月下の簒奪
テオドールと連れ立って、城の地下へ降りた。
地下道の突き当たり。行き止まりの石壁が、夜の底で沈黙していた。
テオドールが、その前に立つ。
指先を、石へ添えた。刻光が細い金の糸になって、壁を伝う。壁に刻まれた封印の順序だけを、封じられる一つ前へ——静かに、巻き戻していく。
——咲いた。
石壁いちめんに、花が開いた。
結晶で象られたアステリアの花が、凹凸を持って連なっている。花弁の一枚ずつが無数の細線でかたどられ、その奥に光の骨格を透かせていた。職人の彫りではない。女神が、術式そのものを石に咲かせたのだ。三原色の交わる文様は生きているようで、灯りの角度ごとに陰影が静かに移ろう。
この壁を開くのは、テオドールも今夜が初めてのはずだった。それを、迷いのない指でやってのける。
首飾りを取り出した。
女神アステリア以外がこれを使うのは、建国以来、おそらく今夜が初めてだ。
中央から左寄りの一輪——その花に、首飾りを押し当て魔力を通した。
光が、折り畳まれた。
空間が一点へ収縮し、向こう側に別の場所が滲む。石の壁。木箱と聖具の積まれた、狭い倉庫だ。
踏み込む間際、一度だけ振り返った。
テオドールが、花の壁を背に立っていた。夜の陰に、自分ごと壁を沈めて。ここで術を保ち、守って待つ——それが、この弟の今夜の戦場だった。
踏み込んだ。
ピアスが、低く熱を持つ。
警備の目をかいくぐり、上階の東側へ進む。近づくほど、聖域の空気に混じる彼女の魔核の揺れが、左耳に熱を返した。
廊下を滑った。音はない。月明かりが石の床に縞を落としていた。
*
扉の前で、止まった。
内側から、低い熱が返る。眠っているのだろう。扉越しに分かるのは、魔核がまだ小さく動いていることだけだった。
鍵は、テオドールが巻き戻した結界——錠の記録の中にある。
扉が、音もなく開いた。
*
月明かりが、部屋の中へ差し込んでいた。
広い部屋だった。
白い天蓋が頭上に広がり、厚い絨毯が月の光を吸っている。棚に聖遺物の小像が整然と並び、香炉の残り香が空気に溶けていた。花台の白百合が、月明かりの中で静かに首を垂れている。祈りのための部屋だ。それも、最も高い位の。
女神の器として、丁重に遇している。
そのことが、冷たい石の牢よりも、よほど腹の底を冷やした。
ひとりの娘ではなく、女神として閉じ込められている。
愛されているのではない。
祀られている。
エリシアが、その寝台で眠っていた。
斥力で身を浮かせたまま、足音もなく近づく。
(……髪が)
短い。腰まであった紫銀が、肩の少し下で途切れていた。
それを見た瞬間、ピアスが冷えた。
——また、だ。
また彼女は、自分の一部を支払った。
あの改修の代償だ。魔力で足りない分を、髪で埋めたのだろう。痛みがないなら問題ないとでもいうように。生きているから大丈夫だとでもいうように。
短く途切れたこの髪が、その証だった。
もう二度と一人で支払わせたくないと、あの日に決めた。それでも俺は、まだ間に合っていない。
胸の奥が、焼ける。
肩の下で不揃いに終わった紫銀が、枕に流れていた。月の光の中で、かすかに色を揺らしている。
衣の内から、小さな鋏を取り出した。刃が月光を受けて、一瞬だけ白く光る。
床へ足音を落とさないまま、その髪へ刃を寄せた。肌には触れない。触れれば、起きる。
彼女を救うためだという言葉で、この手が許されるわけではない。許されないまま、俺はそれを選ぶ。
ちり、と——
刃が、毛束を噛んだ。ほんの小さな束。指先に収まるほどの。
その音だけが、部屋に落ちた。
*
手のひらを閉じた。
指先に、わずかな造光を通す。
皮膚の温度。生光の波。たった今切り離したばかりの髪は、まだ彼女の魔核の形を抱いていた。
(温かい)
流れ込んでくる。生光、刻光、造光。エリシアだけの調律の形が、指先から鮮明に滲み入る。
九十九パーセント。
完成まで、あと一パーセント。
だが、その最後の一パーセントだけが、どうしても届かない。
エリシアを救うと決めた日から積み重ねた、すべての接触。手首の脈。バングル越しの波。そして今、この髪の余熱。全部を集めて、なお、一パーセントが欠けている。
理由は、わかっていた。
最後の一片は、生光の最も深い底にある。生命の躍動そのものだ。表面からは取れない。触れても取れない。
唇でしか、取れない。
今ここで奪うものではない。
眠る彼女から盗めるものでもない。
(間に合わせる)
手のひらの中で、髪が温かく収まった。
ピアスが、冷たく光る。
*
エリシアの寝顔を、一度だけ見た。
肩の下で不揃いに切れた髪が、月明かりに溶けている。アメジストの目は閉じていた。穏やかな顔だ。演算の余熱が、まだ頬にほのかに残っている。
名前を呼びたかった。
呼べば、目が開く。アメジストがこちらを向く。彼女の声が、この部屋に戻る。
(呼ばない)
呼べない。今夜呼べば、彼女は理由を聞く。答えを探す。命の写しが俺を削る術だと知れば、エリシアは俺に続けさせない。
俺が危ない橋を渡るくらいなら、自分がヴォイドへ向かう道を選ぶかもしれない。
いや。
そう考えてしまう程度には、俺は怖れている。
それだけは、選ばせたくない。
すぐ傍にいる。手を伸ばせば届く。それなのに、俺は名前ひとつ呼べずに、髪だけを盗んで帰る。
最低な男だ。
*
扉まで戻り、最後に一度、振り返った。
月明かりの中で、エリシアが寝返りを打った。
手が、枕の上を探る。
——何かを探すように、指先が動いた。
そこにあったはずの髪か、温度か、誰かの気配か。何を探しているのかは分からない。ただ、指先だけが月明かりの中で迷っていた。
その無防備な手のひらに、胸を抉られる。
もし今、彼女が俺を求めているのなら。
その相手は、たった今、すぐ傍にいた。
言ってやれない。
今は、まだ。
*
廊下を斥力で滑った。
倉庫へ戻る。石壁の花の前に立ち、首飾りを取り出した。中央から右寄りの一輪へ、押し当てる。
光が、折り畳まれた。
城の地下道へ出た。
テオドールが、壁を背にしたまま、待っていた。
俺の姿を認めて、張り詰めていた肩が、わずかに緩む。だが指は止まらなかった。指先が石を辿り、開いたときと逆の順序で、封印を編み直していく。花が閉じ、壁が、ただの壁に戻った。今夜ここで何があったか、もう誰にも読めない。
夜明けまで、あとわずかだった。
テオドールは、俺の拳を一度だけ見て、何も言わなかった。
この弟は、知っている。この拳の中身も、それをどう手に入れたかも。だから、何も言わない。
ピアスが、左耳で低く疼く。
手のひらの中の髪は、まだ少し温かかった。
九十九パーセント。
残りの一パーセントは——彼女が生きて、ここを出たあとで。必ず。
夜明け前の石畳を、音もなく進み始めた。




