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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

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8/31

彼が、まだ何も知らない夜

翌日、王城の奥。


正式な謁見の間ではなく、王の私的謁見室。

限られた者しか入室を許されない、小さな石造りの部屋だった。


近衛騎士の姿はない。

扉の外に控える侍従も最小限。


——内々の話、ということだ。


窓際に立つ男は、五十六歳。

白いものが混じり始めた濃金の髪を後ろへ流し、深い青紫——タンザナイトの瞳を静かに細めていた。


アルベリック・ド・ルミナリス。


ルミナリス神聖王国の王。

建国の女神アステリア、その直系の血を継ぐ者。

もっとも、その系譜を知る者は、王国でもほんの一握りにすぎない。

公爵は、その数少ない一人だった。


王冠は被っていない。

だが、この部屋で最も強い存在が誰かは、一目で分かった。


静かすぎるのだ。


気配が薄いわけではない。

むしろ逆だった。


害意も敵意も、この男には届かない。

届く前に、見つかる。


そういう種類の静けさだった。


「以上でございます、陛下。神官補佐エリシア・フォン・アルスタの提言について、ご裁可を賜りたく存じます」


公爵が述べ終えても、王はしばらく答えなかった。


広くはない部屋に、静寂が落ちる。


王は窓の外を見たまま、低く問う。


「……エリシア・フォン・アルスタ」


声は静かだった。

けれど、その短い言葉には、不思議な重みがある。


「聖女一族の娘か」

「はい。今年十八になります」

「ヴァレリウスの補佐として聖域へ入った娘だな」

「は」


王はゆっくりと振り返った。


その視線が、公爵を射抜く。


鋭いわけではない。

責めるわけでもない。


ただ、“見えている”。


それだけで、人は誤魔化せなくなる。


「一度の儀式で、数百年越しの欠陥を見抜いたと?」

「本人は、そのように」

「……そうか」


王は短く呟き、ゆっくり歩き出した。


長い外套が石床を滑る。


向かった先には、一枚の肖像画。


始祖の時代に描かれた、古い王女の肖像だった。


紫銀の髪。

静かな眼差し。

そして——何かを“計算する”ような瞳。


王はその絵を、長い間見つめていた。


王家は代々、“女神の血”を継ぐ。


だから知っている。


聖域とは、ただの巨大術式ではない。


あれは祈りだ。

願いだ。

遠い昔、国を守ろうとした者たちが、己の生涯ごと積み上げた執念だ。


王は静かに目を閉じた。


「……やはり、あの欠陥か」


独り言のような声だった。


「数百年、我らは守ることしかできなかった」


その声には、代々果たせなかった願いを受け継ぐ者の、静かな寂しさが滲んでいた。


公爵は黙っていた。


王だけが知っている。

歴代の王が、どれほど聖域を守ろうとしてきたか。


そして同時に——誰一人、“完成”へ届かなかったことも。


「許可する」


王は静かに言った。


公爵が顔を上げる。


「陛下」

「責任は余が負う。お前の息子ではない。王が決める」


短い言葉だった。

だが、公爵はそれで十分だった。


アルベリック王は、そういう男だ。


一度“守る”と決めたものは、王として使えるすべての手を尽くして庇う。


公爵は深く頭を下げた。


王は再び肖像画へ目を向ける。


「——公爵」


「は」


「その娘を、大切にしろ」


静かな声だった。


「危うい」


公爵は一瞬だけ目を伏せた。


脳裏に浮かぶのは、幼い少女が無邪気に頭を撫でてきた日のことだ。


『つらいね。よしよし』


救うつもりなど、あの子にはなかった。

ただ、“そうすると楽になる”と知っていただけだった。


だからこそ怖い。


他人を救うことを、

呼吸みたいにやってしまう。


「……承知しております」


公爵は静かに答えた。


臣下として。


そして——娘を案じる父親として。


王はふと、口元だけで笑った。


「ヴァレリウスには、まだ黙っておるのだろう」


公爵の肩が、わずかに止まる。


「……よくお分かりで」

「あれが気づかぬまま数日も過ごせるなら、余は王を引退しておる」


少しだけ、空気が緩んだ。


「もっとも」


王は淡々と続ける。


「気づいた時の顔は、少し見てみたい気もするな」


公爵が思わず吹き出した。


「やめてください陛下。胃が痛くなります」

「余は少し楽しみだ」


そう言った王の目は、ほんの少しだけ穏やかだった。


    *


その日の夜、エリシアは机の上に白紙を広げて、第四結節の設計を最初から書き直した。


頭の中にある構造を、紙の上に写す作業は、演算そのものより遅い。でも今夜は、あえてゆっくりやった。


線を一本引く。接続点を打つ。三原色の交差角を計算する。


(できる)


ポケットから菓子を一粒取り出して、口に入れた。


甘い。


今夜の甘さには、理由がある気がした。

「申し訳ない」がまだ消えたわけではないが——設計が完成したとき、あの演算が終わる。そう分かっていた。


テオドールが廊下を通る足音がした。

扉の前で、止まった。


エリシアは手を止めなかった。入ってくるかと思ったが、来なかった。

しばらくして、また歩いていった。


(……テオ)


あの子は今夜、何かを知っているような気がした。知っているとしたら——何を?

分類しようとしたが、リソースが設計図の方に持っていかれた。


後で考えよう。


今夜は、まだ線を引かなければならない。


甘い菓子の欠片が、舌に残る。

ちゃんと、甘かった。


これは——「申し訳ない」に対する、私なりの答えだ。

彼がその職を「消去法で選ばれた」のではなく、「最初から必要でなかった」世界を、作ることができる。


そのとき彼が何と言うかは——今から、少しだけ楽しみにしていた。


この夜、ヴァレリウスは、彼女が公爵邸にいたことを、まだ一つも知らない。

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