禁書庫の王
王城の壁は、五日目になっても高かった。
それでも、見上げている時間はなかった。喉の奥が少し固くなるのを飲み下し、僕は足を前へ出す。ここで引き返せば、姉様の中で起きている小さな濁りを、誰にも説明できないままになる。
それだけは、できなかった。
僕は十二歳だ。もう六歳ではない。あの夜、姉様に抱き上げられるように救われた小さな子供ではない。そう言い聞かせて、王城の奥へ続く回廊を歩く。
灯りは間遠で、石の床は冷たい。足音を立てないよう、歩幅を小さく整えた。急がない。急ぐと、警備兵の目に引っかかる。父上の書物にそう書いてあったし、四日間でそれが本当だと分かった。
角に、警備兵が二人いる。
僕は息を整えて、その視界の端を通り抜ける。
刻光の術式は、僕の身体に薄くかけてある。姿を消す術ではない。たぶん、僕は見えている。ただ、その人の中に「誰かがいた」という形で残らない。目が僕の上を滑り、記憶になる前にほどける。
だから、見られてもいい。
けれど、触れてはいけない。
肩が少しかすっただけで、術は綻ぶ。そこだけは、まだどうにもならない。何度練習しても、物に触れた事実までは消せなかった。
警備兵の外套の裾が、ほんの近くで揺れる。
僕は距離を測り直した。
触れない。なら、通れる。
そう決めて、通り抜ける。
誰も振り返らなかった。
通り過ぎてから、一つだけ息を吐いた。緊張はある。けれど足は止めない。平気な顔を作るのは、もう癖になりかけていた。
あの壁を見上げた夜から、五日。
僕は毎晩、ここへ来ている。
姉様の波長が濁ったのは、ほんのわずかだった。普通なら、誰も気づかないと思う。姉様本人でさえ、きっと気づいていない。姉様はいつも、自分のことを後回しにするから。
でも僕には分かった。
六歳のあの夜から、僕の奥には姉様へ続く細い糸がある。その糸が、初めて不安な震え方をした。六年間、ずっと静かに張っていたものが、かすかに濁って、沈んだ。
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
魔核肥大症だ。
僕が患った病と、同じ名前のもの。
急速に崩れる型なら、助からない。僕がそうだった。姉様が救ってくれなければ、今の僕はいない。
でも、姉様のこれは違う。すぐに壊れてしまう感じではない。少しずつ、少しずつ、奥で傷が広がっていくような濁りだ。
緩慢肥大型。
治療法があるはずだった。
あるはずなのに、どの書物にも手順がない。「国の管理下にある規制魔術」とだけ書かれていて、その先がどこにもなかった。伯爵家の研究室、公爵家の書庫、王都の大図書館。届く場所は全部見た。それでも、なかった。
だから、ここへ来た。
王城の禁書庫。
見つかれば、ただでは済まない。分かっている。父上や母上が知ったら、きっとひどく悲しむ。姉様が知ったら、たぶん困った顔をする。義兄様なら、怒る前に、静かに理由を聞いてくれるかもしれない。
でも、誰かに聞いてもらう時間が惜しかった。
姉様の濁りは、今も胸の奥で揺れている。
眠っている時も、食事をしている時も、笑っている時も、ずっとそこにある。消えない。僕が何もしなければ、姉様はそのまま少しずつ削られていく。
そんなのは、嫌だ。
姉様は僕を救ってくれた。
今度は、僕が助ける番だ。
それがどれだけ子供っぽい考えでも、僕にはそれしかなかった。
*
禁書庫の扉は、拍子抜けするほどあっさり開いた。
一日目、僕はしばらくその場で固まってしまった。重い錠も、複雑な術式も、僕を拒まなかったからだ。まるで最初から通っていいと言われていたみたいだった。
おかしい、とは思った。
でも、戻らなかった。
都合がいいなら、今はそれでいい。考え始めれば、足が止まりそうだった。
五日目の今も、その違和感は消えていない。
扉を閉めると、禁書庫の中はひんやりとしている。高い棚が奥へ奥へと続き、木と革の匂いがする。ここまでの四日間、誰かが入ってきた形跡はなかった。けれど油断はしない。術式はかけたまま、昨日の続きを探し始める。
仕切られた棚に平置きされた書物の題箋を、指の腹でなぞる。
緩慢肥大型。治癒。魔核調律。規制術式。
手がかりになりそうな言葉を拾い、目次を開き、違うと分かれば戻す。たったそれだけのことなのに、時間が削れていく。焦ると頁をめくる指が速くなって、羊皮紙の端が小さく鳴った。
急ぐな、と自分に言い聞かせる。
僕は深く息を吸った。急いではいけない。急がない方が、早く届くこともある。義兄様なら、きっとそう言う。
そう思った時だった。
扉が、静かに開いた。
指先が止まる。
ここ数日で、初めての音だった。
逃げ道を探す前に、身体が手順をなぞった。走らない。足音を立てない。棚の陰へ。部屋の端へ。物理接触だけは避ける。
頭の中で順番を並べながら、僕はゆっくり後退した。背中が冷たい棚に近づく。手の中の書物を落とさないよう、指に力を入れる。
靴の音が近づいてくる。
急いでいない。忍んでもいない。ここを歩くことを、誰にも咎められない人の足音だった。
棚の切れ目に、その人が現れる。
白髪の混じった濃い金髪。深い、青紫の瞳。派手な飾りはないのに、その人が立っただけで、禁書庫の空気が静かに整ったように見えた。
その瞳が、迷わず僕を見た。
まっすぐに。
背筋が、自然と伸びた。
術式は解けていない。解けていないはずだ。なのに、どう見ても目が合っている。警備兵も侍従も、これまで誰一人、僕をその目で見つけられなかった。
この人だけが、見ている。
「子供か」
声は低く、静かだった。静かすぎて、かえってごまかせない声だった。
「この部屋に入れるのは、始祖の血族だけのはずだが。なぜ、お前は入れている」
答えられなかった。
僕自身にも、分からない。
だから答えようがなかった。動揺を見せたら、何もかも見透かされると思った。
だから黙っていた。
その人は、僕の沈黙を叱らなかった。少しだけ目を伏せ、考えるように間を置いてから言った。
「名は」
偽名を言うことは、考えなかった。
たぶん、通じない。この人に嘘をついた瞬間、僕はもっと悪い場所へ落ちる。そんな気がした。
僕は書物を胸に抱えたまま、背筋を伸ばす。
「……テオドール・フォン・アルスタ、です」
声は、少しだけ掠れた。
でも、最後まで言えた。
その人は小さく頷く。
「……クレメンスの子か」
独り言のような声だった。
それから、ふと思いついたように僕を見る。
「もしや、姉の容態に異変が現れたか」
胸の糸を、強く引かれた気がした。
僕は動けなくなる。
どうして。
名前しか言っていない。姉様のことは、何も言っていない。なのに、この人は僕がここへ来た理由を、いちばん奥から拾い上げた。
恐ろしい人だ。
でも、その恐ろしさの奥で、別のものが小さく灯った。
この人は、知っているのかもしれない。
僕が探している答えを。
その人は、僕の顔を見て納得したようだった。ゆっくりと棚の間を移動し、迷いなく一冊の書物を抜き取る。
そして、僕に差し出した。
「これを写せ。これが、お前の求めていたものだ」
手が伸びるまでに、一拍遅れた。
受け取った書物は、思ったより重かった。頁を開く。細かな術式陣と注釈が、ぎっしり並んでいる。目で追った瞬間、胸の奥が熱くなった。
これだ。
どこにもなかった手順。国が隠していた、緩慢肥大型を鎮める術。
見つけた。
姉様を、助けられる。
その言葉が頭の中に浮かんだ途端、胸が詰まった。けれど手は止めない。今は写さなければいけない。間違えず、欠かさず、全部。
「分かっているだろうが」
その人の声が、静かに落ちる。
「お前のしていることは、重罪だ」
僕は顔を上げた。
怒りはなかった。けれど、許されているわけでもない。青紫の瞳は、逃げても隠れても届く場所まで見ているようだった。
「条件がある。余が良いと言うまで、影となれ。姉の容態を、逐一、報告せよ」
余。
その一語で、ようやく分かった。
目の前にいる人は、この国の王だ。
アルベリック・ド・ルミナリス。




