初冬のお茶会
ヴァレリウスが祈祷師代理に就任した経緯の話です。
姉の異変に、最初に気づいたのは僕だった。
幼い頃、姉は僕の肥大化した魔核を正常にしてくれた。暴走しかけた僕の核から、大きくなりすぎて抱えきれない分を、自分の領域へ引き受けて。だから僕は今も生きているし、だから僕は、半身のように姉の状態が肌で分かる。
その姉の核の奥で、ほんのわずかな歪みが滲み始めていた。
本人は気づいていない。意識のほとんどを演算に注ぎ、自分の魔核を制御するだけで精一杯の姉は、自分の不調だけはいつも勘定に入れない。他人の痛みにはあれほど敏感なのに、自分の痛みになると、まるで計測対象から外してしまう。
僕は調べた。何度も、人の入らない書庫に忍び込んで。
そうして見つけた。
劣化を止めるには、外から正常な魔核の情報を与え、波長を整えるしかない。頻繁な計測と調整。そして最終的には、粘膜接触。つまり、唇による情報の転写。
僕は義兄様に告げた。
事実だけを、できるだけ淡々と。
そして最後に、こう付け足した。
「……僕がします」
姉の弟として、それが筋だと思ったのだ。
義兄様は、即座に否定した。声を荒げず、考える間も置かず。
「いや」
「俺がやる」
その横顔を見て、僕は理解した。
これは合理ではない。
義兄様は、その役を誰にも譲る気がない。実の弟である僕にさえ。
義兄様の「姉のためなら何でもする」という顔の、もう一枚下に、別の熱がある。僕はこのとき初めて、それに気づいた。
気づいてしまった、と言うべきかもしれない。
忙しい義兄様が、どうやって頻繁な計測を必要とするこの役を担うつもりなのか。そこだけが、釈然としないままだった。
そして、その数日後。
公爵邸の温室で、定期的な婚約者家族のお茶会が始まった。
*
外は、初冬だった。
公爵邸の庭は霜で白み、馬車を降りるあいだに頬が痛むほど冷えていた。けれど、温室の硝子戸をくぐった瞬間、季節がまるごと入れ替わる。室温安定化の術式が隅々まで張り巡らされた常春の温室は、外の寒さが嘘のように暖かく、名も知らない花の匂いで満ちていた。
先に着いたのは四人。父と母、義兄様、そして僕。姉とランドルフ公爵閣下は、少し遅れて来るという。
各自、外套を侍女に預け、卓を囲んで腰を下ろす。湯気の立つカップに、めいめいが一口、口をつけた。
「ここは、外とは大違いですな」
父が、ほっと息を吐いた。
「外套姿では、少し暑いくらいだ」
父、クレメンス・フォン・アルスタは、温厚で無欲な人だった。銀髪銀目。ふわふわと癖の強い銀の髪と、くりくりとした銀の瞳は、光の加減で淡い菫色を帯びる。今年五十歳のはずだが二十代に間違えられる童顔。我が家の伯爵でありながら、領地の経営は家令に任せきりで、頭の中はいつも術式で埋まっている。
研究ばかりしている人。
悪い人ではない。むしろ、優しすぎる人だ。
ただ、一つだけ、致命的な癖がある。
可能性を感じると、止まらない。
「もう外は、すっかり寒い季節ですからね」
義兄様が、穏やかに応じた。
「外套といえば、初夏に聖職者の聖衣姿を見かけました。あれは、大変そうでしたね」
僕の手が、カップの縁でほんの少し止まった。
「ああ」
父が頷く。
「魔力汚染地帯から身を守る、あの防護服ですか。あれは、つらいでしょうな。暑くて、重くて、動きづらい」
「そういえば、視界もほとんどないらしいですね」
「ほう」
父が目を丸くする。
「フードに覆われて、こちらから顔が見えんとは思っておりましたが。あちらからも見えにくいのですか。何と不便な。いや、それ以上に非合理だ」
「女神に祈るためだけの装いですから」
義兄様は、自分のカップへ静かに視線を落とした。
「ですが、もしあれが軽量化できて、視界も確保できたら、面白いでしょうね」
父が、口を開きかけて、止まった。
「作業服程度の重さで」
義兄様は、何気ない世間話の声で続ける。
「旧都の奥まで入れるなら」
父の目が、少しずつ別の光を帯びていく。
「魔力汚染の研究も、飛躍的に進むでしょうし」
そこで、義兄様は言葉を切った。
和やかな表情のまま、何事もなかったようにカップを傾ける。種をまき終えた人の、満ち足りた静けさで。
僕は、向かいに座る母を見た。
母、セレーナ・フォン・アルスタは、物静かで口数の少ない人だ。黒い髪に、濃い紫の瞳。切れ長の目もとには、どこか異国めいた静けさがある。四十を過ぎているはずなのに、母もまた、歳が読めない。普段は、子供のように研究へのめり込む夫を、穏やかに見守っている。
その母が、いま、ほんのわずかに目を細めた。
ああ。
という顔だった。
母の唇が、声にならない形で動く。
クレムが、捕まった。
その通りだった。
父は、もう、ここにいなかった。
紅茶も飲まず、焼き菓子にも手をつけず、胸元から取り出した手帳に何かを書きつけ始めている。
「待ってください」
父が、誰にともなく呟いた。
「その場合、魔力層は三重ではなく……いや、違う。第四層を反転させれば」
完全に、始まってしまった。
母が、静かに立ち上がった。
駄目だ。
帰る。
そして、父の襟首を掴んだ。
文字通りに。
「まだ、話が」
父が、手帳から顔も上げずに抗議する。
「帰ります」
「でも」
「帰ります」
二度目の「帰ります」には、反論を許さない重さがあった。穏やかな声のまま。けれど、これ以上一歩でも踏み込めば、夫が研究に呑まれて何日も帰ってこなくなることを、母は誰よりも知っている。
引きずられていく父の背中を見送って、義兄様は穏やかに微笑んでいた。
*
二人と入れ替わるように、姉とランドルフ公爵閣下が温室に着いたのは、それから間もなくのことだった。
「あら」
姉が、空いた席を見て首をかしげる。
「父と母の姿が、見えないのですが」
「クレメンス殿の、お加減が優れなかったようだよ」
義兄様が、何でもないことのように答えた。
「そうですか」
姉はそれを一秒ほど咀嚼して、それから小さく頷いた。
風邪かな。
そう思っているのが、僕には手に取るように分かった。
世界でいちばん精密な演算をするこの姉が、自分の周りで何が起きているかには、いつもこんなに無防備だ。父が体調不良で消えた本当の理由も、その引き金を引いた人が、今こうして涼しい顔で隣に座っていることも、姉はまるで気づいていない。
涼しい顔でカップを傾け始めた公爵も、少なくとも何かには感づいているはずだ。
僕は、額に手を当てた。
けれど、知っていて止めない僕も、同罪なのだろう。




