愛し方を間違える
王は、口を挟まなかった。
老人の言葉が尽きるまで待ち、それからさらに少し待って、ようやく口を開いた。
「イグナティウス」
「はい」
「余とお前だけが知っておることを、確かめるぞ」
王の声が、一段、低くなった。この部屋の外では決して発せられない種類の声だった。
「あの方が……女神アステリアが、六百年、たった独りで何をしてこられたか」
「……存じております」
「己を裂いて、世界を抱いてこられた。破れ続ける被膜を、己の身で繋ぎ続けてこられた。そして」
王は、そこで一度、言葉を切った。
「そのことを、誰にも告げなかった」
イグナティウスは、顔を上げた。
「なぜ告げなかったと思う」
「それは……人の身には、担いようのない真実ゆえ……」
「教義の答えだな」
王は静かに遮った。
「余は、こう思うことにした。——誰にも、代わってほしくなかったからだ」
老人の目が、見開かれた。
「考えてもみよ。代わりが欲しければ、告げればよい。器を寄越せと、一言遺せばよい。あの方はそれをなさらず、六百年、黙って独りで痛みを抱えられた。……それは、求めておられなかったということではないのか。誰かが、自分の代わりに裂かれることを」
「…………」
「求められていたかどうかも分からぬものを、お前は御心だと定めて差し出そうとした」
王の言葉は、刃のように正確に、老人のいちばん深いところへ届いた。
「それがお前の罪の、いちばん深いところだと、余は思う」
イグナティウスは、動けなかった。
反論は、浮かばなかった。浮かばないことが、答えだった。彼は六百年分の記録を誰より読み込み、誰より女神を知っているつもりで、その沈黙の意味だけを、読み違えていた。
「……だがな」
王の声が、ふいに、わずかに緩んだ。
「その間違え方を、余は、知らんではない」
「陛下……」
「あれほどのものを本気で愛せば、人は、愛し方を間違える。……この国で近ごろ、それを証した若造を、余は一人知っておるしな」
それが誰のことか、イグナティウスにも分かった。
エゴと執着で偽物の器を作り上げ、神聖な昇華の祭壇から花嫁を奪い去っていった、あの青年のことだ。
「あの若造の間違え方は、最後の最後で、人を生かす方角を向いておった。お前の間違え方は、逆を向いておった。……その差は、天と地ほどもある。あるが」
王は、老人から目を逸らさなかった。
「愛したこと自体を、間違いだったと言うてやることは、余にはできん」
*
イグナティウスの目に、ゆっくりと水の膜が張っていくのを、王は見ていた。
老人は泣くまいとしていた。泣く資格がない、と思っているのが見て取れた。だから王は、そこには触れず、外套の内から布に包んだものを取り出した。
包みを解くと、淡い紫の花が現れた。
つるの先に開いた、大ぶりの一輪だった。中心から無数の細い糸が冠のようにひろがり、そのまわりを花弁がゆるやかに囲んでいる。糸の奥では、三本の弦が、しずかに絡み合っていた。
混じりけのない、アメジストの花色だった。
「……アステリアの、花」
イグナティウスの声が、掠れた。
三弦花の中でも、三色の完全に交わる地にしか咲かない、最も神聖な色。祭壇画に描かれ、祭具に彫られ、六十年仕えて幾度も目にしてきたはずの色だった。それなのに、今は、初めて見る花のように思えた。
「どこで、これを……」
「レリクトゥムだ」
王は、事もなげに言った。
「余も、初めて行った。……祈りにな」
イグナティウスは、言葉を失った。この方が、自ら、あの廃墟へ。
王は、それ以上の説明をせず、花を花台の百合のかたわらに、無造作に置いた。
「受難の花。犠牲の象徴。……お前たち神殿が六百年、そう教えてきた花だ。祭壇に描き、庭に植え、あの方の痛みの徴として崇めてきた」
「はい」
「その花がな、イグナティウス」
王は、窓の外の冬の光へ目をやった。
「犠牲が、やめになった朝に咲いた。国じゅうでだ。光の花が、地脈に沿うて、野にも、空にもだ。誰も捧げられなかった朝に、受難の花が、国と空を埋めて咲きおった」
「……はい」
「そして今は、本物が咲いておる」
王は、卓上の一輪へ目を戻した。
「よりにもよって、あの淵のあとにだ。あの方が六百年、独りで痛んでこられた場所に、いちばん神聖な色の花が、この冬空の下で、季節も何も構わずに群れておった」
イグナティウスは、そのアメジストの花を見つめた。
あの朝、彼も見た。定義を失って立ち尽くす、その頭上いっぱいに、光の花が空を埋めて咲いていくのを。あのときは、意味を考える力すら残っていなかった。
「余には教義は分からん。だが、あれを見て思ったよ。……ああ、あの方は、こういうことがお望みだったのだと」
そこで王は、ふっと首を振った。
「いや。これも、余の勝手な読みにすぎんな。御心など、余にも分からん。分からんことにした。分からんまま、綺麗だと思うことにした。分からんまま……あの淵のあとで、手を合わせてきた」
王は、老人へ視線を戻した。
「イグナティウス。祈りとは、そもそも、そういうものではないのか」




