_……怒っていますか
門の向こうへ出た。
古い石の回廊だ。月明かりが崩れかけた柱の間から差し込んでいる。レリクトゥム・アステリア——女神が最後に辿り着いた場所。
空気が重い。肌の奥を何かがかすかに引いていく。ヴォイドの息だ。この奥に、同じ三色の者を誘う、彼女を消しかねないものがある。
テオドールが後から門を抜けてきた。
腕の中でエリシアがそっと目を開けた。冷たい夜気が彼女の頬に触れている。視線をずらしたとき、素足が宙にあることへ、ようやく気づいた。
靴を履かせる余裕もなく連れ出し、その足で廊下を走らせてしまった。必要な段取りはすべて整えたつもりで、こんな当たり前のことを見落としている。自分で思うほど、冷静ではなかった。
「——テオ」
エリシアが小さく呟く。弟を見つけた彼女の声には、安堵が滲んでいた。
「姉様」テオドールが、小さく頷いた。「ご無事で、よかった」
*
テオドールが声を落として言う。
「追跡の足が一拍遅れました」
「……どのくらい」
「三分です。転移門の封鎖令も、城門の封鎖も、発令から実行まで同じだけ遅れました」
三分。
偶然ではない。あの規模の聖騎士団が、手違いだけでそれだけの時間を失うはずがない。
(王が、遅らせた)
あの夜の約束を、王は果たした。この短い遅れがなければ、俺は彼女をここまで連れ出せなかった。国王としての立場をどれほど危うくして、その時間を差し出したのか、分からないほど子供ではない。
*
エリシアを抱えたまま歩き始める。
下ろさなかった。素足を冷たい石に触れさせたくない。それだけではなく、これから連れていく場所を思えば、そこまで彼女自身の足で歩かせることが、ひどく卑怯に思えた。運ぶと決めたのは俺だ。今から行く場所に彼女の意志は一つもない。
(顔を下げるな)
前だけを見る。
腕の中にエリシアがいる。顎を引けば、その顔がある。睫毛の影も、息の音も、これ以上ないほど近い。
命の写しは九十九パーセントまで満ちている。最後の一パーセントがどこにあるかも、今は分かっている。すぐ近くにあるのに、安全なままでは決して届かない。その渇きが、欠けた場所を熱のように意識させた。
だが、見ない理由はそれだけではない。
彼女の目を見れば、何も告げずにここまで運んできた自分が映る。俺を疑わず、腕の中で息をついてくれた彼女を、これから共鳴の中へ連れていく。その事実を正面から見たら、このまま引き返してしまいたくなる。
それでも引き返せない。前を向いたまま、レリクトゥムの奥へ足を進めた。
腕の中でエリシアがこちらを見上げる気配がする。
すぐそこに視線を感じる。それでも、顔を下げることができなかった。
「……怒っていますか」
低く、どこか遠慮がちな声だった。
足が止まりかける。
怒ってなどいない。怒られるべきなのは、俺の方だ。
「怒っていない」と答えれば、彼女はきっと次に、ではなぜ、と問う。今の俺は、その問いにだけは完璧な嘘を返せそうになかった。命の写しのことも、最後の一パーセントをどこで得るつもりなのかも、まだ話すことはできない。
(違う、エリシア)
沈黙が古い回廊の中に落ちる。
腕の中でエリシアが小さく呟く。
「……やっぱり、怒っているんだ」
その声が、ひどく寂しそうだった。
その誤解を解くことさえできない苦さが、胸に積もった。
せめて、ここにいると伝えるように、抱える腕へほんの少しだけ力を込めた。それが、今の俺にできる精一杯だった。
左耳の石が低く熱を持つ。腕の中で、エリシアの脈がわずかに速くなった。理由までは分からない。ただ、その小さな揺れだけを受け取り、俺は前へ進んだ。
*
エリシアを抱えたまま、レリクトゥムの奥へ歩いていく。
この先に枢機卿がいる。本隊と聖騎士団を従え、祭壇を整え、「女神の昇華」を待ち構えている。
だが、俺には造光があり、命の写しも、この腕の中ですでに九十九パーセントまで満ちていた。
残りの一パーセントは、あの穴の縁で、エリシアが共鳴に抗う一瞬にしか現れない。俺はその一瞬を取り落とさず、写しを完成させ、この夜を終わらせる。
エリシアを、人間の側へ連れ戻す。すべてを知った彼女が、二度と俺を信じなくなったとしても。
月明かりが古い石の床を静かに照らしていた。
腕の中の温もりは、疑いようもなく生きている。その命を守るために、俺は彼女を死の縁へ運んでいた。




