分からないまま、手を合わせる
老人の中で、何かが、静かに崩れた。
それは、あの朝の崩れ方とは違っていた。あの朝は、足場が砕けて、立つ場所を失った。今は——固く強張っていたものが、ほどけて、地面に降りたのだった。
分からないまま、手を合わせる。
そんな祈りを、自分は、ただの一度でも捧げたことがあっただろうか。
彼の祈りは、いつも報告だった。御心はかくの如し、と。わたくしは正しく分かっております、と。確かめもせず、問いもせず、六十年、女神に向かって女神の意志を告げ続けてきた。
あれは、祈りの形をした、傲慢だった。
「……わたくしは」
声が、震えた。
「ただの一度も、祈ったことが、なかったのかもしれません」
「これから覚えればよい」
王の返事は、あっけないほど簡単だった。
「幸い、時間だけはたっぷりある。……そういう沙汰だからな、これは」
イグナティウスは、その言葉の意味を、ゆっくりと理解した。
この部屋で、生涯、祈って生きよ。裁きの形を取らない、それが裁きだった。赦しの形を取らない、それが慈悲だった。帳面の上では病人として、真実は誰にも渡さず、届く当てのない祈りだけを毎日組み立てて、持って、生きよ。
「……謹んで、お受けいたします」
老人は、深く、深く頭を下げた。
それから、下げた頭のまま、絞り出すように問うた。これだけは問わずにいられなかった。
「陛下。……あの器は——」
言いかけて、老人は長く黙った。
そして、言い直した。
「……あの、娘御は。息災で、おいででしょうか」
王は、その言い直しを、聞き逃さなかった。聞き逃さなかったが、何も言わなかった。ただ、答えだけを与えた。
「息災だ。よく食べ、よく眠り、よく笑っておると聞く」
「……そう、ですか」
「それ以上を、お前が知る必要はない」
「はい」
「詫びたいか」
イグナティウスは、頭を下げたまま、頷いた。
「ならん」
王の声は、きっぱりとしていた。
「お前の詫びは、お前を軽くするためのものだ。あの娘たちの傷を軽くするものではない。顔を見せることも、名を出すことも、生涯ならん」
「……はい」
「詫びたければ、誰にも聞こえぬところで、詫び続けよ。届けるな。……それが持つ、ということだ」
*
王は、立ち上がった。
立ち上がって、しかしすぐには出て行かず、卓の上の手つかずの膳へ目を落とした。
「食え」
と、王は言った。
「祈るにも、体力が要るぞ。膳を残すたび、世話役から余に報告が来る。次に痩せておったら、余が匙を持って来ることになるが、それは互いに嫌だろう」
イグナティウスは、思わず、小さく笑ってしまった。
笑ってから、自分がまだ笑えることに、驚いた。
「……陛下は、昔から、お変わりになりませんな。その、世話の焼き方は」
「黙れ。……では、な」
王は扉へ向かった。その背に、老人は最後の問いを投げた。
「陛下。なぜ、直々においでくださいました。文でも、使いでも、済みましたでしょうに」
王は、扉の前で立ち止まった。
振り返らずに、少しの間、黙っていた。
「見舞いだと、言ったろう」
それだけ言って、あとは付け足した。
「……長い付き合いだ。それ以上を言わせるな」
扉が、静かに閉じた。
*
一人に戻った部屋で、イグナティウスは、長いこと動かなかった。
やがて、ゆっくりと立ち上がり、花台の前へ歩いた。
白百合のかたわらに、アメジストの花が置かれている。祭壇画の中で六百年崇められてきた、まさにその色の花が、あの淵のあとに咲いていたという、生きた姿のままで。
女神の瞳の色と、伝えられてきた色だった。それから——あの娘御の瞳も、確か、この色をしていた。
老人は、その花の前に、膝をついた。
聖遺物の棚にではなく、小像にでもなく、あの方がいちばん長く痛まれた場所から届いた一輪に向かって、六十年祈り続けてきた男が、初めて、何も分からないまま手を組んだ。
言葉は、なかなか出てこなかった。
覚えている祈祷文は、どれも違う気がした。定義も、解釈も、確信も、もう手の中にない。あるのは、愛だけだった。線が消えても残った、それだけだった。
長い長い沈黙の果てに、最初に転がり出たのは、祈祷文ではなかった。
「……ようございました」
それだけだった。
あなた様が、救われて。ようございました。
六百年、独りで痛んでこられたあなた様が、もう痛まなくてよいのだと。それを成したのが、わたくしの信じた神聖ではなく、わたくしの呼んだ不純のほうだったのだと。それでも、ようございましたと、心の底から思えるのだと。
分からないことだらけの中で、それだけが、確かだった。
組んだ手の上に、涙が落ちた。
一粒落ちると、あとは止まらなかった。老人は声を殺して、長いこと泣いた。祈りの形は、まだ見つからない。けれどその泣き声は、彼が生涯で捧げたどの祈祷よりも、祈りに似ていた。
細い窓の外で、初雪が舞い始めていた。
*
聖域の奥の、牢には見えない部屋で、いまも毎朝、毎晩、誰にも届かない祈りが捧げられている。
それを知る者は、この国に、ただ一人しかいない。
そしてその一人は、時折、思い出したように、アメジストの花を届けさせるのである。




