一〇〇パーセント
結界の抵抗が、ふっとほどけた。
テオドールだ。
踏み込む。
エリシアが振り向きかけた。アメジストの瞳が見開かれる。なぜ、と問う前の顔だった。
腕を引く。
細い肩が、抵抗もなく腕の中へ戻ってくる。
軽い。
こんなときに、まだそんなことを思った。
唇が触れた。
柔らかかった。
術式より先に、そのあまりに人間らしい感触が胸を貫いた。愛している人に、とうとう触れてしまった。
次の瞬間、最後の一パーセントが流れ込んできた。
手首の脈から採った波長。バングル越しに受け取った調律の揺れ。あの夜に切り取った髪の余熱。断片として積み上げてきたすべてが、今、唇から渡る生きた拍動と噛み合う。
彼女の生命が、共鳴の底ではなく、この世へ戻ろうと打った拍動だ。
彼女が選んだのは、生きることだ。その選択を、口づけへの許しにすり替えるつもりはない。けれど、許しを乞う猶予もなかった。俺は間に合わせるため、先に触れた。
その事実は、救命という名で軽くしてはいけない。すべてが終わったあと、彼女がどう受け取るかを、俺は受け止めなければならない。
今は、術式に集中する。
生光の最深部が、いま初めて写しの中へ収まった。表面からどれほど触れても取れなかったものが、彼女自身の生きようとする力によって開かれている。
一秒で、すべてが繋がった。
同時に、彼女の魔核が大きく動いた揺れへ、左耳の石が強く応えた。
熱い、ではなかった。
焼けた。
器の限界を超えた熱が左耳から脳を貫き、完成した命の写しが造光の内側を白く満たした。
白銀の、白だった。
その白の中で、生光、刻光、造光が一つの形へ結ばれる。この世でただ一人しか持たない彼女の調律が、造光の中に完全な写しとして満ちた。
順番を違えるな。預かったなら返せ。触れたのなら、生かせ。
まず治癒の術式を展開する。初冬から検証を重ね、失敗を許さない形へ組み直してきたものだ。
唇を離さないまま、彼女の魔核へ渡した。
魔核の周辺が立ち直っていく。
バングルを通してこちらへ逃がしていた負荷が、急速に軽くなる。左耳の石が伝える魔核の乱れも静まり、張り詰めていた三色が、本来の均衡へ戻っていく。
彼女の体が、彼女自身の温度へ戻っていく。
唇を、ゆっくりと離した。
エリシアが俺を見ている。
アメジストの瞳が揺れ、指先が自分の唇へ触れかけて止まった。頬には、かすかな色が差している。
救命だった。術式だった。最後の一パーセントを得るためだった。そのすべてが本当で、それでも彼女に触れたいと願っていたことまで、嘘にはできない。
だが、望んでいたのはこんな形ではなかった。愛を伝え、心を通わせ、そのうえで許された距離へ進みたかった。その願いまで叶ったような顔をする資格は、今の俺にはない。
謝ることも、説明することも、今はできない。
周囲が、異変に気づき始めている。
*
ヴォイドに右手を向けた。
ここから先は、俺の番だ。
エリシアは戻ることを選んだ。その選択を、世界に奪わせない。
造光を開く。
穴の底から滲む剥き出しの魔力を掴み、自分の中へ引き込む。冷たく荒い力が腕を這い上がるのを逃がさず、指先へ集めた。
結晶が生まれる。
一センチ。二センチ。
光を集めながら、形を取っていく。
紫銀の髪。
アメジストの瞳。
細い肩。
白い指先。
一〇〇パーセントの写しを、一片残らず結晶の格子へ刻み込む。
世界の理が求めているのは、エリシアという人間ではなく、三色を備えた完全な器だ。ならば、求める形だけを渡せばいい。彼女の姿に似せるほど胸は痛んだが、似ているほど、この結晶が彼女の代わりを果たし、エリシアが人間のまま、ここへ残れる。
どれほど似せたとしても、俺だけは、絶対に間違えない。
俺の隣で息をしているほうが、本物だ。
「これは——私ですか」
エリシアの声がした。自分と同じ顔を持つ結晶を見ている。
「そうだよ」
「本物と、同じですか」
「ヴォイドには、見分けられないよ」
迷いなく答えた。
そうでなければ意味がない。
完成に近づくにつれ、背骨に沿って白い火が走り、眩暈が視界を揺らした。髪の色、目の色、魔力の癖、息の深さまで、エリシアを形作る情報が俺の魔核へ満ち、自分の輪郭を内側からなぞり替えていく。
愛しい相手の情報であっても、一人分を完全に宿すことは恐ろしい。これが危険な術だということは、最初から知っていた。
血が近ければ自我ごと持っていかれる術だ。俺とエリシアの血は遠い。だから耐えられる。耐えなければならない。
俺はヴァレリウスだ。ラインハイトの次期公爵で、エリシアの隣に立ち、彼女を愛している一人の男だ。
彼女を救うために、俺が俺でなくなるわけにはいかない。
エリシアの視線が、結晶から俺の頭へ移った。アメジストの瞳が見開かれる。
「……だめです」
掠れた声だった。
「それ以上は」
彼女は気づいている。理屈まではわからなくても、俺が何かを支払っていることに気づいている。
自分の代償は作業の内側へ押し込んでしまう彼女が、俺の変化には声を上げた。
嬉しかった。こんなやり方でここまで運んだ俺を、彼女はまだ案じてくれている。守るための壁としてではなく、傷つけば失われる一人の人間として俺を見ている。
だが、その声を震わせたことまで喜んではいけない。
バングルの真実を告げたあの夕暮れから今日まで、自分の痛みが俺へ流れることを、彼女は間近で知ってきた。そして今、俺が自分を削っていく姿を、目の前で見ている。
痛いだろう。辛いだろう。大切な人を失うかもしれない痛みの側に、彼女はいま立っている。
——この光景が、いつかの彼女自身の姿と重なってくれればいい。
この怖さが、いつか自分を式の部品へ差し出そうとする手を止めてくれればいい。願わくば、俺という水鏡に自分を映して、自分を顧みることを覚えてほしい。
そのためにも、彼女を残して俺が欠けるわけにはいかない。
その決意が、俺を人間の側へ引き戻した。
手は止めない。ここで止めれば、支払ったものだけが残り、彼女を人間として返す道が失われる。
あと少し。
あと少しで、エリシアが堂々と生きられる。
結晶のエリシアが、目を開いた。
完成した。
「……間に合った」
声が掠れた。
世界が救われるからでも、理が完成したからでもない。ただ、エリシアを神の器にせず、一人の人間として残す形が間に合った。その安堵だけが、喉の奥から声になって零れた。




