国益だよ
数日後。
父が、大々的な研究発表を行った。
王都の講堂は、貴族と研究者でほぼ埋まっていた。壇上の父は、生き生きとしていた。研究の話をしている時だけは、父は妙に格好いい。のめり込んだ父は、こうなる。
「これは、防護服の革命です」
会場が、ざわついた。
「旧都の作業環境を、根本から変えます。動ける、見える、軽い。魔力汚染地帯での研究と開拓が、現実になる」
ざわめきが、広がる。けれど、それは熱狂ではなかった。
「金が、かかりそうだな」
「夢物語では?」
「莫大な資金と調整が要る。設計だけで何年だ。無理だろう」
懐疑の声が重なる。
実現性は高い。だからこそ厄介だった。誰も最初の一人にはなりたがらない。
そのとき。
会場の隅で、義兄様が静かに立ち上がった。
自然と視線が集まる。
「もし、これが成功した場合」
穏やかな、よく通る声だった。
「魔核肥大症の研究も、飛躍するでしょうね。素晴らしいことだ」
空気が、変わった。
誰もが言葉を止める。
「それは……」
「確かに」
「子供の発症例にも応用できるかもしれん」
ざわめきの質が変わっていく。
魔核肥大症。その言葉だけは、どの貴族も無視できない。
稀少な病だ。めったに起きない。けれど、前触れもなくどの家にも起こりうる。原因も確実な治療法も、まだ誰も知らない。貴族の子であれば誰一人、無関係ではいられない。
だから皆が恐れている。我が子のことを。
僕もその病にかかった一人だ。
幼い僕の魔核が暴走しかけたあの夜、姉が肥大した分を引き受けてくれなければ、僕はここにいない。父も、母も、それを知っている。この会場の誰もが、似た恐怖を胸のどこかに抱えている。
その恐怖に、義兄様はたった一言で火を灯した。
支援者が現れ始めた。一人、また一人。
続いて、支援金の声が上がる。父の研究は、その日のうちに止められないほどの後押しを得た。
僕は講堂を見渡した。
義兄様は、嘘を一つも言っていない。
研究は国益になる。旧都の発展にも繋がる。魔核肥大症の研究にも役立つだろう。
全部本当だ。だから誰も反対できない。
そして、父上は旧都へ行く。次期祈祷師の席は空く。
僕は静かに息を吐いた。
そういうことか。
この結果を最初から見ていたのは、たぶん世界で二人。
義兄様と、僕だけだった。
*
人波が引いた講堂の隅で、僕は義兄様に近づいた。
「義兄様」
「何かな」
「やりましたね」
「何が、だい?」
義兄様は、本当に心当たりがないような、綺麗な顔で僕を見下ろした。
僕は言葉を選ぶのをやめた。
「父上を、次期祈祷師の候補から外しましたね」
一拍。義兄様が微笑んだ。
あの穏やかで温度の読めない微笑み。
「国益だよ」
その言葉の下にどれだけのものが沈んでいるのか。十二歳の僕にも、もう分かってしまう。
うわあ。
声には出さなかった。
姉のためなら女神の理さえ欺くだろうこの人が、まず手始めに欺いたのは、姉の父親だった。優しさと正論で、にこやかに、誰も傷つけない顔をして。
そして、いちばん恐ろしいのは、その全部が本当に姉のためだということだ。
*
旧都へ発つ日の朝は晴れていた。
馬車の前で父は何度も義兄様の手を握った。
「ヴァレリウス君には感謝している」
「光栄です」
「研究人生で最高の案件だ。こんな機会をこの歳でもらえるとは」
「それはよかった」
父は最後まで気づかなかった。
自分が誰かの盤面の駒として動かされたことも、その盤を組んだのが娘の婚約者であることも。たぶん、一生気づかない。幸せそうに研究の話をしながら、父は旅立っていく。
その横で、母だけが静かだった。
荷の積み込みが終わる。
母は義兄様へ向き直った。穏やかな顔だった。
そして、にこりと笑った。
義兄様も、にこりと笑った。
言葉はない。
何一つ。
けれど。
ああ。
母上は全部分かっているのだ。
夫がなぜ旧都へ行くことになったのか。誰が最初の一歩を置いたのか。何のためだったのか。全部。
全部分かった上で、何も言わない。
義兄様もまた、何も言わない。
それで十分だった。
母は最後に僕を見た。
「テオ」
「はい、母上」
「姉さんを、お願いね」
それだけだった。
母は馬車へ乗り込む。やがて車輪が動き出す。
遠ざかる馬車を見送りながら、僕は隣の義兄様を見上げた。
「これで良かったのですか」
義兄様は少し考えた。
本当に少しだけ。
「良くはない」
「クレメンス殿が適任だった」
即答だった。
僕は黙る。義兄様も、しばらく黙っていた。
冷たい風が吹く。
その後で、義兄様は本当に小さく笑った。
「だが」
視線は馬車の消えた先を向いたまま。
「エリシアの方が大事だ」
あまりにも迷いのない声だった。
だから僕は何も言えなかった。
馬車が見えなくなるまで、僕たちは並んで立っていた。




