終わらせるための始まり
エリシアが神殿聖域へ連れ去られて、二日。
その二日、まともに眠っていない。
眠れるはずがなかった。
召喚は、夜半に来た。
正式な召喚状ではない。封も署名もなく、ただ「来い」とだけ記された一枚が、信のおける手から渡った。
それだけで足りた。
(時が来た)
説明はいらない。交わすべきことは、あの夜にすべて交わした。ヴォイドの底に眠るもの。俺のエゴ。そして、王が約束してくれた三分。
今夜の召喚は、その続きではない。
終わらせるための始まりだ。
斥力を展開する。石畳を音もなく滑る。左耳が熱い。あの朝から、ピアスの疼きが変わっていた。いつもの一定の痛みに、波が混じる。高く、低く。不規則に。
(演算しているのか)
疼きの形が、ただの不調とは違う。深く潜る日の揺れに近い。檻の中でもなお、世界の綻びへ手を伸ばしているのだろうと、長く彼女を見てきた身体が、そう告げていた。
届くのは痛みだけだ。声は届かない。触れられない。何を見ているのか、何を削っているのか、俺には分からない。
分からないことが、腹の底を冷やしていく。
それでも、彼女を思うことだけはやめなかった。届くはずがないと分かっていても、せめて心だけは、彼女に寄り添っていたかった。
王の私室の前に立ち、扉を叩いた。
「入れ」
*
私室は、小さかった。
書類と地図が積み上がった質素な部屋。魔力灯が一灯。あの夜の小謁見室と同じ、深い静けさだけがあった。窓際の椅子に、王が座っていた。今夜は窓の外へ目を向けている。夜の王都が、遠く静かに広がっていた。
俺の足音を聞いても、振り返らない。
俺はその背に、黙って一礼した。
今夜の沈黙は、あの夜の続きだ。王が国を背負い、俺がその前で一つの我儘を貫こうとしている、その重さだけがあった。
「……来たか」
「来ました」
「今日、中央の聖域が書き換えられた」王の声が、わずかに沈む。「六百年、誰も閉じられなかった綻びを——あの娘が、たった一人で」
左耳が、昼に一度だけ、焼けるように跳ねた。
あの瞬間だったのかもしれない。
彼女はまた、俺の知らない場所で、世界の傷口へ素手で触れていた。その無茶を、身体の奥が先に理解していた。
王は結果を知っている。だが、その代償までは知らないはずだ。あれだけの改修が、魔力だけで足りたとは思えない。足りなかったなら、エリシアは自分の一部を支払いに回しかねない。
息をするように、淡々と。
死ぬ気ではない。
だからこそ、怖い。
生き残れると見積もったうえで、失ってよいものを当然のように差し出す。その当然が、俺には耐えがたい。
「次は、レリクトゥムへ連れていく気だ」
「わかっています」
短い言葉だけが、暗がりに置かれた。尋問でも、確認でもない。ただ互いに、今夜が何の夜かを、声に出して確かめていた。
王が、立ち上がった。
棚の奥へ手を伸ばす。探すまでもなく、迷うまでもなく。ずっとそこに在ったものを、ただ取り出した。
小さな木箱だった。
古い木の香りがした。側面に、三原色の紋様が彫り込まれている。生光、刻光、造光の交わり。建国の時代の手跡だ。
王は机に置き、蓋を開けた。
首飾りが、横たわっていた。
くすんだ銀の台座に、アメジストの結晶が収まっている。深い紫が、灯りを受けて静かに澄んだ。台座を囲む細工に、光の花弁を模した文様が刻まれていた。女神が自ら組んだ術式が、石の奥に眠っている。六百年、誰も触れなかったものの静けさを纏っていた。
「プリズマ・ポルタ——アステリアが身に着けていた、移動の装置だ」
王の声が、低く落ちる。
「女神が足を運んだすべての聖域に繋がる。使い方はテオドールに聞け。あれが熟知している。——レリクトゥム・アステリアへ、枢機卿に知られず行ける、唯一の道だ」
テオドール、と王が迷いなく口にした。
驚きはない。あの夜、王の「お前もそう言うか」で、テオドールが俺より先に王の前へ進み出ていたことは知っている。地下で交わした盟約も、もう揺るがない。
——だが、女神の遺物の使い方まで熟知している、とは。
六百年、王家の最奥に眠っていたものだ。それを、なぜテオドールが。やはり、俺の見えないどこかで、テオドールは俺の知らない線を引いている。
全部終わったあとで、残らず聞かせてくれ——あの夜のそれが、今になって、また胸の奥で低く鳴った。
だが、今は追わない。今はエリシアだ。
十三の子供に、王家の最奥と退路を預ける。正気なら止めるべきだ。だが、正気の手だけではエリシアを連れ戻せない。
この弟が示す道を、信じて進む。
そうするしかない。
手を伸ばし、首飾りを取った。
冷たかった。六百年の眠りの冷たさだ。それでも、指先にかすかな余熱がある。死んではいない。眠っているだけだ。
(使える)
王が、窓から視線を外し、初めてこちらを見た。タンザナイトの目が、灯りの中にあった。あの夜と同じ目だ。建前の鎖を知り尽くした上で、それでも一度だけ、静かに引き千切ろうとしている男の目。
「余にできるのは、もう、それを渡すことと——三分だけだ」
あの夜の約束が、低く繰り返された。多くは言わない。言えば、互いの覚悟が安くなる。
「充分です」
俺は首飾りを、手のひらに包んだ。
その奥で、あの夜の言霊が静かに鳴っている。お前のエゴで、彼女を人間に引き戻せ——命令でも懇願でもない、この国でただ一人、俺に言える立場の男が託した、たった一つの言葉が。
王は、再び窓の外を見た。動かない王都の灯り。
「行け」
それだけだった。
俺は頭を下げ、闇へ退いた。
*
王の私室を出て、廊下の角を折れた。
影の中に、人影があった。
「お待ちしていました」
テオドールだった。灰色がかったアメジストの目が、灯りを弾いている。紫みの黒髪が夜に溶けていた。年齢に似合わぬ静けさで、廊下の端に佇んでいる。
言葉は要らなかった。今夜の段取りは、地下で坩堝を挟んだあの夜に、もう組み上げてある。
俺が偽物を作る。
テオドールが、俺を人間の側へ繋ぎ止める。
その役割は、あの空の坩堝の前で決まった。
「首飾りは」テオドールが目だけで木箱の在り処を確かめる。「お渡しいただけましたね」
「ああ」
「では、城の地下へ。花の壁があります。プリズマ・ポルタに応える転移門です。封じられていますが——刻光で、封じる前へ巻き戻せます」
「痕跡は」
「消せます」テオドールが一拍置いた。「今夜持ち出すのは、姉様の髪だけ。それくらい小さなものなら——通った跡ごと、なかったことにできます」
俺は答えなかった。
採るのが髪だと、言わずとも通じている。この弟は、何もかも承知の上で、ここに立っている。
姉を救うために、姉の髪を盗ませる。
その残酷さを、俺たちはどちらも口にしなかった。
「中央から左の花に首飾りを。聖域の倉庫へ直に出ます。帰りは、倉庫の壁の中央右の花から、この地下へ」テオドールの声が、わずかに低くなる。「動けるのは、十分」
「お前は」
「ここで待ちます」灰色のアメジストが、灯りを映して静かに光った。「——無事に、帰ってきてください」
俺は、ただ頷いた。




