半身の夜
姉を救うために七年を費やしたテオドールの話です。
十二歳の初冬、王城の外壁の影で、僕は胸に手を当てた。
姉様の波長が、遠くで細く揺れている。
いつもの揺れではなかった。疲労でも、演算の深さでもない。もっと奥の方で、何かが少しずつ崩れ始めている。そのことを、僕は誰より先に知ってしまった。
義兄様に告げなければならない。
でも、その前に答えが欲しかった。姉様を救う方法を、どうしても見つけたかった。
王城へ忍び込むと決めた時、最初に思い出したのは、あの夜の声だった。
*
その夜のことを、僕は今でも声で覚えている。
春の初め、昼を過ぎた頃から身体が重かった。眠いのに眠れず、起きようとしても、指先が自分のものではないみたいに動かなかった。乳母役の侍女が何度も僕の名を呼び、額に手を当て、すぐに従医を呼んだ。
大人たちの足音が増えていき、扉が開く音、誰かが息を呑む音、従医の低い声、地下へ運べという言葉、父上と母上を呼び戻せという指示が、途切れ途切れに耳へ届いた。
その頃の僕は、もう目を開けていられなかった。けれど声だけは、変に遠くまで聞こえた。耳の中に水が入ったように、すべてが反響していた。
苦しい、と言いたかった。でも息を吸うだけで胸の奥が焼けた。身体の中心に、熱い石を押し込まれているみたいだった。熱は膨らみ続けて、僕の身体より大きくなって、皮膚も骨も内側から押し広げていく。
誰かが泣いていた。たぶん僕も泣いていた。その次に覚えているのは、姉様の声だった。
騒がしい地下聖堂の中で、姉様の声だけが静かに聞こえた。何を言っているのか、ほとんど分からなかった。言葉は反響に散って、形を失っていた。ただ、その声が僕に向けられていることだけは分かった。
大丈夫、と言われた気がした。姉様がそう言うなら、大丈夫なのだと思った。
目を開けると、霞んだ視界の向こうに姉様がいた。十一歳の姉様は、いつもよりずっと小さく見えた。けれど、その手が僕の胸に触れた瞬間、僕の中で暴れていたものが姉様の方へ引かれていった。
幾本もの光が、僕から姉様へ伸びていく。
怖いとは思わなかった。痛みがほどけていったからだ。
胸を押し潰していた熱が、少しずつ軽くなる。喉の奥に詰まっていた苦しさが薄れる。強く握られていた身体が、ようやく放してもらえたみたいに緩んでいく。
けれど、楽になるほど、姉様に僕が重なって見えた。
それが何を意味するのか、六歳の僕には分からなかった。分からないまま、僕は意識を手放した。
*
夢の中で、姉様が虹色の珠を抱えていた。
それは六歳の僕が両腕で抱えるには大きすぎる珠だった。きれいなのに、怖かった。内側で何かが暴れていて、今にも弾けてしまいそうだった。
姉様はそれを、何でもないことのように抱いていた。でも、何でもないはずがなかった。
その珠が危険なものであることを、夢の中の僕はなぜか知っていた。
珠からは、細い光が何本も飛び出そうとしていた。姉様はその一本一本を逃がさないように押さえ、絡まったものをほどき、荒れているものを鎮めていた。
夢の中の姉様はずっと、そればかりをしていた。
目が覚めた時、世界は別のものになっていた。身体が軽い。息ができる。指先まで血が通っている。天井の木目が、今まで見たことがないほど細かく見える。廊下の向こうの足音まで、やけにはっきり聞こえる。
治ったのだと思った。うれしいはずだった。それなのに、胸の奥に知らない気配があった。
遠くにあるのに、近い。懐かしいのに、自分ではない。複雑な波長が、細い糸みたいに僕の中へ触れてくる。その気配をたどると、なぜか姉様に行き着いた。
理屈ではなく分かった。姉様の中に、僕がいる。そう思った瞬間、怖くなった。
僕は寝台から降りた。足は驚くほど軽かったけれど、廊下を歩くたびに胸の糸が揺れた。その揺れが姉様の方へ続いている気がして、僕は音を立てないように姉様の部屋へ向かった。
*
姉様は眠っていた。従医と父上と母上が、寝台のそばにいた。姉様の顔は赤く、呼吸は静かだったけれど、眠っているというより、どこか遠い場所で何かをしているように見えた。
父上が僕に気づいて、手招きした。
「目が覚めたか、テオ」
いつもと同じ声だった。いつもと同じように頭を撫でられ、そのまま膝に乗せられた。父上の膝は温かくて、僕は少しだけ安心した。
「肝心な時にそばにいてやれなくて、すまなかった」
「ごめんなさいね、テオ」
母上もそう言って、僕の頬に触れた。母上の指は少し冷たかった。
僕は首を横に振った。
「いいえ。父様と母様は悪くありません」
本当にそう思った。悪い人がいるなら、僕の中で勝手に大きくなった熱の方だった。
僕は姉様を見た。
「姉様は、お風邪ですか」
父上は困ったように笑った。
「言ってみれば、知恵熱だな。慣れれば収まるよ」
母上の手が、父上の肩にそっと置かれた。父上は何かを言い足そうとして、少しだけ口を閉じた。今なら分かる。あの時の父上は、研究者としては目の前で起きた前例のない現象を見たくて仕方がなかったのだと思う。けれど母上は、父上が父親であることを忘れないように、静かに止めていた。
僕は胸の奥の糸を押さえるように、服を握った。
「父様。姉様から、僕を感じるんです。なぜですか」
父上の目が、一瞬だけ明るくなった。
すぐに母上が父上の首元をつかみ、姿勢を正させた。
父上は小さく咳をしてから、僕の目を見た。
「エリシアはな、テオの魔核の一部を持っているんだ。きっとそれが原因だろう。体に問題はないか」
「はい。元気です」
「ならいい。エリシアがテオを助けたんだ。エリシアが元気になったら、ありがとうと言ってあげなさい」
僕は頷いた。状況は、ほとんど分かっていなかった。
けれど、父上がそう言うなら、そうなのだろう。だから僕は、姉様が目を覚ましたら必ずありがとうを言おうと決めた。
それだけを、六歳の僕は大事に抱えた。
*
姉様と会えたのは、それから二週間後だった。
その二週間で、僕はいくつものことを知った。
僕はほとんど死ぬところだったらしい。姉様はその僕を助けたらしい。大人たちは奇跡だと言ったし、僕もそう思った。姉様はすごい。僕の姉様は、誰よりもすごい。
でも、奇跡の後で、姉様は目を覚まさなかった。
眠っているだけではないことが、僕には分かった。胸の奥に続く波長が、ずっと張り詰めていたからだ。姉様は休んでいなかった。起き上がらず、話さず、笑わず、それでも一日中ずっと戦っていた。
大人たちは毎日、難しい顔で話していた。六日目には、熱が下がらないなら地下の病室へ移すという話も出た。扉の外で聞いていた僕は怖くなって、そのまま走って逃げた。
その夜から、僕は毎日祈った。
早く熱が下がりますように。姉様が目を覚ましますように。元気になりますように。
それなのに、心の奥のほんの小さな場所で、別の願いも生まれていた。
目を覚まさないでほしい。
そう思った自分が、怖かった。
姉様が目を覚ましたら、僕を見て何を思うのだろう。僕を助けたことを後悔するのだろうか。僕のせいだと、少しでも思うのだろうか。
姉様はそんなことを思わない。僕は知っていた。姉様は、僕にそんな感情を向けない。絶対に向けない。
それでも、長く会えない時間は、信じているものの端を少しずつ黒くしていった。もしも姉様の中に僕への憎しみが生まれたら、僕はきっと、それを波長で感じてしまう。感じたら、たぶん生きていられない。
僕は死ぬのが怖かったのではない。僕の姉様を失うのが怖かった。
面会を許されて部屋に入った時、姉様は少し小さくなっていた。
頬がこけていた。手首が細かった。目の光も、前よりずっと遠かった。いつもなら絶えず世界に興味を持ち、くるくると表情を変え、どこか計算をしているような顔をするのに、その時の姉様は、ただぼんやりと天井を見ていた。
僕は立ち止まった。ありがとうを言うと決めていたのに、声が出なかった。
その時、姉様が僕に気づいた。
「テオ」
嬉しそうに笑った。
その笑顔が、本当に嬉しいものだと、僕には分かった。胸の奥の波長が、ふわりと温かくなったからだ。
足の力が抜けそうになった。僕は泣きながら、でもこれだけは言わなければと思って、姉様を見た。
「姉、様っ。助けていただき、ありがとうございましたっ」
言い切るまで、目をそらさなかった。
姉様は満足そうに頷いた。それから手を伸ばしてきた。手は震えていて、僕は慌てて寝台へ駆け寄った。
姉様の指が、僕の髪を撫でた。
「元気になって、良かったね」
その声は、心から安堵していた。
僕はまた泣いた。姉様は僕を恨んでいなかった。後悔していなかった。僕が生きていることを、本当に喜んでいた。
その時、僕の中で何かが決まった。
姉様は僕を救ってくれた。だから今度は、僕が姉様を救う。
どうすればいいのかは、まだ何も分からなかった。六歳の僕に見えていたのは、細い糸の先で姉様が戦い続けているということだけだった。
でも、分からないからといって、何もしない理由にはならなかった。




