連れ帰る朝
夜が明けても、俺はエリシアを下ろさなかった。
レリクトゥムから王都までの帰路、馬車の揺れの中でも、腕の中の重みを手放せなかった。テオドールが「お疲れでしょう」と一度だけ手を伸ばしかけ、俺の顔を見て、静かに引っ込めた。姉を抱きたい気持ちは同じはずなのに、今だけは譲ってくれた。
下ろせば、また失う気がした。理屈ではない。度重なった恐怖を、心と身体がまだ手放してくれないのだ。
公爵邸の門をくぐったのは、陽が高くなる前。
正面玄関から入り、エリシアを抱えたまま、迷わず自分の住まう翼へ向かう。客間へ運ぶという発想は、なぜか少しも浮かばなかった。
俺の寝室の隣には、婚姻後に彼女が使う部屋がすでに整えられている。予定より先にそこへ連れ帰ることへ、邸の者は誰も異を唱えなかった。俺も、今さら遠い客間を選ぶ理由が思い浮かばなかった。
すれ違う侍従たちが、足を止める。
視線が、俺の髪に集まる。ちらちらと、けれど、まっすぐには見ない。金色だったはずのものが、白銀になっている。光の加減で虹を散らす、見慣れない色に。
誰も、何も言わなかった。
ラインハイト公爵家に仕える者は、訊いてはならないことを心得ている。主の息子が一晩で髪の色を変えて、意識のない伯爵令嬢を抱いて帰ってきた——その意味を、彼らは詮索しない。ただ、道を空け、深く礼をした。受け止めるべきものとして。
それでよかった。説明する気力は、もうなかった。
テオドールには、エリシアの部屋に近い客室をあてがった。本人は「姉様のそばに」と言いかけたが、
「お前も寝ろ」と俺は言った。「ずっと張り詰めていただろう。今度はお前が倒れる番だぞ」
テオドールが、少し驚いた顔をした。それから、年相応に、こくりと頷く。あの聖域の夜から、この子もまた、一睡もしていない。
*
エリシアを寝かせてから、父のもとへ報告に行った。
ランドルフ・フォン・ラインハイト。俺の父であり、この国の公爵。執務室の窓辺で、父はもう待っていた。報せより先に、気配で察していたのだろう。
「終わったか」
「終わりました」
それ以上の言葉は、しばらく要らなかった。父は俺の全身を一度だけ見て、最後に、髪のところで視線を止めた。
「その髪は」
率直に聞かれる。身内にだけ見せる、回りくどさのない問い方だった。
「命の写しの代償です」
父には隠さなかった。
「人ひとりの情報をまるごと自分の魔核に宿して、外へ写し取る術です。成すには——一度、その人になりきる必要がある。俺の地の色がエリシアの銀に上書きされた。金が、抜けました」
「一歩間違えれば」
「自我が、崩れていました」
父が、長く息を吐いた。
それから、片手で目元を覆って——笑った。呆れと、安堵と、もう一つ、名前のつかない何かが混じった笑いだった。
「禁術を、女神の理を、欺いて。自分が壊れるかもしれん橋を一人で渡ったわけだ」
「はい」
「無謀にもほどがある」
「はい」
「……まったく」父が、手を下ろした。「誰に似た」
あなたにです、とは言わなかった。言わなくても、父の顔がそう言っている。身内に甘く、敵に回せば怖い男。エリシアを実の娘のように猫可愛がりする男。その血が、俺の中にも流れている。
父が、窓の外へ目を移した。庭のどこか、エリシアの眠る翼の方へ。
「あの子は」
「眠っています。緊張が限界まで張り詰めていたんでしょう。しばらく目を覚まさないかもしれない」
「そうか」
短い沈黙のあと、父は言った。
「よくやった」
たった一言だった。けれど、その一言を父の口から聞いた時に、エリシアがすべての形で救われたのだと、心から実感した。
喉の奥が一瞬熱くなる。
それを見せまいと、俺は浅く頭を下げて執務室を出た。
*
エリシアの部屋では忙しなく人が出入りしていた。
医師が診察し、侍女たちが着替えと湯を整えている。必要なことは、必要な者へ任せた。俺に彼らの代わりができるとは思っていない。
ただ、全員が仕事を終えて部屋を出ようとしたとき、俺だけは動かなかった。
「ヴァレリウス様も、お休みください」
侍女頭に促され、寝台の脇を見る。そこに椅子が一脚あった。
「ここで休む」
「ご自室は、お隣でございます」
「知っている」
椅子を寝台のすぐ横へ寄せる。近すぎる気もしたが、離す理由が見つからなかった。
「ヴァレリウス様」侍女頭が、困った顔をしている。「お顔の色がよろしくありません。失礼ながら——三日はお休みになっていないかと」
「数えていない」
「なおのこと」
「医師も侍女も頼る。俺もここにいる。それでいいだろう」
父が様子を見に来て、呆れた顔をした。
「お前が倒れたら、目を覚ました時にエリシアが悲しむぞ」
「では、ここで寝ます」
「自室で寝ろ」
「起きたとき、すぐ声が届く位置がいい」
「隣室でも聞こえるように人を置く」
「俺が聞きたいんです」
そう主張すると、父と侍女頭が同じ顔で俺を見た。
テオドールまでもが客室から這い出てきて、灰色がかったアメジストの目で俺をじっと見た。
「義兄様。それは、看病ではなく、執着では」
「今さらだな」
「開き直らないでください。義兄様が干からびるのも心配です」
正論だった。子供のくせに、正論だった。
それでも、椅子から離れるという選択肢だけは浮かばなかった。父とテオドールは顔を見合わせ、最後には同時に溜息をついた。
「……毛布だけはお持ちします」
侍女頭が嘆息した。
「ああ」
「温かいお茶も」
「頼む」
医師と侍女は交代で彼女を診て、テオドールも何度も様子を見に来た。そのたびに俺も食事を取らされ、湯を使わされ、短い眠りを命じられた。従ったのは、俺が倒れれば目を覚ましたエリシアを心配させると、全員から同じことを言われたからだ。
それでも寝る場所だけは譲らなかった。
三日目の朝、医師が「もう心配はありません」と告げたあと、俺は寝台の傍らで椅子に腕を預け、ようやく深く目を閉じた。




