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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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終わらせるための始まり

エリシアが神殿聖域へ連れ去られて、二日。


その二日、まともに眠っていない。


眠れるはずがなかった。


召喚は、夜半に来た。


正式な召喚状ではない。封も署名もなく、ただ「来い」とだけ記された一枚が、信のおける手から渡った。


それだけで足りた。


(時が来た)


説明はいらない。交わすべきことは、あの夜にすべて交わした。ヴォイドの底に眠るもの。俺のエゴ。そして、王が約束してくれた三分。


今夜の召喚は、その続きではない。


終わらせるための始まりだ。


斥力を展開する。石畳を音もなく滑る。左耳が熱い。あの朝から、ピアスの疼きが変わっていた。いつもの一定の痛みに、波が混じる。高く、低く。不規則に。


(演算しているのか)


疼きの形が、ただの不調とは違う。深く潜る日の揺れに近い。檻の中でもなお、世界の綻びへ手を伸ばしているのだろうと、長く彼女を見てきた身体が、そう告げていた。


届くのは痛みだけだ。声は届かない。触れられない。何を見ているのか、何を削っているのか、俺には分からない。


分からないことが、腹の底を冷やしていく。


それでも、彼女を思うことだけはやめなかった。届くはずがないと分かっていても、せめて心だけは、彼女に寄り添っていたかった。


王の私室の前に立ち、扉を叩いた。


「入れ」


    *


私室は、小さかった。


書類と地図が積み上がった質素な部屋。魔力灯が一灯。あの夜の小謁見(えっけん)室と同じ、深い静けさだけがあった。窓際の椅子に、王が座っていた。今夜は窓の外へ目を向けている。夜の王都が、遠く静かに広がっていた。


俺の足音を聞いても、振り返らない。


俺はその背に、黙って一礼した。


今夜の沈黙は、あの夜の続きだ。王が国を背負い、俺がその前で一つの我儘を貫こうとしている、その重さだけがあった。


「……来たか」


「来ました」


「今日、中央の聖域が書き換えられた」王の声が、わずかに沈む。「六百年、誰も閉じられなかった綻びを——あの娘が、たった一人で」


左耳が、昼に一度だけ、焼けるように跳ねた。


あの瞬間だったのかもしれない。


彼女はまた、俺の知らない場所で、世界の傷口へ素手で触れていた。その無茶を、身体の奥が先に理解していた。


王は結果を知っている。だが、その代償までは知らないはずだ。あれだけの改修が、魔力だけで足りたとは思えない。足りなかったなら、エリシアは自分の一部を支払いに回しかねない。


息をするように、淡々と。


死ぬ気ではない。


だからこそ、怖い。


生き残れると見積もったうえで、失ってよいものを当然のように差し出す。その当然が、俺には耐えがたい。


「次は、レリクトゥムへ連れていく気だ」


「わかっています」


短い言葉だけが、暗がりに置かれた。尋問でも、確認でもない。ただ互いに、今夜が何の夜かを、声に出して確かめていた。


王が、立ち上がった。


棚の奥へ手を伸ばす。探すまでもなく、迷うまでもなく。ずっとそこに在ったものを、ただ取り出した。


小さな木箱だった。


古い木の香りがした。側面に、三原色の紋様が彫り込まれている。生光(せいこう)、刻光(こくこう)、造光(ぞうこう)の交わり。建国の時代の手跡だ。


王は机に置き、蓋を開けた。


首飾りが、横たわっていた。


くすんだ銀の台座に、アメジストの結晶が収まっている。深い紫が、灯りを受けて静かに澄んだ。台座を囲む細工に、光の花弁を模した文様が刻まれていた。女神が自ら組んだ術式が、石の奥に眠っている。六百年、誰も触れなかったものの静けさを纏っていた。


「プリズマ・ポルタ——アステリアが身に着けていた、移動の装置だ」


王の声が、低く落ちる。


「女神が足を運んだすべての聖域に繋がる。使い方はテオドールに聞け。あれが熟知している。——レリクトゥム・アステリアへ、枢機卿(すうききょう)に知られず行ける、唯一の道だ」


テオドール、と王が迷いなく口にした。


驚きはない。あの夜、王の「お前もそう言うか」で、テオドールが俺より先に王の前へ進み出ていたことは知っている。地下で交わした盟約も、もう揺るがない。


——だが、女神の遺物の使い方まで熟知している、とは。


六百年、王家の最奥に眠っていたものだ。それを、なぜテオドールが。やはり、俺の見えないどこかで、テオドールは俺の知らない線を引いている。


全部終わったあとで、残らず聞かせてくれ——あの夜のそれが、今になって、また胸の奥で低く鳴った。


だが、今は追わない。今はエリシアだ。


十三の子供に、王家の最奥と退路を預ける。正気なら止めるべきだ。だが、正気の手だけではエリシアを連れ戻せない。


この弟が示す道を、信じて進む。


そうするしかない。


手を伸ばし、首飾りを取った。


冷たかった。六百年の眠りの冷たさだ。それでも、指先にかすかな余熱がある。死んではいない。眠っているだけだ。


(使える)


王が、窓から視線を外し、初めてこちらを見た。タンザナイトの目が、灯りの中にあった。あの夜と同じ目だ。建前の鎖を知り尽くした上で、それでも一度だけ、静かに引き千切ろうとしている男の目。


「余にできるのは、もう、それを渡すことと——三分だけだ」


あの夜の約束が、低く繰り返された。多くは言わない。言えば、互いの覚悟が安くなる。


「充分です」


俺は首飾りを、手のひらに包んだ。


その奥で、あの夜の言霊が静かに鳴っている。お前のエゴで、彼女を人間に引き戻せ——命令でも懇願でもない、この国でただ一人、俺に言える立場の男が託した、たった一つの言葉が。


王は、再び窓の外を見た。動かない王都の灯り。


「行け」


それだけだった。


俺は頭を下げ、闇へ退いた。


    *


王の私室を出て、廊下の角を折れた。


影の中に、人影があった。


「お待ちしていました」


テオドールだった。灰色がかったアメジストの目が、灯りを弾いている。紫みの黒髪が夜に溶けていた。年齢に似合わぬ静けさで、廊下の端に佇んでいる。


言葉は要らなかった。今夜の段取りは、地下で坩堝(るつぼ)を挟んだあの夜に、もう組み上げてある。


俺が偽物を作る。

テオドールが、俺を人間の側へ繋ぎ止める。


その役割は、あの空の坩堝の前で決まった。


「首飾りは」テオドールが目だけで木箱の在り処を確かめる。「お渡しいただけましたね」


「ああ」


「では、城の地下へ。花の壁があります。プリズマ・ポルタに応える転移門です。封じられていますが——刻光で、封じる前へ巻き戻せます」


「痕跡は」


「消せます」テオドールが一拍置いた。「今夜持ち出すのは、姉様の髪だけ。それくらい小さなものなら——通った跡ごと、なかったことにできます」


俺は答えなかった。


採るのが髪だと、言わずとも通じている。この弟は、何もかも承知の上で、ここに立っている。


姉を救うために、姉の髪を盗ませる。


その残酷さを、俺たちはどちらも口にしなかった。


「中央から左の花に首飾りを。聖域の倉庫へ直に出ます。帰りは、倉庫の壁の中央右の花から、この地下へ」テオドールの声が、わずかに低くなる。「動けるのは、十分」


「お前は」


「ここで待ちます」灰色のアメジストが、灯りを映して静かに光った。「——無事に、帰ってきてください」


俺は、ただ頷いた。


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