救うだけでは、足りなかった
——夢の中で聞いた言葉と同じだった。
けれど、今のは何も知らない子供の言葉ではない。全部を通り抜けて、自分で選び、俺へ差し出してくれた言葉だった。石越しの揺れでも、俺の推測でもない。その言葉を彼女自身の声で聞けたことが、ただ嬉しかった。
しばらく、息ができなかった。
エリシアは、自分の言葉の重さに戸惑うように一度瞬いた。それでも逃げない。いつものように正しい答えを探すのではなく、目の前の俺を見ていた。
だから俺も目を逸らさない。
あの回廊で、ついに合わせられなかった視線を——今は、まっすぐに受け止めた。
「エリシア」
ようやく声が出た。
「俺は、ずっと嘘をついていた」
エリシアの指が、俺の手の中でわずかに強張った。
「副作用はない、とか。大丈夫だ、とか。必要なことだから、とか。いくつも言った。どれも、エリシアを怖がらせないための言葉だった」
そこまでは、まだ綺麗に言える。
その奥にあったものは、もう少し醜い。
「本当は、怖かった。エリシアが痛むたびに、俺の知らないところへ少しずつ遠ざかっていく気がした。息をしているのを確かめても、足りなかった。お茶をおいしいと言ってほしい、いつも笑っていてほしかった。俺の声で、安心してほしかった」
一つ言うたびに、胸の奥が剥がれていく。
完璧な婚約者の顔など、もう残っていなかった。
「それで、できるなら」
彼女の手の甲に、額を寄せた。
「俺の隣に帰ってきてほしかった」
その言葉を口にした瞬間、ようやく分かった。
救いたかったのではない。
救うだけでは、足りなかった。
俺は、この人を欲しがっていた。
役目からも、神からも、世界からも取り戻して、そのうえで、俺の隣を選んでほしかった。
「欲張りだろう」
苦笑が漏れた。
「でも、もう綺麗な言葉に隠すのはやめる」
顔を上げて、その目を見た。
「愛している」
エリシアの瞳が、揺れた。
彼女は口を開いて——そこで、言葉を詰まらせた。
「好き」も「愛している」も、きっと言葉としては知っている。けれど今のエリシアは、辞書の中から正しい単語を選ぶ顔ではない。自分の胸の中を真剣に見つめて、慣れない感情に向き合っている顔だった。
そうして、恐らくいちばん本当のことだけを、告げた。
「……いなくならないで、ください」
声が、小さく震えている。
「あなたが、いなくなるのは……いやです。すごく、いやです」
うまく言えた、という顔ではない。むしろ、うまく言えないことに戸惑っている顔だ。
それが、たまらなく愛しかった。
それで、充分だった。それ以上の言葉など、世界のどこにも要らなかった。
「エリシア」
「……はい」
「触れてもいい?」
彼女は瞬きをした。意味を理解するまでに少しだけ時間がかかり、その間に頬が赤くなっていく。逃げる時間も考える時間もあった。
それでも、彼女は手を引かなかった。
「……はい」
小さく、けれど確かに頷く。
俺は、ゆっくりと顔を近づけた。今度は、あの廃墟の一瞬とは違う。術式のためでも命の写しのためでもない。彼女を救うために奪うのではなく、彼女が許した距離へ自分の意志で近づいた。
心臓の音が、握った手から伝わってくる。ありえない速さで鳴っていた。
俺のものか、彼女のものか、もう分からなかった。
唇を、ゆっくり重ねる。
やわらかくて、温かかった。
それだけで、胸の奥がほどけていく。
ただ、愛している人に触れている。
それが、こんなにも恐ろしくて、こんなにも甘いことだと、俺は知らなかった。
離すと、エリシアの顔が、燃えるように赤かった。
「……っ、あの、これは、その」
いつも考えてから言葉を紡ぐ彼女が、感情からくる咄嗟の言い訳の言葉を発していた。
「甘い、です」
「うん」
「なんで、ですか。お茶も、お菓子も、口にしていないのに……何かの、不具合……?」
俺は思わず笑った。
初冬から張り詰め続けていた何かが、初めて息を吐くようにほどけていった。
「不具合じゃないよ」
そう言って、もう一度、彼女の赤い頬を見た。
「……よかった」
小さくこぼれた。
「エリシアが、ここにいる」
それだけのことがまだ信じきれない。
「俺の手を握って、困った顔をして、甘いと言っている」
言葉にすると馬鹿みたいだった。
けれど、その馬鹿みたいな事実が、俺を息の出来る場所へ戻していく。
「ずっと、これが欲しかった」
エリシアが息を呑み、包んだ手を、ほんの少しだけ握り返してきた。
その小さな応えだけで、俺の怖さも欲も、少しは届いたのだと思いたくなった。そう考えてしまう程度には、もう浮かれていた。
弱さを見せても、彼女は俺から離れなかった。
それだけで、救われた。




