ヴァルと呼ぶ声
それから数日が過ぎた。
エリシアの体は目に見えて回復し、医師から短い外出の許可も出た。俺は本人より先に喜んで、レリクトゥム・アステリアを訪ねる予定を立てた。エリシアが行きたがったのだ。ヴォイドの周辺が今、アステリアの花の群生地になっていると伝えたら、目を輝かせた。過去の恐怖より好奇心が勝るらしい。とてもエリシアらしかった。
即座に自らの視察をねじ込み、小さな茶会を設定した。
浮かれ過ぎなのは分かっている。
救えたら、もう少し落ち着けると思っていた。
でも違った。
生きている。息をしている。名前を呼べば、こちらを向く。その一つ一つが嬉しくて、今度は一日中そばにいたくなった。自覚はある。みっともないほどに。
その日、テオドールが、姉の部屋の前で俺を待ち構えていた。
灰色がかったアメジストの目が、静かに据わっている。
「義兄様」
「なんだ」
「今日は、姉様と二人で話してもよろしいですか」
「俺もいては駄目なのか」
「駄目ではありませんが、二人で話したいんです」
断る理由はもう思いつかなかった。分かっている。それでも、返事までに一拍かかった。
「……分かった。俺は外にいる」
「ご自分の部屋で休んでいてくださっても構いませんよ」
「ここにいる」
テオドールが、深い溜息をついた。父とよく似た仕草だった。
「姉様は、もう大丈夫です」
「分かっている。ただ、今は離れたくない」
口にしてしまえば、驚くほど簡単な理由だった。
テオドールはしばらく俺を見つめたあと、呆れたように、けれど少しだけ笑った。
「これほど浮かれている義兄様は、初めて見ました」
「俺も初めてだ」
否定する気にもなれなかった。
「明日は三人でレリクトゥムへ行こう。医師の許可も出た。お前の茶を淹れてくれ」
「姉様のお茶なら、喜んで」
そう答えて、テオドールは扉を開けた。俺は約束どおり廊下に残った。
離れていたくないからこそ、二人の時間まで奪いたくはなかった。時折、姉弟の穏やかな笑い声が扉越しにこぼれ、そのたびに頬が緩むのを止められなかった。
*
しばらくしてテオドールと入れ替わりに、俺はエリシアの部屋の扉を開けた。
彼女は、窓辺の椅子に座って、庭を眺めていた。朝の光が淡い色の髪を透かしている。俺の気配に気づいて振り向いた。
その目が穏やかだった。
魔核移譲の夜から、長く目の奥に沈んでいた光が、静かに戻っている。その目で、エリシアは俺を見つめ、名を呼んだ。
「ヴァレリウス」
俺は、足を止めた。
何度も呼ばれてきた名前なのに、そのたびに、もう一つの短い響きを思い出すようになっていた。
気を失う間際、俺の名を呼ぼうとして途中で途切れただけだとは分かっている。
それでも。
あの一音は、あまりに甘かった。
ヴァル。
守るだけで満足だと自分に言い聞かせていた男が、たった一音に、ずいぶん単純に浮かれている。
俺は椅子のそばへ歩き、片膝を折って彼女と目線を合わせた。
「エリシア。お願いがある」
「お願い、ですか」
「あの淵で、エリシアが俺の名を呼ぶ声が、途中で切れたんだ。『ヴァル』と聞こえた」
エリシアは小さく首を傾げた。
「……記憶に、ありません」
「そうだね」
「愛称として呼んだわけではないことも分かっている。俺の名前が、そこで途切れただけだ」
正直に言うと、彼女はますます不思議そうな顔をした。当然だった。
「それでも、嬉しかった」
これほど言いにくい願いになるとは思わなかった。命を懸ける術の前でさえ迷わなかった俺が、たった一つの愛称をねだるだけで、ひどく頼りなくなる。
「二人の時だけ、そう呼んでほしい」
エリシアは一度瞬いて、俺を見つめた。
「……それが、お願いですか」
「そう。かなり真剣な」
少しの沈黙のあと、彼女の頬に淡い赤みが差した。
「あなたが嬉しいなら」
そう言って、エリシアはまっすぐに俺を見た。
「——ヴァル」
その短い響きが、胸のいちばん深いところへ、まっすぐ落ちた。
胸の奥で何かが一気に浮き上がって、返事をすることさえ忘れた。
「……ヴァル?」
「もう一度」
「今、二度呼びました」
「聞いた。もう一度聞きたい」
我ながら、少しも格好がつかなかった。けれどエリシアは困ったように瞬いたあと、もう一度唇を開いた。
「ヴァル」
今度こそ、「うん」と答えた。こらえようとして、無駄だった。笑いがそのまま声になってこぼれた。
皮肉でも、牽制でも、恐怖を隠すためでもない。ただ嬉しくて笑うことを、俺の身体はまだ覚えていた。
「抱きしめても?」
エリシアの頬が、もう一段赤くなった。
「……はい。ヴァル」
その返事で、また笑ってしまった。
そっと抱き寄せると、エリシアの手がためらいがちに俺の背へ触れた。腕の中で、彼女の体温が確かに脈打っている。初冬から追いかけ続けた熱が、今は自分の意志で、ここにいてくれる。
朝の光が窓から差し込み、俺の白銀の髪を割って、エリシアの白い頬に小さな虹を落とした。
苦みの引いた世界は、こんなにも静かで、甘かった。
もう、奪われるかもしれないという怖さに耐えながら抱くのではない。ただ彼女がここにいることが嬉しくて、もう少し触れていたかった。
たぶん、当分まともな顔には戻れない。
それでよかった。
俺は笑ったまま、帰ってきた彼女を抱いていた。
これで本編は完結です。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
エリシアとヴァレリウス、二つの視点で同じ日々を辿る物語は、これで一区切りとなります。彼が何を隠し、なぜいつもそこにいたのか——最後まで見届けてくださったこと、心から感謝します。
明日からは外伝を、引き続き毎日更新でお届けします。
・枢機卿のその後
・ヴァレリウスの企みを、弟テオドールが見ていた日のこと
・そして、テオドール側から見た七年間
本編では書けなかった、彼らのもう一つの物語です。よろしければ、もう少しだけお付き合いください。




