届かない距離
謁見から戻った夜も、伯爵邸に残った。
令嬢の邸に公爵子息が泊まり込むなど、本来あってよい話ではない。だが、今夜は別だ。次の手が来るとすれば今夜か、夜明けか。そういう夜に、彼女を一人にはできない。
執事にもそう通し、俺は邸の客間で夜を待った。
更けた頃、廊下の向こうに灯りが残っていることに気づいた。
エリシアの部屋だ。
扉を叩いた。返事はない。
もう一度、控えめに叩く。やはり返事はなかった。何か予測外の事態なら見過ごせない。その確認のためだけに、扉を開けた。
エリシアは机に突っ伏して眠っていた。
頬の下に、書きかけの設計図。中央の聖域を、まだ畳めずに何度も組み直していたのだろう。机の上の茶は飲まれないまま完全に冷め切っている。
まず、呼吸と熱を確かめた。眠っているだけだと分かってから、ようやく肩の力が抜けた。
明日、エリシアは俺から離れる。
聖騎士団が来る。読めている。止められない。止めれば、国が割れる。逃がせば、エリシアを反逆の側へ置くことになる。
近くにいる。
こんなに近くにいる。
それなのに、明日の朝、俺はエリシアを見送る。
最低な男だ。
今ここで髪を少しもらい、口づけを願えればどんなに楽だろう。理由を告げれば、エリシアはきっと考え、必要だと判断した分だけ差し出す。しかし術には順番がある。髪も、口づけも、最後の段階でなければ意味を持たない。今ここで欲に負けて手を伸ばしても、彼女を救う式にはならない。
だから頼めない。
命の写しにも、彼女の心にも、踏むべき順序がある。
完成までの時間が、エリシアとの距離を生む。そして事情を知らない彼女を、死を待つ牢獄へ見送る。
こんなに無防備に眠る人を。
そっと、肩に毛布を掛けた。
冷えた茶を下げ、温かいものに替えて机の端に置く。減っていた蜜豆の包みを、懐の予備で満たしておいた。バングルが正しく働いていれば、これは、ちゃんと甘いはずだ。
指先が、ほつれた髪に触れそうになって——止めた。
ずっと、こうしてただ触れたかった。
命の写しのためでも、調律のためでもなく。
ただ、エリシアの傍にいたかった。
認めたくなかった本音が、夜の底で静かに頭をもたげる。
だが、今夜はだめだ。今この手で触れれば、明日この手でする仕打ちを、自分が許せなくなる。
毛布の端を直して、立ち上がった。
彼女が目を覚ます前に、部屋を出る。
掛けた毛布も、温め直した茶も、満ちた蜜豆も。誰がしたのかは、言わない。彼女はたぶん、それに名前をつけないまま、いつもの棚へ置くのだろう。
それくらいでいい。
せめて今夜だけは、彼女の棚に、苦くないものを一つ。
*
翌朝、聖騎士団が来た。
伯爵邸の広い玄関ホールに、昨夜俺を通した老執事が、顔を青ざめさせて立っていた。壁際でメイドたちが息を詰め、身を縮めている。その中央を、純白の聖騎士服の七人が、靴音を静かに響かせて進んでくる。
このやり方は、意図されたものだ。
数で圧さない。礼を尽くして来ることで、抗う側を「非礼」に見せる。枢機卿の直属は、己の信念を疑わず、正規の手続きを刃に変える。
使用人たちの青い顔が、抗う術のないことを示していた。
この邸の誰もが、何が起きているかを肌で感じている。
「エリシア伯爵令嬢、神殿聖域への同行をお願いします」
割り込もうとした瞬間、七人が一斉にこちらを向いた。
一瞬で読み切った。
七人が動けば、部屋の外にも控えがいる。強行すれば、神殿との全面衝突になる。このルミナリス神聖王国において、それは国を二つに割ることを意味する。
王が公然と動けぬのと、同じ鎖だ。
手が、出せない。
生まれて初めて、まったく手の出せない場所に立たされた。
盤面を読む。読み切る。それでも、指せる手がない。
「ヴァレリウス」
エリシアが、名を呼んだ。
向いた。
彼女の目が、俺を探すように揺れていた。アメジストの瞳が、言葉を探している。何も言えないまま、バングルを握った。
俺は動かなかった。
動けなかった。
エリシアが歩き始めた。
純白の聖騎士服に囲まれて。
廊下を、遠ざかっていく。紫銀の髪が、揺れた。
去り際、一度だけ振り返って——まだそこにいる俺を確かめると、彼女は前を向いた。
廊下が、静かになった。
*
左耳を押さえた。
石が、黒い。
バングルもピアスも、今朝はそろって黒を示している。いつもの疼きの質が変わっていた。低く一定だったものが、波を持っている。高く、低く。彼女の身体が張り詰めているのだろうと分かる程度には、乱れている。
俺は、壁を一度殴った。
そして、止まった。
怒っている場合ではない。
命の写しは九十五パーセント。
残りは、五パーセント。
触れられぬ場所へ連れ去られて、どう埋めるか。バングル越しの波長は、まだわずかに届く。届くうちに、できる限り写し取る。そのたびに、彼女の知らないところへ手を伸ばすことになる。聖域から彼女を取り戻す前に、できるだけ近くまで仕上げておく。
答えは、もう、あの夜から決まっている。
イグナティウスが「純粋な器の融合」を望むなら、俺がその器を作る。エリシアのすべてを写し取った、世界が本物と見分けられぬほど精密な、偽物を。
誰も死なずに済む道は、ある。
あとは——時間だ。
*
その日の夜、もう一つの手筋を確かめた。
イグナティウスは近日中に儀式の日を定める。式の場はレリクトゥム・アステリアだ。あの男のことだ、もう本隊と祭具を、レリクトゥムへ向けて動かす手筈を整え始めている。
本体がレリクトゥムへ移動すれば、神殿聖域に残るのは、エリシアを見張るだけの最小限の騎士。
それなら、隙がある。
俺は動き始めた。
夜の廊下を、斥力で滑りながら。
左耳が、また、熱を帯びた。




