苛立ち図書館
昼下がりの市立図書館という場所は、過ごしやすいにも関わらず結構閑散としている。ずっと調べ物をしていた人や読書をしていた人、勉強に励んでいた学生などが昼食のために外に出ているからだ。そんなわけで、変わらず図書館の中に残っている人というのは、大概が早めに昼食を取り終えた人かそれほどお腹が減っていない人、または何かしらの用事があって図書館から離れることが出来ない人たちばかりであった。そう言う点から見てみると、昼下がりの図書館の空気というものは存外に異様なもので面白くある。先に述べた二者は、穏やかながら集中して静かな時間を楽しんでいるにも関わらず、残りの一人、つまり何かしらの用事を有している人物が抱いている苛立ちが空気の中に奇妙な緊張をはらませているのだ。
人がまばらな図書館の一角において、ひとり椅子に腰掛ける伊月もまたそんな第三者の内のひとりだった。有り余る暇を文字通り持て余していたのである。一応目の前には開くだけ開いた本がある。どこぞの小説家が書いた恋愛小説だった。映画にもなったらしくに、普段あまり本を読まない伊月は何気なく手に取ったのである。けれど、遅々として読み進まなかった。今では目も向けることもしないで、頬杖を突いて視線を宙に泳がせるばかりである。そうしながら、伊月は脳内にて無限に増殖し続ける『暇』という文字を睨みつけていた。
暇。暇暇暇暇暇。暇過ぎる。暇過ぎて死ぬ。むしろ死にたくなる。暇地獄は無理。
そんなこを伊月は考えていた。そもそも伊月みとって一番苦手な事は待つ事なのだ。人気店のデザートを食べるために数時間待ちの行列に並ぶだとか、新作商品の発売に向けて店頭の前で一夜そ明かすとか、そういった事が全く出来ないのである。数時間も待つくらいならどこか空いている店に行って違うものを食べるし、一夜を明かすくらいなら今あるもので満足する。出来る事があるなら、そちらに流れてしまうのが伊月だった。非効率的な事が大嫌いなのだ。
でも、そんな伊月であってもやらねばならない時がある。待たなくてはならない時というのがあるのだ。
……ああ、千草の奴。あたしが本に興味ないのを知ってて、あえてここを待ち合わせ場所にしやがったなあ。くそう。悪魔だ。鬼だ。畜生だ。糞馬鹿阿呆に違いない。あたしをこんな場所に留めさせやがって。あーもう、早く来いよな、大呆け女。
苛立ちが貧乏揺すりとなって現れ始めた伊月の周りには、負のオーラが漂い始めた。苛立ちを始め、憎しみや嫌悪、解放への渇望や現状への不満などが混ざりに混ざり混濁して漂っていた。色を付けるとするなら、限りなく黒に近い赤紫といったところだろうか。周りの利用者はとても居心地悪そうに時折伊月の方へ困惑の視線を投げかけていた。伊月の吊り上がった目と固く結ばれた唇、そして短く切り揃えられた髪型は、それだけで見る人に威圧感を与えてしまうのだ。不機嫌なのが目に見えて分かる今、ちょっとした舌打ちに恐怖を感じる人も少なくないようだった。周囲の人たちはもちろんのこと、苛立つ伊月本人も現状の展望が開けることを望んでいた。
それからしばらく時間は経過する。いよいよ苛立ちが沸点に達した伊月が音を立てて椅子から立ち上がった時だった。春風が梅の甘い香りを入り口から運んできた。この春新たに発売され始めたシャンプーの香りである。そして伊月を待たせている張本人である千草お気に入りの香り。甘酸っぱいその香りに視線を動かし、入り口を見た伊月は溜め息をひとつ吐くと穏やかな声でそこに立つ人物に声をかけた。長い黒髪に向日葵の様な笑顔。脳天気な小悪魔は手を振りながら伊月へと近づいてきていた。
「……遅いよ、千草」
苦笑を浮かべて、千草に歩み寄る。ついさっきまで感じていた増大な苛立ちは、まるであったことを忘れてしまったみたいに席に置き忘れたままにして。顔の前で手をあわせる千草が、伊月にはかけがえのない友人なのだ。いつも振り回されてばかりだと思いながらも、この能天気な友人が今日はどんな事を話してくれるのか、伊月はすでに楽しみに胸を躍らせていた。




