少し熱いだけだよ
義兄様が見舞いに来たのは、それから二か月ほど経ってからだった。
姉様の顔色が少し落ち着き、歩く練習もできるようになり、周囲の大人たちがようやく客を通してもよいと判断した頃だった。
義兄様は、一輪の小さな向日葵を持っていた。
僕の知っている向日葵とは違った。花弁は透き通るような白銀で、中心は深い碧色をしていた。香りはほとんどなく、硝子細工のように静かな花だった。
義兄様はそれを小瓶に挿して、寝台のそばの丸テーブルへ置いた。動作は丁寧だった。十一歳の男の子なのに、どこか大人みたいだった。
「久しぶりだね、エリシア」
にこやかな声だった。
姉様は義兄様ではなく、花を見ていた。
「……中心の螺旋。右回りに三十四列、左回りに五十五列。見事な黄金数列と、完璧な黄金角ですね」
義兄様はくすくすと笑った。
「エリシアはエリシアだね。選び抜いた甲斐があったよ。気に入ってくれたかな」
「はい、とてもきれいです。ありがとう、ヴァレリウス」
姉様が笑った。
その笑みは、二か月前に見た時よりも少しだけ姉様らしかった。波長も、ほんの少し柔らかかった。
義兄様はそれを見ていた。
とても静かに。
「体の調子はどんな?」
「世界がちょっと煩くなりましたが、大分慣れました。今は、歩く練習中です」
「そう。また外を歩けるようになったら、もっと面白い花を見せるよ。うちの温室にあるんだ」
「本当? 楽しみです」
姉様は素直に頷いた。
その日から、義兄様は何度も見舞いに来るようになった。
珍しい花や小さな魔道具、面白い形の鉱石など、姉様が目を留めそうなものを、毎回ひとつだけ持ってくる。多すぎると姉様の負荷になると分かっているみたいに、いつもひとつだけだった。
六歳の僕には、ただ優しい人に見えた。今なら分かる。あれは、姉様を外の世界に繋ぎ留めるための手だった。
眠り続けていた姉様が、目を開けて、花を見て、計算して、少し笑う。その一つ一つを、義兄様は拾っていた。姉様が自分の内側だけに沈んでしまわないように、毎日、細い糸を外へ結び直していた。
僕はそれを、少し悔しいと思った。同時に、少し安心もした。僕以外にも、姉様が戦っていることを見ている人がいる。そのことが、どうしようもなくありがたかった。
*
夏の日差しが少し弱くなった頃、僕は父上の研究室に入っていく義兄様を見た。
その頃には、義兄様が屋敷にいることを使用人たちも不思議に思わなくなっていた。姉様の見舞いに来て、庭を歩き、温室の話をして、ときどき廊下で僕にも挨拶をする。
けれど、その日は父上が屋敷にいないはずだった。
僕は少し迷ってから、研究室の扉を細く開けた。
義兄様は、机の上に広げた資料を読んでいた。細かい計算式と魔術陣が何枚も並んでいる。父上の字だった。
「ヴァレリウス様?」
僕が声をかけると、義兄様は一瞬だけ動きを止めた。それから、困ったように笑った。
「ああ、見つかっちゃったね」
怒られた子供みたいな言い方だった。でも、その目は少しも慌てていなかった。
「何を見ていたんですか」
「興味深いことを耳にしてね。テオは、エリシアの体調が分かるの?」
僕は少し驚いた。
そのことを、誰かに正面から聞かれたのは初めてだったからだ。
「はい。ある程度は。正確には、波長でなんとなく状態が分かるだけです。でも、そこから想像できることはあります」
義兄様は黙って続きを促した。
だから僕は話した。あの夜から胸の奥に糸のような感覚があること。姉様が眠っていても戦っていることが分かったこと。姉様が苦しい時、僕の内側にも小さく波が立つこと。けれど姉様の方からは、僕の状態は分からないらしいこと。
話し終えると、義兄様は資料の束を一つ持ち上げた。
「それを、俺も感じたいと思ってね。クレメンス殿なら、きっと記録を残していると思ったんだ」
「姉様の体調を、ですか」
「うん」
「でも、あまりお勧めしません」
言ってから、少し失礼だったかもしれないと思った。でも、取り消す気にはならなかった。
「つらいことの方が多いです」
義兄様は資料から目を離し、僕を見た。しばらく何も言わなかった。それから、少しだけうつむいて、薄く笑った。
「そうだね。つらいんだろうね」
声は穏やかだった。
「でも俺は、もう決めたんだよ。エリシアを何者からも守るって。そのために必要なことなら、躊躇わない」
その言葉の意味を、六歳の僕は全部は分からなかった。でも、嘘ではないことは分かった。
義兄様の声には、姉様を見ている時と同じ静けさがあった。静かなのに、奥の方で熱いものが燃えている。子供の僕でも、それだけは分かった。
僕は机の上の資料を見た。
父上の研究室は、僕たち子供にも開かれている場所だった。姉様が幼い頃、父上に質問をしすぎたせいで、まずここで調べて、それでも分からなければ聞くという決まりができた。棚には子供向けの本も、大人でも読みにくい専門書も並んでいる。
ここに答えがあるなら、僕も探せるかもしれない。そう思った。
「僕も、姉様を助けたいです」
自分でも驚くほど、はっきり声が出た。
「元に戻ってほしいです。でも、何をすればいいのか分かりません。僕にできることはありますか」
義兄様は僕をじっと見た。僕も目をそらさなかった。
六歳の子供が、大人びたことを言っていると思われたかもしれない。それでも構わなかった。僕はもう、姉様に救われた子供のままでいたくなかった。
姉様の役に立つ弟になりたかった。
やがて義兄様は、ふっと笑った。今度の笑みは、さっきより少しだけ本物に近かった。
「では、同じ目的の同志として、共同研究をしようか。期限は、エリシアの完全根治まで。よろしくね」
右手が差し出された。その手は、六歳の僕には十分に大きく、けれど大人のものと呼ぶにはまだ細かった。
僕は、差し出された手を静かに握った。
その瞬間、胸の奥で姉様へ続く糸が、かすかに揺れた。
僕一人では何もできない。でも、何もできないままではいない。
それが、僕と義兄様の最初の約束だった。
*
それから、僕たちは少しずつ試した。
父上の資料を読み、義兄様が結晶を作り、僕が感じている波長を言葉にした。六歳の僕にできることは多くなかった。難しい式は読めない。術式の構造も半分以上分からない。
それでも、姉様の波長だけは分かった。今日は少し高い。今日は少し荒れている。今日は眠っているように見えて、奥でずっと何かを押さえている。
僕がそう言うたび、義兄様は真剣に聞いた。子供の言葉として流さなかった。分からないところは聞き返し、言葉にできないところは、いくつもの比喩を出してくれた。
熱いのか、痛いのか、重いのか、音に近いのか、光に近いのか。
そうやって、僕の中にある曖昧な感覚を、少しずつ形にしていった。
何度も失敗した。結晶はすぐに熱を持った。小さすぎると何も拾えない。大きすぎると、余計な揺らぎまで飲み込んで壊れた。僕の血と認証を通しても、姉様の状態を完全には写せなかった。
それでも、義兄様は諦めなかった。僕も諦めなかった。
数か月後、義兄様の左耳に、赤いしずくのピアスがついた。深く濁った赤だった。
それは、姉様の痛みを引き受ける石ではなかった。治す石でもなかった。ただ、姉様の状態を薄く知らせるだけの、粗い窓だった。
しかも情報量が増えると、すぐに熱を持った。
装着して一か月の間に、義兄様は何度か耳に治癒を施していた。皮膚が赤くなり、触れれば痛むはずなのに、外す気配は一度もなかった。
「痛くないんですか」
ある日、僕は聞いた。
義兄様はいつものように笑った。
「少し熱いだけだよ」
嘘だと思った。でも、その嘘を責める気にはなれなかった。
僕には、姉様の状態が分かる。それはずっと、つらいことだった。姉様が戦っているのに、僕は何もできない。その事実だけが胸の内側をこすっていた。
けれど、あの赤い石ができてから、そのつらさは僕一人だけのものではなくなった。義兄様も、姉様の状態を知るようになった。
姉様には分からない。姉様はきっと、僕たちが何をしているのか知らないまま、今日も自分の中で戦う。
だから僕たちは、姉様の見えないところで約束を続ける。
姉様が僕を救ってくれた夜、僕の中に姉様への糸が生まれた。
それは祝福ではなかった。ただの奇跡でもなかった。
苦しくて、怖くて、逃げたくなるほど重いものだった。
それでも僕は、その糸を手放したいと思ったことは一度もない。
あの夜、姉様が僕の半身になった。
だから僕は、姉様の半身として生きる。
姉様が自分の痛みに気づかないなら、僕が気づく。
姉様が自分を後回しにするなら、僕が誰かを呼ぶ。
姉様が一人で戦おうとするなら、僕はその戦いを一人きりにはしない。
六歳の僕には、まだ何もできなかった。けれど、何もできないと知ったその夜から、僕は少しずつ、姉様のための自分になっていった。
だから今夜も、同じことをする。
姉様が見ない場所で、姉様のための答えを探す。
王城の高い壁を見上げ、僕は胸の奥の糸を確かめた。
怖くないと言えば、嘘になる。
でも、あの夜からずっと、僕は何もできないままの弟ではいられなかった。




