれないし、あるいは本当に事故の遠因であったかもしれない。いずれにしてもステラに責任の所在を求めるのは無理というものだが、彼女以外の全員が彼女を助けようとしていた時、当の本人は自分を罰することばかり考えていた。
優しい言葉に耳を貸さないステラに、罵倒することで正気に戻せることに気付いたのはレイラだった。どう慰めても下ばかり見ているステラにカッとなったというのが・・・いや、それこそ透視したのだろう。
以来、レイラはステラの顔を見る度・・・ではないが、何かにつけて彼女をなじったり罵倒したりするようになった。
養子として、自分の義妹として迎える話がある程度進んでから拒否したのも、それでもブラッドベリー家に居られるように住み込みのメイドという提案をしたのも、透視によって周到に時期を測ってのことだ。
そして、自分の専属としてステラを見張りつつ、心の天秤が傾き過ぎないように声をかけ続けてきた。
副産物としてレイラの透視能力は研ぎ澄まされ、無意識にステラの心境を透視できるレベルに到達したが、逆に寝ても覚めてもステラの事ばかり考えるようになってしまい、一時は自分の方がステラに依存しているのではないかと疑うほどだった。尋常でない集中力を必要とする魔法である透視の使用が常態化した結果、レイラは魔力切れ寸前まで消耗することが日常の事となり、本来才能ある魔法使いだった彼女はまさかの末席争いの常連になってしまったのだった。
回りくどいやり方だったが、ステラを守ろうとして精いっぱいの事をした。バローの言う
「それぐらいしかない」
をできるかぎりやってきた。だが心の傷を直接的に癒すのはレイラの透視能力を以てしてもできなかった。透視能力ではステラが求める答えはわかっても、それは彼女を傷つけるばかりだったのだのだ。少なくとも今まではそうだった。
「まあ、先送りにしてきた課題にこんどこそ向き合わなくてはならなくなった、ということね。」
「姫様は短期間で随分変わられたと思います。もっとも、直接知っているのは最近の姫様だけで、それ以前の事は資料で読んだだけですがね。」
「今の私なら、出来ると思います?」
バローは少し考えてから
「五分五分、いや、七分三分というところですかね。失敗する方が七分で。」
「まあ素敵。」
「さっきも言いましたけど、心みたいなデリケートな物を治すのは簡単ではありません。姫様の力は強大ですが、1人で解決しようとしないで。仲間やご友人を頼ってみてください。焦らず、機会を待つのです。」
「ありがとう、その言葉、心に刻んでおきますわ。」
ステラが戻る前にバローは姿を消し、二度と現れなかった。
最近のシリカはステラが出かけるとどこかに消えることが多い。
レイラが呼ぶと初めから居たかのようにそこに現れるのだが、放っておくといつまでも姿を見せない。自分の中に入っていないことは感覚でわかる。どうやってか、レイラの声を聞いていながらステラの事も見ているのではないだろうか。
ステラが帰宅すると、シリカも部屋の隅に座っていた。レイラの心配事を察したかのような振る舞いは、これも一種の透視の産物ではないかと思える。シリカに見られているという感覚がステラの自制心を支えているようで、シリカと暮らすようになってからレイラの心労は明らかに軽減され、逆にステラはよくレイラやシリカを叱るようになっていた。
(心の傷に向き合う・・・)
「あれ?それだと私の傷にならない?」
「何か仰いましたか?レイラ様。」
「え?、ああ、大丈夫。何でもないわ。」
台所へ消えていくステラの背中を見ながら、レイラはバローとのやり取りを反芻した。
多分、石化の件も、今バローが姿を消すのも、後で思えばすべてがつながって見えるだろう。シリカが現れたことも実は偶然ではないということがあるかもしれない。
ステラの運命に大きな転機が近づいていて、そこに否応なく自分も関わることになる。いや、既に首を突っ込んでいて、その結末が訪れようとしている。具体的にいつ、どんな形で訪れるかは透視できない。ならば、その時に自分の力を遺憾なく発揮できるように、今日はしっかり食べてしっかり休もう。
”ガシャン!”
”ゴトッ”
「レイラ様、シリカが!」
「やれやれ・・・今度は何?」
食べるという習慣が無かったシリカは、最近になって食べることに興味を持ったらしく、ステラの買い物籠から適当な野菜や果物をつまみ食いしては叱られるという姿が見られるようになった。
「ああ・・・あのとき何に中ったのかだんだん絞れてきたわね。」
ジャムの瓶を片手にふらふらと歩くシリカの姿はまるで酔っぱらいのようだ。
「ほらここに座って。私は要らないから、落とす前にそこに置いて。」
赤いペーストの入ったその瓶には”苺ジャム”のラベルが貼られていた。




