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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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月下の簒奪

テオドールと連れ立って、城の地下へ降りた。


地下道の突き当たり。行き止まりの石壁が、夜の底で沈黙していた。


テオドールが、その前に立つ。


指先を、石へ添えた。刻光(こくこう)が細い金の糸になって、壁を伝う。壁に刻まれた封印の順序だけを、封じられる一つ前へ——静かに、巻き戻していく。


——咲いた。


石壁いちめんに、花が開いた。


結晶で象られたアステリアの花が、凹凸を持って連なっている。花弁の一枚ずつが無数の細線でかたどられ、その奥に光の骨格を透かせていた。職人の彫りではない。女神が、術式そのものを石に咲かせたのだ。三原色の交わる文様は生きているようで、灯りの角度ごとに陰影が静かに移ろう。


この壁を開くのは、テオドールも今夜が初めてのはずだった。それを、迷いのない指でやってのける。


首飾りを取り出した。


女神アステリア以外がこれを使うのは、建国以来、おそらく今夜が初めてだ。


中央から左寄りの一輪——その花に、首飾りを押し当て魔力を通した。


光が、折り畳まれた。


空間が一点へ収縮し、向こう側に別の場所が滲む。石の壁。木箱と聖具の積まれた、狭い倉庫だ。


踏み込む間際、一度だけ振り返った。


テオドールが、花の壁を背に立っていた。夜の陰に、自分ごと壁を沈めて。ここで術を保ち、守って待つ——それが、この弟の今夜の戦場だった。


踏み込んだ。


ピアスが、低く熱を持つ。


警備の目をかいくぐり、上階の東側へ進む。近づくほど、聖域の空気に混じる彼女の魔核の揺れが、左耳に熱を返した。


廊下を滑った。音はない。月明かりが石の床に縞を落としていた。


    *


扉の前で、止まった。


内側から、低い熱が返る。眠っているのだろう。扉越しに分かるのは、魔核がまだ小さく動いていることだけだった。


鍵は、テオドールが巻き戻した結界——錠の記録の中にある。


扉が、音もなく開いた。


    *


月明かりが、部屋の中へ差し込んでいた。


広い部屋だった。


白い天蓋が頭上に広がり、厚い絨毯(じゅうたん)が月の光を吸っている。棚に聖遺物の小像が整然と並び、香炉の残り香が空気に溶けていた。花台の白百合が、月明かりの中で静かに首を垂れている。祈りのための部屋だ。それも、最も高い位の。


女神の器として、丁重に遇している。


そのことが、冷たい石の牢よりも、よほど腹の底を冷やした。


ひとりの娘ではなく、女神として閉じ込められている。


愛されているのではない。


祀られている。


エリシアが、その寝台で眠っていた。


斥力で身を浮かせたまま、足音もなく近づく。


(……髪が)


短い。腰まであった紫銀が、肩の少し下で途切れていた。


それを見た瞬間、ピアスが冷えた。


——また、だ。


また彼女は、自分の一部を支払った。


あの改修の代償だ。魔力で足りない分を、髪で埋めたのだろう。痛みがないなら問題ないとでもいうように。生きているから大丈夫だとでもいうように。


短く途切れたこの髪が、その証だった。


もう二度と一人で支払わせたくないと、あの日に決めた。それでも俺は、まだ間に合っていない。


胸の奥が、焼ける。


肩の下で不揃いに終わった紫銀が、枕に流れていた。月の光の中で、かすかに色を揺らしている。


衣の内から、小さな鋏を取り出した。刃が月光を受けて、一瞬だけ白く光る。


床へ足音を落とさないまま、その髪へ刃を寄せた。肌には触れない。触れれば、起きる。


彼女を救うためだという言葉で、この手が許されるわけではない。許されないまま、俺はそれを選ぶ。


ちり、と——


刃が、毛束を噛んだ。ほんの小さな束。指先に収まるほどの。


その音だけが、部屋に落ちた。


    *


手のひらを閉じた。


指先に、わずかな造光(ぞうこう)を通す。


皮膚の温度。生光(せいこう)の波。たった今切り離したばかりの髪は、まだ彼女の魔核の形を抱いていた。


(温かい)


流れ込んでくる。生光、刻光、造光。エリシアだけの調律の形が、指先から鮮明に滲み入る。


九十九パーセント。


完成まで、あと一パーセント。


だが、その最後の一パーセントだけが、どうしても届かない。


エリシアを救うと決めた日から積み重ねた、すべての接触。手首の脈。バングル越しの波。そして今、この髪の余熱。全部を集めて、なお、一パーセントが欠けている。


理由は、わかっていた。


最後の一片は、生光の最も深い底にある。生命の躍動そのものだ。表面からは取れない。触れても取れない。


唇でしか、取れない。


今ここで奪うものではない。

眠る彼女から盗めるものでもない。


(間に合わせる)


手のひらの中で、髪が温かく収まった。


ピアスが、冷たく光る。


    *


エリシアの寝顔を、一度だけ見た。


肩の下で不揃いに切れた髪が、月明かりに溶けている。アメジストの目は閉じていた。穏やかな顔だ。演算の余熱が、まだ頬にほのかに残っている。


名前を呼びたかった。


呼べば、目が開く。アメジストがこちらを向く。彼女の声が、この部屋に戻る。


(呼ばない)


呼べない。今夜呼べば、彼女は理由を聞く。答えを探す。命の写しが俺を削る術だと知れば、エリシアは俺に続けさせない。


俺が危ない橋を渡るくらいなら、自分がヴォイドへ向かう道を選ぶかもしれない。


いや。


そう考えてしまう程度には、俺は怖れている。


それだけは、選ばせたくない。


すぐ傍にいる。手を伸ばせば届く。それなのに、俺は名前ひとつ呼べずに、髪だけを盗んで帰る。


最低な男だ。


    *


扉まで戻り、最後に一度、振り返った。


月明かりの中で、エリシアが寝返りを打った。


手が、枕の上を探る。


——何かを探すように、指先が動いた。


そこにあったはずの髪か、温度か、誰かの気配か。何を探しているのかは分からない。ただ、指先だけが月明かりの中で迷っていた。


その無防備な手のひらに、胸を抉られる。


もし今、彼女が俺を求めているのなら。


その相手は、たった今、すぐ傍にいた。


言ってやれない。


今は、まだ。


    *


廊下を斥力で滑った。


倉庫へ戻る。石壁の花の前に立ち、首飾りを取り出した。中央から右寄りの一輪へ、押し当てる。


光が、折り畳まれた。


城の地下道へ出た。


テオドールが、壁を背にしたまま、待っていた。


俺の姿を認めて、張り詰めていた肩が、わずかに緩む。だが指は止まらなかった。指先が石を辿り、開いたときと逆の順序で、封印を編み直していく。花が閉じ、壁が、ただの壁に戻った。今夜ここで何があったか、もう誰にも読めない。


夜明けまで、あとわずかだった。


テオドールは、俺の拳を一度だけ見て、何も言わなかった。


この弟は、知っている。この拳の中身も、それをどう手に入れたかも。だから、何も言わない。


ピアスが、左耳で低く疼く。


手のひらの中の髪は、まだ少し温かかった。


九十九パーセント。


残りの一パーセントは——彼女が生きて、ここを出たあとで。必ず。


夜明け前の石畳を、音もなく進み始めた。

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