連れて行く、そして連れ戻す
髪を採取した夜から二日。
その二日も、まともには眠れなかった。
夜明けまで、もう時間がない。移送が始まれば、聖域から彼女を奪い返す機会は失われる。
今夜で終わらせる。
地下道の突き当たり、先夜と同じ花の壁の前にテオドールと並んで立つ。石に咲いたアステリアの花は、今夜も息を潜めるように沈黙していた。
テオドールが壁に手を当てる。
「先夜の書き換えは一時的なものです」静かな声だった。「今夜のためにもう一度——完全に解きます。聖域側の倉庫の壁も含めて」
「どれくらいかかる」
「三十秒」
テオドールは、さらに声を落とした。
「もう一つ。移送は夜明け後に予定されています。今夜が最後の機会です」灰色がかったアメジストが灯りを映す。「姉様が部屋を出た瞬間、封鎖の報せが走ります。その報せが命令に変わるまでに書き換えを差し込む。——最初から何もなかったことにします」
「どれくらい稼げる」
「術式の反応速度次第です」一拍置いて、テオドールは続けた。「ただ封鎖が動くより先に外へ出る必要があります。僕の術だけでは厳しい——王の三分次第です」
三分。あの夜、王が約束した、あの三分だ。
*
テオドールの目が細くなる。刻光が動く気配がした。音はない。光もほとんどない。ただ壁の花の紋様が呼吸するように一度だけ淡く灯る。
「終わりました」テオドールが言った。「行きます。今夜は僕も中へ入ります。倉庫の壁の前で待ちます。——姉様を連れて戻ってきてください」
首飾りを取り出す。アメジストが灯りの中で静かに光る。先夜と同じ冷たさ。その奥に、まだ死んでいない余熱がある。
中央から左寄りの一輪に押し当てた。
光が——折り畳まれた。
*
聖域の倉庫だった。
木箱と聖具が積まれた、先夜と同じ狭い石室だ。
(静かだ)
前に来たときより気配が薄い。枢機卿の本隊はすでにレリクトゥムへ発っていた。「女神の昇華」の祭壇を整えるために。聖域に残ったのは最低限の留守番だけだ。
テオドールが隣に降り立つ。
「倉庫の壁の前で待ちます」声を落とす。「左の最端の花——あれがレリクトゥムへ繋がっています。姉様を連れて戻ったらすぐに跳びます」
「わかった」
廊下の先に騎士の気配が三つ。テオドールの書き換えた結界は俺の侵入の痕跡を拾わない。術式の目に俺は映らない。
だが、人の目は別だ。
斥力を展開した。
足元に魔力と物質の反発を敷く。造光を強く通した瞬間、左耳が鋭く焼けたが、今は構っていられない。
三歩で間合いを詰め、声を上げられる前に三人の意識を落とした。騎士たちは壁へ滑り、折り重なるように崩れた。命令に従っているだけの者を殺す理由はない。
先夜に辿った道を上階へ急ぐ。エリシアの部屋は三階の東端だ。近づくにつれて、左耳の石が少しずつ熱を強めていく。分かるのは、彼女の魔核が今も動いているということだけで、それ以上は要らなかった。
*
扉を開けた。
白い天蓋。厚い絨毯。棚に並ぶ聖像の列。先夜見た、美しすぎる檻だ。ひとりの娘を女神として祀り、自由だけを奪った部屋に、彼女は四日ものあいだ閉じ込められていた。その事実に、奥歯が軋んだ。
月明かりの中にエリシアがいる。寝台の上で半身を起こし、まっすぐこちらを見ている。
目が合う。
その瞬間、強張っていたアメジストの目元がふっとほどけ、頬からもわずかに力が抜けた。
来ると、思っていてくれたのだろうか。
そうであってほしいと願ってしまう程度には、その小さな変化が嬉しかった。
俺が何とかすると言った。何をするのかも明かさない約束を、それでもここまで手放さずにいてくれたのなら、その信頼に応えたい。だが俺は、まだ肝心なことを何ひとつ話していない。
嬉しさと苦さが、同じ場所で胸を締めつけた。
「立てる?」
「立てます」
その声を聞けただけで、肺の底まで息が戻る気がした。
「行こう」
廊下の向こうから足音が来る。増援だ。想定より速い。
斥力をもう一段展開し、エリシアの左手首を取って走り出した。
*
彼女を引いて階段を降りた。
斥力の引きに身体を合わせ、一歩ごとにこちらのリズムを読んで足を運んでくる。混乱してもおかしくない状況で、エリシアは余計な問いを挟まず、まっすぐついてきた。その迷いのない足取りが手首越しに伝わるたび、こんな細い身体ひとつに世界が勝手な意味を背負わせていることが、改めて腹立たしかった。
誰かの器になど、させない。
倉庫への通路。騎士の足音が近い。
角を折れた。テオドールが花の壁の前で待っている。
「間に合いました」
「エリシア」
名前を呼ぶのとほとんど同時に、抱き上げた。




