全部終わったあとで
医師から、数日の安静を言い渡された。
俺はその指示を、一字一句違えず守った。おそらく、医師が想定した以上に。
エリシアが起き上がろうとすれば背に枕を入れ、湯を飲もうとすれば先に温度を確かめた。侍女に任せれば済むことまで手を出す俺を、本人は何度か不思議そうに見たが、止めはしなかった。それだけで気分がよかった。
父が菓子の箱を抱えて現れたのは、目を覚ました翌日の午後だった。
「ヴァレリウス。エリシアに、これを」
「まず医師に見せてください」
「甘いものは元気が出る」
「父上の選ぶ菓子は、今のエリシアには重いものが多い」
「お前は私を、孫に毒を盛る祖父か何かだと思っているのか」
「孫ではなく、私の婚約者です」
「同じことだ」
同じではない。だが父は、もうエリシアを完全に身内の娘として扱っている。隙あらば甘やかし、隙あらば胃に悪いものを食べさせようとする。猫可愛がりにも限度というものがあるべきだった。
「許可が出たものなら、俺から渡します」
「容赦がないな、お前は」
「エリシアの体のためです」
父は、しばらく菓子の箱と俺を見比べたあと、諦めたように侍女へ箱を渡した。その中から医師が選んだ軽い焼き菓子を半分だけ食べて、エリシアは「おいしいです」と笑った。
父がその場にいなかったのは、少し気の毒だった。俺はいた。
テオドールは毎日、姉の様子を見に来た。医師に長居を止められると、俺よりよほど素直に従ったが、部屋を出る前には決まってこちらを見た。
「義兄様。僕は弟ですが」
「分かっている」
「でしたら、姉様と二人で話す時間もいただけませんか」
「俺がいて困る話なのか」
「そういうところです」
返す言葉がなかった。
*
エリシアの容態が落ち着いてきた頃。
ある夜、俺はテオドールの泊まる客室を訪ねた。
ずっと、訊かずにいたことがあった。あの王城の密談の夜、王が俺に三分を約束し、そして——テオドールが、あまりにも多くを知りすぎていたこと。聖域の結界の書き換え方も。花の壁の転移先も。プリズマ・ポルタの使い方も。
あの夜、「全部終わったあとで、聞かせてくれ」と、俺は言った。
——今が、その時だった。
テオドールは、寝衣の上に上着を羽織って、椅子を勧めてくれた。そして自ら茶を入れ始める。十三歳の子供が淹れる茶にしては、丁寧だった。だが、カップを置く指は少しだけ強張っている。
「お前と、王のことだ」
テオドールの指が、一瞬、止まった。
「初冬のことでした」
それだけで、話の輪郭は見えた。
俺にエリシアの魔核の悪化を告げる少し前。テオドールは、半身のように繋がった感覚で、姉の綱渡りが崩れる方へ傾き始めたことを知ったのだという。
「猶予がないと思いました。だから、国の書庫へ入りました」
淡々と言った。十三歳の子供が口にするには、あまりに静かな犯罪だった。
「そこで、王に見つかったのか」
「はい。禁書庫の奥で」
その奥へ、なぜテオドールが入れたのか。
喉元まで出かけた問いを、俺は飲み込んだ。王家の血筋だけが越えられるはずの場所。可能性のある線はいくつか見えるがはっきりとしない。だが、その結び目を今ほどくには、この子の顔があまりに疲れていた。
「王は、処罰しなかったんだな」
テオドールは、小さく頷いた。
「姉の容態を言い当てて、必要な書を渡してくださいました。代わりに、僕は王の期限付きの影になりました。姉様の様子を、報告するために」
臨時の影。
王直属の、非公式の目。
それが、あの「可愛い弟」のもう一つの顔だったのだ。俺すら知らなかった、裏の裏。
「それで、命の写しまで願い出たのか」
「はい」
「断られましたが」
テオドールは、そこでほんの少しだけ、子供の顔をした。
「でも、王は『余が何とかする』と仰いました」
三分。
あの夜、王が俺に渡した三分。封鎖令を遅らせ、城門を遅らせ、危うい橋を渡って差し出した、たった三分。あれは、突然の温情ではなかった。ずっと前からこの弟を通して、王はエリシアを見守っていた。
そして、十三歳の子供にだけ背負わせるには重すぎるものを、黙って半分持っていた。
テオドールが、茶のカップを両手で包んだ。
「今になって思うんです」
報告の口調が、そこでほどけた。
「王は、ずっと——僕の心の支えに、なってくれていたんだと」
俺は黙って聞いた。
「僕は、自分の魔核の制御に、姉様をかかりきりにさせました。姉様は僕のために、令嬢としての普通の日々を、たくさん失った。そんな姉様の状態が、僕には分かってしまう。知りたくなくても、分かってしまうんです」
声が、震えた。
「怖かった。姉様の前では、平気な顔をしていなければと思っていました。——その、誰にも言えない心の奥の叫びを」
テオドールが、目を伏せた。
「王は、何も訊かないまま、分かってくださっていたように思うんです。報告を聞きながら、ただ、受け止めてくださった。——あの方は、本当に女神の血筋なのだと、僕は思いました」
部屋が静かだった。
俺は、すべてを理解したわけではなかった。
禁書庫の奥へ入れた理由も、王がどこまで知っていたのかも、この弟がどれだけ危ない橋を渡ってきたのかも、まだ見えない。
けれど、一つだけ分かった。
この子はたった一人で、姉の命と、自分の罪悪感と、知りすぎる怖さを抱え続けてきた。十三歳が。そして、その重さを唯一受け止めたのが、建前と鎖に縛られた、この国でいちばん優しい王だった。
「……そうか」
俺に言えたのは、それだけだった。
けれどテオドールは、それで充分だという顔をした。
「義兄様にだけ、話しました」
「ああ」
「王への義理と、義兄様への信頼が——両方揃ったので」
俺は、この子の頭に、手を置いた。エリシアが、いつもそうするように。
テオドールは、振り払わなかった。
「よく、持ちこたえたな」
そう言うと、テオドールの睫毛が、小さく震えた。
泣きはしなかった。けれど、その顔は少しだけ、十三歳に戻っていた。




