彼が、まだ何も知らない夜
翌日、王城の奥。
正式な謁見の間ではなく、王の私的謁見室。
限られた者しか入室を許されない、小さな石造りの部屋だった。
近衛騎士の姿はない。
扉の外に控える侍従も最小限。
——内々の話、ということだ。
窓際に立つ男は、五十六歳。
白いものが混じり始めた濃金の髪を後ろへ流し、深い青紫——タンザナイトの瞳を静かに細めていた。
アルベリック・ド・ルミナリス。
ルミナリス神聖王国の王。
建国の女神アステリア、その直系の血を継ぐ者。
もっとも、その系譜を知る者は、王国でもほんの一握りにすぎない。
公爵は、その数少ない一人だった。
王冠は被っていない。
だが、この部屋で最も強い存在が誰かは、一目で分かった。
静かすぎるのだ。
気配が薄いわけではない。
むしろ逆だった。
害意も敵意も、この男には届かない。
届く前に、見つかる。
そういう種類の静けさだった。
「以上でございます、陛下。神官補佐エリシア・フォン・アルスタの提言について、ご裁可を賜りたく存じます」
公爵が述べ終えても、王はしばらく答えなかった。
広くはない部屋に、静寂が落ちる。
王は窓の外を見たまま、低く問う。
「……エリシア・フォン・アルスタ」
声は静かだった。
けれど、その短い言葉には、不思議な重みがある。
「聖女一族の娘か」
「はい。今年十八になります」
「ヴァレリウスの補佐として聖域へ入った娘だな」
「は」
王はゆっくりと振り返った。
その視線が、公爵を射抜く。
鋭いわけではない。
責めるわけでもない。
ただ、“見えている”。
それだけで、人は誤魔化せなくなる。
「一度の儀式で、数百年越しの欠陥を見抜いたと?」
「本人は、そのように」
「……そうか」
王は短く呟き、ゆっくり歩き出した。
長い外套が石床を滑る。
向かった先には、一枚の肖像画。
始祖の時代に描かれた、古い王女の肖像だった。
紫銀の髪。
静かな眼差し。
そして——何かを“計算する”ような瞳。
王はその絵を、長い間見つめていた。
王家は代々、“女神の血”を継ぐ。
だから知っている。
聖域とは、ただの巨大術式ではない。
あれは祈りだ。
願いだ。
遠い昔、国を守ろうとした者たちが、己の生涯ごと積み上げた執念だ。
王は静かに目を閉じた。
「……やはり、あの欠陥か」
独り言のような声だった。
「数百年、我らは守ることしかできなかった」
その声には、代々果たせなかった願いを受け継ぐ者の、静かな寂しさが滲んでいた。
公爵は黙っていた。
王だけが知っている。
歴代の王が、どれほど聖域を守ろうとしてきたか。
そして同時に——誰一人、“完成”へ届かなかったことも。
「許可する」
王は静かに言った。
公爵が顔を上げる。
「陛下」
「責任は余が負う。お前の息子ではない。王が決める」
短い言葉だった。
だが、公爵はそれで十分だった。
アルベリック王は、そういう男だ。
一度“守る”と決めたものは、王として使えるすべての手を尽くして庇う。
公爵は深く頭を下げた。
王は再び肖像画へ目を向ける。
「——公爵」
「は」
「その娘を、大切にしろ」
静かな声だった。
「危うい」
公爵は一瞬だけ目を伏せた。
脳裏に浮かぶのは、幼い少女が無邪気に頭を撫でてきた日のことだ。
『つらいね。よしよし』
救うつもりなど、あの子にはなかった。
ただ、“そうすると楽になる”と知っていただけだった。
だからこそ怖い。
他人を救うことを、
呼吸みたいにやってしまう。
「……承知しております」
公爵は静かに答えた。
臣下として。
そして——娘を案じる父親として。
王はふと、口元だけで笑った。
「ヴァレリウスには、まだ黙っておるのだろう」
公爵の肩が、わずかに止まる。
「……よくお分かりで」
「あれが気づかぬまま数日も過ごせるなら、余は王を引退しておる」
少しだけ、空気が緩んだ。
「もっとも」
王は淡々と続ける。
「気づいた時の顔は、少し見てみたい気もするな」
公爵が思わず吹き出した。
「やめてください陛下。胃が痛くなります」
「余は少し楽しみだ」
そう言った王の目は、ほんの少しだけ穏やかだった。
*
その日の夜、エリシアは机の上に白紙を広げて、第四結節の設計を最初から書き直した。
頭の中にある構造を、紙の上に写す作業は、演算そのものより遅い。でも今夜は、あえてゆっくりやった。
線を一本引く。接続点を打つ。三原色の交差角を計算する。
(できる)
ポケットから菓子を一粒取り出して、口に入れた。
甘い。
今夜の甘さには、理由がある気がした。
「申し訳ない」がまだ消えたわけではないが——設計が完成したとき、あの演算が終わる。そう分かっていた。
テオドールが廊下を通る足音がした。
扉の前で、止まった。
エリシアは手を止めなかった。入ってくるかと思ったが、来なかった。
しばらくして、また歩いていった。
(……テオ)
あの子は今夜、何かを知っているような気がした。知っているとしたら——何を?
分類しようとしたが、リソースが設計図の方に持っていかれた。
後で考えよう。
今夜は、まだ線を引かなければならない。
甘い菓子の欠片が、舌に残る。
ちゃんと、甘かった。
これは——「申し訳ない」に対する、私なりの答えだ。
彼がその職を「消去法で選ばれた」のではなく、「最初から必要でなかった」世界を、作ることができる。
そのとき彼が何と言うかは——今から、少しだけ楽しみにしていた。
この夜、ヴァレリウスは、彼女が公爵邸にいたことを、まだ一つも知らない。




