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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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愛し方を間違える

王は、口を挟まなかった。

老人の言葉が尽きるまで待ち、それからさらに少し待って、ようやく口を開いた。


「イグナティウス」


「はい」


「余とお前だけが知っておることを、確かめるぞ」


王の声が、一段、低くなった。この部屋の外では決して発せられない種類の声だった。


「あの方が……女神アステリアが、六百年、たった独りで何をしてこられたか」


「……存じております」


「己を裂いて、世界を抱いてこられた。破れ続ける被膜を、己の身で繋ぎ続けてこられた。そして」


王は、そこで一度、言葉を切った。


「そのことを、誰にも告げなかった」


イグナティウスは、顔を上げた。


「なぜ告げなかったと思う」


「それは……人の身には、担いようのない真実ゆえ……」


「教義の答えだな」


王は静かに遮った。


「余は、こう思うことにした。——誰にも、代わってほしくなかったからだ」


老人の目が、見開かれた。


「考えてもみよ。代わりが欲しければ、告げればよい。器を寄越せと、一言遺せばよい。あの方はそれをなさらず、六百年、黙って独りで痛みを抱えられた。……それは、求めておられなかったということではないのか。誰かが、自分の代わりに裂かれることを」


「…………」


「求められていたかどうかも分からぬものを、お前は御心だと定めて差し出そうとした」


王の言葉は、刃のように正確に、老人のいちばん深いところへ届いた。


「それがお前の罪の、いちばん深いところだと、余は思う」


イグナティウスは、動けなかった。


反論は、浮かばなかった。浮かばないことが、答えだった。彼は六百年分の記録を誰より読み込み、誰より女神を知っているつもりで、その沈黙の意味だけを、読み違えていた。


「……だがな」


王の声が、ふいに、わずかに緩んだ。


「その間違え方を、余は、知らんではない」


「陛下……」


「あれほどのものを本気で愛せば、人は、愛し方を間違える。……この国で近ごろ、それを証した若造を、余は一人知っておるしな」


それが誰のことか、イグナティウスにも分かった。


エゴと執着で偽物の器を作り上げ、神聖な昇華の祭壇から花嫁を奪い去っていった、あの青年のことだ。


「あの若造の間違え方は、最後の最後で、人を生かす方角を向いておった。お前の間違え方は、逆を向いておった。……その差は、天と地ほどもある。あるが」


王は、老人から目を逸らさなかった。


「愛したこと自体を、間違いだったと言うてやることは、余にはできん」


    *


イグナティウスの目に、ゆっくりと水の膜が張っていくのを、王は見ていた。

老人は泣くまいとしていた。泣く資格がない、と思っているのが見て取れた。だから王は、そこには触れず、外套の内から布に包んだものを取り出した。


包みを解くと、淡い紫の花が現れた。


つるの先に開いた、大ぶりの一輪だった。中心から無数の細い糸が冠のようにひろがり、そのまわりを花弁がゆるやかに囲んでいる。糸の奥では、三本の弦が、しずかに絡み合っていた。


混じりけのない、アメジストの花色だった。


「……アステリアの、花」


イグナティウスの声が、掠れた。


三弦花(さんげんか)の中でも、三色の完全に交わる地にしか咲かない、最も神聖な色。祭壇画に描かれ、祭具に彫られ、六十年仕えて幾度も目にしてきたはずの色だった。それなのに、今は、初めて見る花のように思えた。


「どこで、これを……」


「レリクトゥムだ」


王は、事もなげに言った。


「余も、初めて行った。……祈りにな」


イグナティウスは、言葉を失った。この方が、自ら、あの廃墟へ。


王は、それ以上の説明をせず、花を花台の百合のかたわらに、無造作に置いた。


「受難の花。犠牲の象徴。……お前たち神殿が六百年、そう教えてきた花だ。祭壇に描き、庭に植え、あの方の痛みの徴として崇めてきた」


「はい」


「その花がな、イグナティウス」


王は、窓の外の冬の光へ目をやった。


「犠牲が、やめになった朝に咲いた。国じゅうでだ。光の花が、地脈に沿うて、野にも、空にもだ。誰も捧げられなかった朝に、受難の花が、国と空を埋めて咲きおった」


「……はい」


「そして今は、本物が咲いておる」


王は、卓上の一輪へ目を戻した。


「よりにもよって、あの淵のあとにだ。あの方が六百年、独りで痛んでこられた場所に、いちばん神聖な色の花が、この冬空の下で、季節も何も構わずに群れておった」


イグナティウスは、そのアメジストの花を見つめた。

あの朝、彼も見た。定義を失って立ち尽くす、その頭上いっぱいに、光の花が空を埋めて咲いていくのを。あのときは、意味を考える力すら残っていなかった。


「余には教義は分からん。だが、あれを見て思ったよ。……ああ、あの方は、こういうことがお望みだったのだと」


そこで王は、ふっと首を振った。


「いや。これも、余の勝手な読みにすぎんな。御心など、余にも分からん。分からんことにした。分からんまま、綺麗だと思うことにした。分からんまま……あの淵のあとで、手を合わせてきた」


王は、老人へ視線を戻した。


「イグナティウス。祈りとは、そもそも、そういうものではないのか」

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