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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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救うだけでは、足りなかった

——夢の中で聞いた言葉と同じだった。


けれど、今のは何も知らない子供の言葉ではない。全部を通り抜けて、自分で選び、俺へ差し出してくれた言葉だった。石越しの揺れでも、俺の推測でもない。その言葉を彼女自身の声で聞けたことが、ただ嬉しかった。


しばらく、息ができなかった。


エリシアは、自分の言葉の重さに戸惑うように一度瞬いた。それでも逃げない。いつものように正しい答えを探すのではなく、目の前の俺を見ていた。


だから俺も目を逸らさない。


あの回廊で、ついに合わせられなかった視線を——今は、まっすぐに受け止めた。


「エリシア」


ようやく声が出た。


「俺は、ずっと嘘をついていた」


エリシアの指が、俺の手の中でわずかに強張った。


「副作用はない、とか。大丈夫だ、とか。必要なことだから、とか。いくつも言った。どれも、エリシアを怖がらせないための言葉だった」


そこまでは、まだ綺麗に言える。


その奥にあったものは、もう少し醜い。


「本当は、怖かった。エリシアが痛むたびに、俺の知らないところへ少しずつ遠ざかっていく気がした。息をしているのを確かめても、足りなかった。お茶をおいしいと言ってほしい、いつも笑っていてほしかった。俺の声で、安心してほしかった」


一つ言うたびに、胸の奥が剥がれていく。


完璧な婚約者の顔など、もう残っていなかった。


「それで、できるなら」


彼女の手の甲に、額を寄せた。


「俺の隣に帰ってきてほしかった」


その言葉を口にした瞬間、ようやく分かった。


救いたかったのではない。


救うだけでは、足りなかった。


俺は、この人を欲しがっていた。


役目からも、神からも、世界からも取り戻して、そのうえで、俺の隣を選んでほしかった。


「欲張りだろう」


苦笑が漏れた。


「でも、もう綺麗な言葉に隠すのはやめる」


顔を上げて、その目を見た。


「愛している」


エリシアの瞳が、揺れた。


彼女は口を開いて——そこで、言葉を詰まらせた。


「好き」も「愛している」も、きっと言葉としては知っている。けれど今のエリシアは、辞書の中から正しい単語を選ぶ顔ではない。自分の胸の中を真剣に見つめて、慣れない感情に向き合っている顔だった。


そうして、恐らくいちばん本当のことだけを、告げた。


「……いなくならないで、ください」


声が、小さく震えている。


「あなたが、いなくなるのは……いやです。すごく、いやです」


うまく言えた、という顔ではない。むしろ、うまく言えないことに戸惑っている顔だ。


それが、たまらなく愛しかった。


それで、充分だった。それ以上の言葉など、世界のどこにも要らなかった。


「エリシア」


「……はい」


「触れてもいい?」


彼女は瞬きをした。意味を理解するまでに少しだけ時間がかかり、その間に頬が赤くなっていく。逃げる時間も考える時間もあった。


それでも、彼女は手を引かなかった。


「……はい」


小さく、けれど確かに頷く。


俺は、ゆっくりと顔を近づけた。今度は、あの廃墟の一瞬とは違う。術式のためでも命の写しのためでもない。彼女を救うために奪うのではなく、彼女が許した距離へ自分の意志で近づいた。


心臓の音が、握った手から伝わってくる。ありえない速さで鳴っていた。


俺のものか、彼女のものか、もう分からなかった。


唇を、ゆっくり重ねる。


やわらかくて、温かかった。


それだけで、胸の奥がほどけていく。


ただ、愛している人に触れている。


それが、こんなにも恐ろしくて、こんなにも甘いことだと、俺は知らなかった。


離すと、エリシアの顔が、燃えるように赤かった。


「……っ、あの、これは、その」


いつも考えてから言葉を紡ぐ彼女が、感情からくる咄嗟の言い訳の言葉を発していた。


「甘い、です」


「うん」


「なんで、ですか。お茶も、お菓子も、口にしていないのに……何かの、不具合……?」


俺は思わず笑った。


初冬から張り詰め続けていた何かが、初めて息を吐くようにほどけていった。


「不具合じゃないよ」


そう言って、もう一度、彼女の赤い頬を見た。


「……よかった」


小さくこぼれた。


「エリシアが、ここにいる」


それだけのことがまだ信じきれない。


「俺の手を握って、困った顔をして、甘いと言っている」


言葉にすると馬鹿みたいだった。


けれど、その馬鹿みたいな事実が、俺を息の出来る場所へ戻していく。


「ずっと、これが欲しかった」


エリシアが息を呑み、包んだ手を、ほんの少しだけ握り返してきた。


その小さな応えだけで、俺の怖さも欲も、少しは届いたのだと思いたくなった。そう考えてしまう程度には、もう浮かれていた。


弱さを見せても、彼女は俺から離れなかった。


それだけで、救われた。

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