よしよしの前科
四日後。
今日は珍しくヴァレリウスと顔を合わせる時間が少なかった。
彼は朝から諸侯との会合に出ており、公爵邸へ戻るのも夜になるらしい、と侍従が話していた。エリシアはその情報を聞いて、「そうですか」とだけ返した。
返したのだが。
(……今日は、静か)
自室の執務机の前に座ってから三十分後、そんなことを考えている自分に気づいた。
いつもなら、一日に最低でも三回は声を掛けられる。
廊下で転びかければ支えられ、書類を読みすぎれば茶を置かれ、演算に没頭していれば「インクを飲む前に休憩しよう」と言われる。
今日は、それがない。
ない、というだけで、妙に静かだった。
気づけば、扉の方を三度見ていた。三十分で、三度。統計として、少し多い。
(……管理者不在による環境変化)
そう定義してみた。
たぶん違う。
エリシアは蜜豆を一粒口に入れた。
甘い。
甘いが、なんとなく物足りない気がする。
(糖度は同じはずなのに)
少し考えて、やめた。
最近、「考えても分からない分類」が増えている。
窓の外では、春の光が庭園の白石を照らしていた。
北部地区の調律計算は順調に進んでいる。第四結節の理論式も、頭の中ではほぼ完成していた。
後は、動かすだけだ。
そのためには、先に公爵へ話を通す必要がある。
エリシアは机上の演算式を整列させ、立ち上がった。
侍女がすぐに外套を持ってくる。
「お出かけでございますか、お嬢様」
「ええ。少し、公爵様に会いに公爵邸へ」
侍女が一瞬だけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「旦那様ではなく、公爵様に?」
「はい」
「……公爵令息様がお聞きになったら、拗ねそうですね」
エリシアは首を傾げた。
「なぜでしょう」
「さあ」
侍女はそれ以上言わなかった。
ただ、肩に外套を掛ける手つきが少しだけ優しかった。
公爵邸では、正面玄関から執務室前まで、誰に止められることなく歩ける。
長年の出入りで顔を覚えた侍従たちが「ああ、エリシア様」と礼だけして道を開ける。
十年来の顔パスだ。
執務室前の廊下で、老齢の執事が壁際に立っていた。この邸に仕えて四十年以上という人物で、エリシアが幼いころから顔を知っている。
「エリシア様。いつもお変わりなく」
「公爵にお時間をいただけますか」
「ただいまご在室です。お取り次ぎを」
執事が扉を二回、静かにノックした。
すると、間髪入れずに中から声が飛んだ。
「——おっ、エリシアか!? 入れ入れ!」
声が近い。
たぶん扉のすぐ向こうまで来ている。
実際、扉が開く前から足音が近づいてきて、そのまま勢いよく扉が開いた。
四十代とは思えない軽やかさで、公爵が現れた。
引き締まった体躯に深緑の上着を羽織り、白金の髪を無造作に後ろへ流している。光を受けるたび、その髪は銀にも淡金にも見えた。
顔立ちはヴァレリウスによく似ている。
同じ碧眼。同じ高い鼻梁。同じ、“整いすぎているのに威圧感が薄い”不思議な美貌。
ただ、公爵の方が少しだけ鋭い。
ヴァレリウスが春の陽光なら、この人は晴天の昼だ。
輪郭がはっきりしていて、笑わなければかなり怖い部類に入る。
——笑わなければ、だが。
実際には、公爵はエリシアを見るなり目元を緩めた。
その瞬間、きりりとした印象が一気に崩れる。
笑うと目尻にだけ年齢が出る。よく笑う所も、ヴァレリウスと同じだった。
親子だな、と分かる顔だった。
ただし、ヴァレリウスの微笑みが「完璧に制御された社交」だとしたら、公爵の笑顔はもっと豪快で、人懐こい。
人を甘やかすことに慣れている顔だ。
そして実際、とても慣れている。
「珍しいな! ヴァレリウス抜きで来るとは!」
声までよく通る。
エリシアは少しだけ考えた。
(……この人とヴァレリウスは、本当に親子なのだな)
でも、静かなときの雰囲気は似ているのに、騒がしい方向性がかなり違う。
「どうした? 腹でも減ったか?」
「減っていません」
「そうか、じゃあ茶だな」
「なぜですか」
「エリシアはだいたい茶菓子を食べると機嫌がいい」
断定された。
公爵は上機嫌のまま、執事へ振り向く。
「焼き菓子も出せ。あいつ、話が長くなると糖分切れを起こす」
「かしこまりました」
エリシアは少しだけ考えた。
(……否定できない)
昔、一時間ほど術式について説明していた際、途中で完全に演算負荷が上がりすぎて黙り込み、公爵に「蜜漬けの果実を食え」と口に放り込まれたことがある。
あのときは、かなり助かった。
「ほら、座れ座れ」
示されたのは、来客用の立派な椅子ではなく、暖炉前の小さな椅子だった。
昔から、エリシアはそこに座る。
八歳の頃、公爵がそこで仕事をしていた。
疲れているのが見えたので、エリシアは頭を撫でた。
「つらいね。よしよし」
弟にすると機嫌がよくなる行動だったので、公爵にも適用しただけだった。
結果、公爵は泣いた。
エリシアには理由が分からなかったが、それ以来、公爵はやたらとエリシアに甘い。
今も甘い。
とても甘い。
「顔が難しいな。また世界でも救う計算か?」
「今回は聖域です」
「規模がでかいなあ……」
公爵は笑いながら向かいへ座った。
「で?」
「始原の調律体系について、お話があります」
その瞬間、公爵の目が変わった。
軽薄さが消える。
けれど、圧迫感はない。
真剣なのに、怖くない。
エリシアは昔から、公爵のそういうところが少し好きだった。
「聞こう」
エリシアは説明を始めた。
三原色の接続点。
第四結節の欠陥。
数百年、未完成のまま運用されてきた事実。
そして、一族が“代償”として受け取り続けてきた痛みの正体。
公爵は一度も口を挟まなかった。
ただ、途中で一回だけ、頭を抱えた。
「始祖様ぁ……」
「?」
「いや、こっちの話だ」
最後まで聞き終えると、公爵は深く息を吐いた。
「……一回見ただけで、そこまで読んだのか」
「はい」
「お前、本当にたまに怖いな」
「申し訳ありません」
「褒めてるんだぞ?」
公爵は困ったように笑った。
その顔が、少し誇らしそうだった。
誇らしさの発生源は不明だったが、悪いものではなさそうだったので、エリシアは焼き菓子をひとつ食べた。
「で。完成させる、と」
「はい。第四結節の設計は可能です」
「危険は?」
「あります」
「どの程度」
「まだ計算中です」
「その言い方をする時のお前、だいたい危険なんだよな……」
公爵が額を押さえた。
でも嫌そうではない。
むしろ、“またか”に近い。
「ヴァレリウスには?」
「伝えていません」
「なんでまた」
「止められるので」
即答だった。
公爵は数秒黙ったあと、吹き出した。
「ははっ……! 言うようになったなあ、お前!」
「事実です」
「違いない!」
笑いながら、公爵は椅子にもたれた。
「あいつ、お前関連は異常に勘がいいからな……隠し事すると大変だぞ」
「気をつけます」
「たぶん気をつけても無理だな」
断言された。
エリシアは少し考えた。
否定材料が、ない。
「——お前はさ」
ふと、公爵の声が柔らかくなった。
「なんで、そこまでしたいんだ?」
少しだけ、沈黙が落ちた。
暖炉の火が小さく鳴る。
エリシアは自分の中を探した。
言葉を探す、という感覚はまだ苦手だ。
でも、今回は少しだけ見つかった。
「彼がその職に就いたのは、本来の経路ではないと思っています」
公爵は黙って聞いている。
「誰かの代わりに、彼がそこにいる。私は、それが少し嫌です」
言ってから、自分で少し驚いた。
“嫌”。
感情の単語が、先に出た。
「だから、終わらせたい。彼が必要以上に何かを背負わなくて済むように」
公爵はしばらく何も言わなかった。
それから、ふっと笑った。
とても優しい笑い方だった。
「……エリシア」
「はい」
「お前、自分で思ってるよりずっと可愛いこと言うな?」
「?」
意味が分からない。
公爵は完全に面白がっていた。
「あー、駄目だ。今これをヴァレリウスに聞かせたら倒れる」
「なぜでしょう」
「幸せすぎて」
「……?」
ますます分からない。
公爵はひとしきり笑ってから、ようやく真面目な顔に戻った。
「王に話を通す。さすがに私一人じゃ決められん」
「はい」
「その代わり」
少しだけ目を細める。
「無茶はするな。……いや、お前はするなと言ってもするな。だからせめて、“無事で帰る”を計算に入れろ」
その言葉に、エリシアは一瞬だけ止まった。
それは、少しだけ難しい計算だった。
でも。
「努力します」
「努力かあ……」
公爵が遠い目をした。
「今の返事、ヴァレリウスなら頭抱えるぞ……」




