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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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分からないまま、手を合わせる

老人の中で、何かが、静かに崩れた。


それは、あの朝の崩れ方とは違っていた。あの朝は、足場が砕けて、立つ場所を失った。今は——固く強張っていたものが、ほどけて、地面に降りたのだった。


分からないまま、手を合わせる。


そんな祈りを、自分は、ただの一度でも捧げたことがあっただろうか。

彼の祈りは、いつも報告だった。御心はかくの如し、と。わたくしは正しく分かっております、と。確かめもせず、問いもせず、六十年、女神に向かって女神の意志を告げ続けてきた。


あれは、祈りの形をした、傲慢だった。


「……わたくしは」


声が、震えた。


「ただの一度も、祈ったことが、なかったのかもしれません」


「これから覚えればよい」


王の返事は、あっけないほど簡単だった。


「幸い、時間だけはたっぷりある。……そういう沙汰だからな、これは」


イグナティウスは、その言葉の意味を、ゆっくりと理解した。

この部屋で、生涯、祈って生きよ。裁きの形を取らない、それが裁きだった。赦しの形を取らない、それが慈悲だった。帳面の上では病人として、真実は誰にも渡さず、届く当てのない祈りだけを毎日組み立てて、持って、生きよ。


「……謹んで、お受けいたします」


老人は、深く、深く頭を下げた。

それから、下げた頭のまま、絞り出すように問うた。これだけは問わずにいられなかった。


「陛下。……あの器は——」


言いかけて、老人は長く黙った。


そして、言い直した。


「……あの、娘御は。息災で、おいででしょうか」


王は、その言い直しを、聞き逃さなかった。聞き逃さなかったが、何も言わなかった。ただ、答えだけを与えた。


「息災だ。よく食べ、よく眠り、よく笑っておると聞く」


「……そう、ですか」


「それ以上を、お前が知る必要はない」


「はい」


「詫びたいか」


イグナティウスは、頭を下げたまま、頷いた。


「ならん」


王の声は、きっぱりとしていた。


「お前の詫びは、お前を軽くするためのものだ。あの娘たちの傷を軽くするものではない。顔を見せることも、名を出すことも、生涯ならん」


「……はい」


「詫びたければ、誰にも聞こえぬところで、詫び続けよ。届けるな。……それが持つ、ということだ」


    *


王は、立ち上がった。

立ち上がって、しかしすぐには出て行かず、卓の上の手つかずの膳へ目を落とした。


「食え」


と、王は言った。


「祈るにも、体力が要るぞ。膳を残すたび、世話役から余に報告が来る。次に痩せておったら、余が匙を持って来ることになるが、それは互いに嫌だろう」


イグナティウスは、思わず、小さく笑ってしまった。


笑ってから、自分がまだ笑えることに、驚いた。


「……陛下は、昔から、お変わりになりませんな。その、世話の焼き方は」


「黙れ。……では、な」


王は扉へ向かった。その背に、老人は最後の問いを投げた。


「陛下。なぜ、直々においでくださいました。文でも、使いでも、済みましたでしょうに」


王は、扉の前で立ち止まった。


振り返らずに、少しの間、黙っていた。


「見舞いだと、言ったろう」


それだけ言って、あとは付け足した。


「……長い付き合いだ。それ以上を言わせるな」


扉が、静かに閉じた。


    *


一人に戻った部屋で、イグナティウスは、長いこと動かなかった。

やがて、ゆっくりと立ち上がり、花台の前へ歩いた。


白百合のかたわらに、アメジストの花が置かれている。祭壇画の中で六百年崇められてきた、まさにその色の花が、あの淵のあとに咲いていたという、生きた姿のままで。

女神の瞳の色と、伝えられてきた色だった。それから——あの娘御の瞳も、確か、この色をしていた。


老人は、その花の前に、膝をついた。


聖遺物の棚にではなく、小像にでもなく、あの方がいちばん長く痛まれた場所から届いた一輪に向かって、六十年祈り続けてきた男が、初めて、何も分からないまま手を組んだ。


言葉は、なかなか出てこなかった。


覚えている祈祷(きとう)文は、どれも違う気がした。定義も、解釈も、確信も、もう手の中にない。あるのは、愛だけだった。線が消えても残った、それだけだった。


長い長い沈黙の果てに、最初に転がり出たのは、祈祷文ではなかった。


「……ようございました」


それだけだった。


あなた様が、救われて。ようございました。


六百年、独りで痛んでこられたあなた様が、もう痛まなくてよいのだと。それを成したのが、わたくしの信じた神聖ではなく、わたくしの呼んだ不純のほうだったのだと。それでも、ようございましたと、心の底から思えるのだと。


分からないことだらけの中で、それだけが、確かだった。


組んだ手の上に、涙が落ちた。


一粒落ちると、あとは止まらなかった。老人は声を殺して、長いこと泣いた。祈りの形は、まだ見つからない。けれどその泣き声は、彼が生涯で捧げたどの祈祷よりも、祈りに似ていた。


細い窓の外で、初雪が舞い始めていた。


    *


聖域の奥の、牢には見えない部屋で、いまも毎朝、毎晩、誰にも届かない祈りが捧げられている。


それを知る者は、この国に、ただ一人しかいない。


そしてその一人は、時折、思い出したように、アメジストの花を届けさせるのである。

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