祈りの形
枢機卿のその後の話です
祈りの部屋には、香の匂いだけが残っていた。
白い天蓋が頭上に広がっている。厚い絨毯が石の床を覆い、棚には聖遺物の小像が整然と並んでいる。花台には白百合が活けられ、細い窓からは初冬の淡い光が差し込んでいた。
牢には見えない部屋だった。
そう見えないように整えさせたのは、ほかならぬこの部屋の住人自身である。
イグナティウスは、窓辺の椅子に浅く腰かけて、組んだ自分の手を見下ろしていた。
手は、組める。
六十年、息をするように組んできた手だ。指の重ね方も、頭の垂れ方も、体が覚えている。祈祷の言葉なら、目を閉じたまま夜明けまで唱え続けることもできる。
けれど、言葉が出ないのだった。
口を開くたび、問いが立ちはだかる。誰に向かって。何の資格で。何を分かったつもりで、お前は祈るのか、と。
だから彼は毎朝、手を組み、頭を垂れ、そして一言も発せぬまま、手をほどく。
その繰り返しの中で、初雪の季節が来ていた。
*
扉が、静かに叩かれた。
世話役の神官が食事を運ぶ刻限ではなかった。イグナティウスが顔を上げるより早く、扉は開いた。
入ってきた人物を見て、老人は椅子から崩れるように床へ降りようとした。
「よせ」
低い声が、それを止めた。
「病人が、床に膝をつくな」
アルベリック・ド・ルミナリス。この国の王が、供も連れず、飾りのない外套のまま、そこに立っていた。白の混じる金の髪に、タンザナイトの瞳。廊下に衛兵の気配はない。人払いは済んでいるのだろう。
「陛下……」
「見舞いだ」
王は短く言って、卓を挟んだ向かいの椅子に、当たり前のように腰を下ろした。
イグナティウスは、中途半端に浮かせた腰を椅子に戻した。戻しながら、自分の手が小さく震えているのに気づいた。
この方と最後に二人きりで話したのは、いつだったか。
長い年月、彼らは同じ建前を二人で担いできた。国と神殿という、六百年ものの建前を。表では王と枢機卿として型通りの言葉を交わし、裏では帳簿を突き合わせるように、この国の実態を確かめ合ってきた。
その帳簿を、めちゃくちゃにしたのは自分だった。
「……陛下」
イグナティウスは、深く頭を下げた。
「なぜ、わたくしは生きているのでしょう」
*
王は、すぐには答えなかった。
卓の上には、世話役が置いていった茶器が伏せてあった。王はそれを手に取ると、自ら壺を傾けて茶を注ぎ、老人の前へ置いた。
「痩せたな」
答えの代わりに、そう言った。
「食っておらんだろう。世話役から報告が来ておる。膳が、ほとんど手つかずで戻ると」
「……申し訳、ございません」
「余に詫びることではない。お前の体のことだ」
王は自分の茶も注いだ。それから、ようやく本題に入った。
「なぜ生きているか、と聞いたな」
「はい」
「知れたことだ。死なせるわけにいかんからだ」
王の声は、冷たくはなかった。ただ、王の声だった。
「お前を裁けば、国は神殿を裁くことになる。六百年の建前ごとだ。あの騒動を知る者は、上のごく一部と、お前に感化された信心深い貴族が幾人か。それだけで済んでおる」
「……あの方々は」
「咎めておらん」
王は言い切った。
「彼らは信仰ゆえに動いた。国のため、敬愛する女神のためと、本気で信じておった。罰する理由が、余にはない」
イグナティウスの喉が、小さく動いた。
「彼らには、女神は再び降臨なされ、世界は完全に救われた、と伝えてある。現にあの娘は健やかに生きておるし、国土には花が咲いた。疑う者は一人もおらん。……めでたし、めでたしだ」
めでたし、めでたし。
王はその言葉を、少しも楽しそうでなく言った。
「お前は病だ。長の療養が要る。国の帳面には、そう書いてある。枢機卿の座は、時が来れば静かに次へ移る。それで、この件は終わる」
「…………」
「不服か」
イグナティウスは、膝の上で手を握りしめた。
その手の甲に、老いた血管が浮いている。この手が、あの娘を祭壇へ導いた。この口が、昇華こそ至高の聖業と説いた。この足が、あの子をヴォイドの縁まで運ばせた。
「陛下は」
声が、掠れた。
「わたくしから、罪まで、お取り上げになるのですか」
*
王は、茶を一口含んだ。
それから、老人の目を真っ直ぐに見た。
「取り上げはせん」
静かな声だった。
「帳面から消すだけだ。お前の内から消してやることは、余にもできん。……誰にもできん」
「では、わたくしは、どうすれば」
「持って生きろ」
王は言った。
「誰にも渡さず、一人でだ。死んで軽くなろうなどと思うな。それは持つのをやめて、放り出すことだ」
イグナティウスは、目を伏せた。
見抜かれている、と思った。療養の名を与えられたこの部屋で、彼が幾度、いっそ、と考えたか。裁かれもせず、詫びる先も持たされず、ただ生かされている身の置きどころのなさに、幾度、楽な出口を数えたか。
「……この部屋を」
老人は、部屋をゆっくりと見回した。白い天蓋を。棚の小像を。花台の百合を。
「わたくしは、存じております。この調度を選ばせたのは、わたくしでございますから。……わたくしが、あの娘御を入れた部屋でございます」
「知っておる」
王は言った。
「だから、選んだ」
イグナティウスは、しばらく黙っていた。
それから、深く息を吐いた。吐いた息が、笑いに似たかたちに崩れた。
「……良い部屋を、賜りました」
「牢に見えぬよう整えた、と言ったな。あの娘もそう思ったかどうかは、知らんがな」
王の言葉は、容赦がなかった。容赦がないのに、突き放してはいなかった。イグナティウスには、その違いが分かった。この方は昔から、そういう叱り方をなさる。
*
沈黙が、しばらく部屋に満ちた。
香の残り香と、初冬の光の中で、老人はやがて、ぽつりぽつりと話し始めた。それは告解に似ていたが、聞いているのは神ではなく、王だった。
「陛下。……わたくしは、今も、女神様をお慕いしております」
「知っておる」
「あの日、砕けたのは、信仰ではございませんでした」
イグナティウスは、自分の両手を見下ろした。
「砕けたのは……わたくしが、御心を正しく分かっている、という確信でございました」
六十年、その確信の上に立ってきた。
純粋な器でなければならぬ、という定義の上に。人が神の世へ還ることは神聖である、という解釈の上に。自分こそ女神の代理人である、という——今にして思えば、あまりに高い、あまりに脆い、足場の上に。
「あの朝、偽物の器が世界を救いました。わたくしが不純と呼んだはずのもの……人間の、執着が。わたくしが定義した神聖の、外側から」
「うむ」
「そして世界は、それを、受け取りました」
言葉にすると、あの朝の光景がよみがえる。穴に消えていく結晶の輝きと、国土を覆って咲いた曼荼羅の花と、その真ん中で、器ではなくただの娘として男の腕に抱かれていた、あの子の寝顔が。
「神聖と不純を分ける線が、あの朝、わたくしの中から消えました。……線が消えても、陛下、愛だけは残るのでございますよ。これは、わたくしにも驚きでした」
「…………」
「祈ろうといたしました。毎朝、毎晩。手は組めるのです。言葉も覚えております。けれど」
老人の声が、初めて揺れた。
「祈りの形が……どこにも、見つからないのです。六十年、息をするように祈ってきた、このわたくしが、でございますよ」




