↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

104/108

初冬のお茶会

ヴァレリウスが祈祷師代理に就任した経緯の話です。

姉の異変に、最初に気づいたのは僕だった。


幼い頃、姉は僕の肥大化した魔核を正常にしてくれた。暴走しかけた僕の核から、大きくなりすぎて抱えきれない分を、自分の領域へ引き受けて。だから僕は今も生きているし、だから僕は、半身のように姉の状態が肌で分かる。


その姉の核の奥で、ほんのわずかな歪みが滲み始めていた。


本人は気づいていない。意識のほとんどを演算に注ぎ、自分の魔核を制御するだけで精一杯の姉は、自分の不調だけはいつも勘定に入れない。他人の痛みにはあれほど敏感なのに、自分の痛みになると、まるで計測対象から外してしまう。


僕は調べた。何度も、人の入らない書庫に忍び込んで。

そうして見つけた。


劣化を止めるには、外から正常な魔核の情報を与え、波長を整えるしかない。頻繁な計測と調整。そして最終的には、粘膜接触。つまり、唇による情報の転写。


僕は義兄様に告げた。

事実だけを、できるだけ淡々と。


そして最後に、こう付け足した。


「……僕がします」


姉の弟として、それが筋だと思ったのだ。


義兄様は、即座に否定した。声を荒げず、考える間も置かず。


「いや」


「俺がやる」


その横顔を見て、僕は理解した。


これは合理ではない。


義兄様は、その役を誰にも譲る気がない。実の弟である僕にさえ。

義兄様の「姉のためなら何でもする」という顔の、もう一枚下に、別の熱がある。僕はこのとき初めて、それに気づいた。


気づいてしまった、と言うべきかもしれない。


忙しい義兄様が、どうやって頻繁な計測を必要とするこの役を担うつもりなのか。そこだけが、釈然としないままだった。


そして、その数日後。

公爵邸の温室で、定期的な婚約者家族のお茶会が始まった。


    *


外は、初冬だった。

公爵邸の庭は霜で白み、馬車を降りるあいだに頬が痛むほど冷えていた。けれど、温室の硝子戸をくぐった瞬間、季節がまるごと入れ替わる。室温安定化の術式が隅々まで張り巡らされた常春の温室は、外の寒さが嘘のように暖かく、名も知らない花の匂いで満ちていた。


先に着いたのは四人。父と母、義兄様、そして僕。姉とランドルフ公爵閣下は、少し遅れて来るという。

各自、外套を侍女に預け、卓を囲んで腰を下ろす。湯気の立つカップに、めいめいが一口、口をつけた。


「ここは、外とは大違いですな」


父が、ほっと息を吐いた。


「外套姿では、少し暑いくらいだ」


父、クレメンス・フォン・アルスタは、温厚で無欲な人だった。銀髪銀目。ふわふわと癖の強い銀の髪と、くりくりとした銀の瞳は、光の加減で淡い菫(すみれ)色を帯びる。今年五十歳のはずだが二十代に間違えられる童顔。我が家の伯爵でありながら、領地の経営は家令に任せきりで、頭の中はいつも術式で埋まっている。

研究ばかりしている人。

悪い人ではない。むしろ、優しすぎる人だ。


ただ、一つだけ、致命的な癖がある。


可能性を感じると、止まらない。


「もう外は、すっかり寒い季節ですからね」


義兄様が、穏やかに応じた。


「外套といえば、初夏に聖職者の聖衣姿を見かけました。あれは、大変そうでしたね」


僕の手が、カップの縁でほんの少し止まった。


「ああ」


父が頷く。


「魔力汚染地帯から身を守る、あの防護服ですか。あれは、つらいでしょうな。暑くて、重くて、動きづらい」


「そういえば、視界もほとんどないらしいですね」


「ほう」


父が目を丸くする。


「フードに覆われて、こちらから顔が見えんとは思っておりましたが。あちらからも見えにくいのですか。何と不便な。いや、それ以上に非合理だ」


「女神に祈るためだけの装いですから」


義兄様は、自分のカップへ静かに視線を落とした。


「ですが、もしあれが軽量化できて、視界も確保できたら、面白いでしょうね」


父が、口を開きかけて、止まった。


「作業服程度の重さで」


義兄様は、何気ない世間話の声で続ける。


「旧都の奥まで入れるなら」


父の目が、少しずつ別の光を帯びていく。


「魔力汚染の研究も、飛躍的に進むでしょうし」


そこで、義兄様は言葉を切った。

和やかな表情のまま、何事もなかったようにカップを傾ける。種をまき終えた人の、満ち足りた静けさで。


僕は、向かいに座る母を見た。

母、セレーナ・フォン・アルスタは、物静かで口数の少ない人だ。黒い髪に、濃い紫の瞳。切れ長の目もとには、どこか異国めいた静けさがある。四十を過ぎているはずなのに、母もまた、歳が読めない。普段は、子供のように研究へのめり込む夫を、穏やかに見守っている。


その母が、いま、ほんのわずかに目を細めた。


ああ。


という顔だった。


母の唇が、声にならない形で動く。


クレムが、捕まった。


その通りだった。


父は、もう、ここにいなかった。


紅茶も飲まず、焼き菓子にも手をつけず、胸元から取り出した手帳に何かを書きつけ始めている。


「待ってください」


父が、誰にともなく呟いた。


「その場合、魔力層は三重ではなく……いや、違う。第四層を反転させれば」


完全に、始まってしまった。


母が、静かに立ち上がった。


駄目だ。


帰る。


そして、父の襟首を掴んだ。


文字通りに。


「まだ、話が」


父が、手帳から顔も上げずに抗議する。


「帰ります」


「でも」


「帰ります」


二度目の「帰ります」には、反論を許さない重さがあった。穏やかな声のまま。けれど、これ以上一歩でも踏み込めば、夫が研究に呑まれて何日も帰ってこなくなることを、母は誰よりも知っている。


引きずられていく父の背中を見送って、義兄様は穏やかに微笑んでいた。


    *


二人と入れ替わるように、姉とランドルフ公爵閣下が温室に着いたのは、それから間もなくのことだった。


「あら」


姉が、空いた席を見て首をかしげる。


「父と母の姿が、見えないのですが」


「クレメンス殿の、お加減が優れなかったようだよ」


義兄様が、何でもないことのように答えた。


「そうですか」


姉はそれを一秒ほど咀嚼(そしゃく)して、それから小さく頷いた。


風邪かな。


そう思っているのが、僕には手に取るように分かった。


世界でいちばん精密な演算をするこの姉が、自分の周りで何が起きているかには、いつもこんなに無防備だ。父が体調不良で消えた本当の理由も、その引き金を引いた人が、今こうして涼しい顔で隣に座っていることも、姉はまるで気づいていない。

涼しい顔でカップを傾け始めた公爵も、少なくとも何かには感づいているはずだ。


僕は、額に手を当てた。


けれど、知っていて止めない僕も、同罪なのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。