俺のもとに、堕ちてきてくれ
レリクトゥムの奥に辿り着いたとき、空にはまだ夜の闇が残っていた。
夜明けまでに終わらせる。
そうでなければ、エリシアをもう一度奪われる。
廃墟の奥だけが、昼のように明るかった。中心から立ち昇る光が、砕けた柱の一本一本まで白々と照らし出している。頭上の夜と、足元の昼。交わらないはずの二つが、この場所では平然と同居していた。
崩れた回廊の先に、異様なほど整えられた一本の石畳が伸びていた。廃墟の中で、そこだけが祭壇のように磨かれている。その終着点を、白い影が弧を描いて取り囲んでいた。
枢機卿の本隊だ。
足の先まで隠れる純白のマント。目深のフード。背に淡く光る曼荼羅の魔法陣。血筋を持たない者がヴォイドの毒に灼かれず立つための聖衣。顔のない白い列が、廃墟の夜気の中に並んでいる。
逃げた先を追ってきたのではない。
最初からここで、エリシアを待っていた。
その中心に、ただ一人、フードも被らず素顔のまま立っている男がいる。
イグナティウス。
ラインハイトの分家の血。ヴォイドに灼かれない、選ばれた血筋。穏やかに微笑んでいた。客を迎えるように。花嫁を祭壇へ迎えるように。
その微笑みを見た瞬間、胸の奥で何かが焼き切れた。
この男は、エリシアを人間として見ていない。
それだけで十分だった。怒りが喉元まで込み上げる。あの穏やかな口を閉じさせたい。彼女の名を二度と儀式の言葉で呼ばせたくない。貴族としての躾がなければ、今すぐその胸倉を掴んでいただろう。
腕の中で、エリシアが身じろぎした。
細い体温が、俺の腕に戻ってくる。
その温もりに触れて、喉元までせり上がった怒りを、もう一度礼節の内側へ押し戻した。ここで怒りに任せて動けば、取り落とすのはイグナティウスではなく、エリシアだ。
エリシアが低く言った。
「……下ろしてください」
腕の中へ視線を落とした。
「歩ける?」
「はい」
一拍、迷った。
腕の内側から重みが消えることを惜しいと思った。これから死の縁へ立たせる男が、そこへ着くまでの温もりまで惜しんでいる。その身勝手さを自覚しながらも、彼女が自分の足で立つと望んだことの方を優先して、ゆっくりと腕を解いた。
素足が冷たい石を踏む。エリシアがかすかに身を震わせた。
靴を履かせてやれなかったことが、今さら胸に刺さる。エリシアを生かすため、あらゆる用意と綿密な調整をしてきた。それなのに、冷たい石から彼女の足を守ることさえできていない。
エリシアが前へ進み始める。
背後で、テオドールが石の床へ手をかざした。刻光が音もなく動く。
「結界の癖は掴みました」テオドールが言った。「ヴォイド周辺には部外者を近寄せない強い縛りがあります。合図と同時に、義兄様が阻まれない時間を作ります」
「どれくらいかかる」
「術式構築に二十秒。最後の引き金は、合図をいただければ一瞬です」
「さすがだ」
本当に、そう思った。
テオドールはエリシアの弟だ。血だけではなく、大切な人のためなら自分の年齢も立場も忘れ、世界の仕組みの隙間へ指を差し入れることさえためらわないところが、よく似ている。
テオドールが、一拍置いた。
「……姉様を、お願いします」
声がわずかに震えていた。
背を向けたまま、頷いた。
短い応答で、足りた。それだけの信頼は、互いに培ってきた。
長いあいだ、半身のように姉の痛みを知ってきた弟が、今この一瞬を俺に預けると言っている。その声に込められたものを、俺はしっかりと受け取った。
ヴォイドは、廃墟の中心にあった。
底の見えない縦穴から三つの色が立ち昇っている。
白銀、黄金、蒼。
生光と刻光と造光が一つの渦の中で絡み合い、螺旋を描く。継ぎ目に淡い緑と菫色が滲む。
真珠の内側のような、夜空のオーロラのような、底のない光の柱。
美しかった。
だからこそ、罠だった。
あの穴は三色を持つ存在を見つける。見つけたら引き込む。これが、エリシアを消そうとしているものだ。建国の女神さえ使い潰した理が、この底に眠っている。
命の写しは九十九パーセント。
最後の一パーセントは、安全な場所では浮かばない。命が脅かされ、それでもこの世へ戻ろうとする一瞬にだけ、最奥の拍動が表へ現れる。ついさっき、俺の腕の中では届かなかったものだ。
好機は一度しかない。それより前では届かず、それより後では間に合わない。
だから俺は、彼女をここまで運び、いま、その足が死の縁へ近づくことを止めない。
必要だからといって、正しい行為になるわけではない。愛している相手を生かすため、その相手へ一度、死の恐怖を与える。それがこの夜、俺の選んだ罪だった。
*
イグナティウスがこちらを見た。
「よくいらっしゃいました」
いつもと同じ、穏やかな声だった。
だが穏やかさの質が違う。品定めは終わっている。疑いも終わっている。残っているのは確信と信仰だけだ。
怒りが胸の底で、音もなく燃え上がる。
——後でいい。
今は、エリシアだ。
隣で、エリシアがヴォイドを見た。
白銀と黄金と蒼が螺旋を描く、底のない光の柱。
アメジストの瞳が光へ据えられたまま、表情の動きが消えた。左耳の石には、今までにない揺れだけが届く。
彼女の足が、ひとりでに動いた。
(引かれている)
選んだのではない。自己犠牲でもない。共鳴が意志の上から身体を引き込み、理屈で抗う余地まで奪っている。今ここで腕を掴んで引き戻しても、この呼び声が残る限り、何度でも彼女を奪いに来る。
「令嬢の魂の調律が、始祖の調律と合一する瞬間——それが始原の理の完成です。これ以上の神聖な昇華は、この国の歴史に存在しません」
イグナティウスの声が、静かに祭壇を満たす。
喉の奥が焼けた。ここで殴り飛ばせたらどれほど楽か。だが、あの声を黙らせたところで、穴の引力は消えない。
エリシアが一歩、踏み出す。
止めたい。その衝動を、拳の中へ押し込める。
待つしかない。彼女の生命そのものが引力へ抗い、この世へ戻る拍動を打つまで。
それは彼女の愛情を試すことではない。俺のところへ戻る必要さえない。テオドールの隣でも、まだ見ていない明日の朝でもいい。神の底ではない場所へ、生きて戻ろうとしてくれればいい。
最後の一パーセントだけは、俺がどれほど欲しくても奪えない。彼女の生命がこちらを選んだあとでしか、受け取ることができない。
もう一歩。
ヴォイドの光が彼女の素足を照らす。拳を握り締めた。爪が手のひらに食い込む。痛みが遠い。
戻ってきてくれ。
綺麗ごとはもういい。俺は、エリシアがいない世界なんて要らない。
俺のもとに、堕ちてきてくれ。
そのときだった。
彼女の足が止まった。
波長が揺れる。
穴へまっすぐ引かれていた三色の奥で、沈んでいた生光の最深部が強く脈打った。燃え上がるような拍動が、共鳴へ逆らって表へせり上がる。
(——来た)
エリシアが、自分の力で穴の引力へ抗った。生を渇望するほどの欲望なのか、未練なのか、それが何だったのかまでは分からない。だが、彼女の足が止まり、生命の拍動がこの世へ向き直ったことだけは、間違えようがなかった。
歓喜と安堵が一気に押し寄せる。胸が裂けそうだった。叫びたかった。抱きしめたかった。
だが、まだだ。
右手の手のひらを、背後へ向けた。
それだけで、テオドールには伝わる。
斥力を足元に展開した。
一秒で、全部が決まる。




