省略は、嘘ではない。論理上は
折り畳んだ紙が、一枚。
手の中にあるそれが、今朝からずっと、妙に重かった。
紙の重さは変わらない。書かれている内容も、昨夜のうちに検算を三回終えている。設計図として、これ以上直す場所はない。それなのに、持っている手のほうが、時々その存在を確かめてしまう。
原因なら、分かっていた。
これは、ヴァレリウスに話していない紙だ。
彼に告げたのは「書類の仕事がある」という事実だった。偽りではない。王城のこの控え室に来ることも、机の上に用意された北部地区の共鳴波パターン調査を今日中に仕上げることも、確かに予定にある。その前に別の扉を通ることについて——説明を、省いただけだ。
(計算が完了してから、話す)
省略は、嘘ではない。論理上は。
ただ、その式を組んでから、胸の奥のどこかが小さく軋み続けている。彼に何かを伏せたのは、たぶん、生まれて初めてだった。
春は、まだ盛りの中にあった。人気のない控え室に、午前の光が斜めに入っている。
「——こちらへどうぞ」
声は、壁の継ぎ目から来た。石がいつの間にか扉に変わっていて、地味な色の服を着た侍従がそれを支えている。
継ぎ目の術式を、思わず三秒だけ解析した。石と扉を継ぐ織りが精巧で、無駄がない。
(……いい仕事)
誰の設計かは知らない。今は関係のない情報だった。
エリシアは立ち上がった。机の上の書類には触れず、折り畳んだ紙だけを手に、廊下を少し歩いた。その先に、もう一枚の扉が現れた。
*
部屋は小さかった。
窓がない。四つの椅子が低い卓を囲んで、魔力灯が一灯だけ灯っている。天井が低く、音が吸われる。密談のための部屋だ——そのためだけに設計されたのだと、エリシアには分かった。
「こちらへ」
既に、三人が座っていた。
左に、国王。静かな目をした人だった。五十代——時間の重さを体に積んだ人間の顔だ、と思う。
正面に、公爵。
エリシアは一度、その顔を見た。
知っている顔だ。十年以上知っている。あの執務室で笑う顔も、蜜豆の話をする顔も、ヴァレリウスの話をするときに少し柔らかくなる顔も。けれどこの部屋の公爵は、そのどれでもなかった。背が真っ直ぐで、表情に余分なものがなく、四十代の体躯が持つ威圧感が、小さな部屋の中に静かに満ちている。知っているはずの顔が、見知らぬ角度を向いていた。
(——あの人は、こういう人間でもある)
分類は、後回しにした。
右に、初めて見る顔の男。五十代の半ば、銀灰の髪をきっちりと撫でつけ、その下の目は——銀色だった。穏やかなのに感情の温度が読み取れない、磨いた金属のような目。色の薄い、装飾のない服を着て、役職を示す徽章のたぐいは何もない。ただ、座り方だけが違った。背筋の角度、視線の置き方、卓上の設計図との距離——盤面を上から眺める者の姿勢だった。
(……宰相)
この部屋にいて、王でも公爵でもないのなら、それしかない。
「エリシア・フォン・アルスタです。お時間をいただき、ありがとうございます」
「座りなさい」と王が言った。「始めてください」と公爵が続く。
エリシアは座った。折り畳んだ紙を卓の上に広げた。
「始原の調律体系は、始祖の時代から未完成のまま運用されています。三原色の接続点の第四結節に欠陥があり、その補正として代々の調律師が痛みを受け取ってきた。これが一族の代償の構造的な原因です。第四結節を正しく設計すれば、調律は原理上、不要になります」
エリシアの説明する声だけが、静かに場を満たしていた。
誰も動かなかった。
エリシアは続けた。第四結節の設計原理。接続エネルギーの推計値。修復に必要な手順と時間。想定される難所。
声は最後まで、同じ温度を保った。
「以上です」
また沈黙。今度は少し長い。




