『申し訳ない』の解消条件
就任式の翌朝、エリシアは自室の窓際で蜜豆を一粒指先で転がしながら、昨夜から保留していた演算を再起動させた。
対象:「申し訳ない」という感情の発生源分析。
昨日の式典の廊下で、彼が白と金の正礼装に身を包んで文書を受け取った瞬間、演算の一部が止まった。それ自体は記録済みだ。問題はその後だ。馬車の中でも、夕食の後でも、床に就いてからも、「申し訳ない」という感情が演算の端で定期的に点滅し続けた。
点滅の周期は不規則。消灯を試みたが、できなかった。自分の感情のはずなのに、権限がない。
分類を試みる。「申し訳ない」の発生条件:自分が原因でないにもかかわらず、他者が不利益を被っていると判断した場合。
今回の不利益の内容:ヴァレリウスが、本来就く必要のなかった職に就いた。
自分との関連:……直接的には、ない。
(なのに、申し訳ない)
理屈が合わない。それでも感情は消えない。
エリシアは別の角度から考えた。
「申し訳ない」は、解消できるか?
解消条件を定義する:**彼がその職を必要としなくなる状況を作ること。**
蜜豆を口に入れた。甘い。
(どうやって?)
変数が足りない。設計するための情報が、まだ手元にない。
——後で考えよう。
今日は神官補佐として、初めて聖域へ——王都の中央、大聖堂の聖域へ行く日だ。
*
王都の中央。白亜の大聖堂の、いちばん奥に、その聖域の間はあった。
壮麗な身廊を抜ける。祈りの声が遠ざかる。誰も入らない内陣を越え、さらに奥へ。
重い扉が開いた瞬間——音が変わった。
いや、正確には、音ではなかった。世界そのものの響き方が。
エリシアは思わず足を止めた。
外の白さが嘘のように、部屋の中は黒い石でできていた。古い黒。
磨かれているはずなのに、どこか光を吸い込むような黒だった。
壁にも床にも天井にも、無数の術式溝が走っている。
六面すべてが巨大な魔術式だった。
中央には円い石台。
その周囲へ向かうように、溝は樹木の根のように広がっていた。
まるで、この部屋全体が一つの生き物だった。
そして。実際に、生きていた。
壁から。床から。天井の要石から。
それぞれ異なる共鳴波が漏れ出している。
ほとんどの人間には届かない微細な振動。
けれどエリシアには見えた。聞こえるのではない、見えるのだ。
波形として。構造として。脈動として。
初めての実務調律儀式が始まった。
ヴァレリウスが術式を展開する。
石床に、三原色の光脈が走る。生光(アニマ)の白。刻光(クロノス)の金。造光(ファブリカ)の蒼。
エリシアの演算が——自発的に、全てをそこへ向けた。
正確には、術式と、それを展開する彼の手元に。指の運びが綺麗だ、という情報も一緒に入ってきた。儀式には不要な情報だった。……一応、保存した。
美しかった。本当に、美しかった。数百年前に女神が創った聖域の術式が、一つの「理」として展開されていく様子は、エリシアが今まで見た何よりも精緻な構造体だった。
だから——
(……綻びがある)
見えた。
三原色の接続点——生光と造光が刻光と交差する位置にある「節(結節)」。
それが、不完全だった。
構造全体の共鳴を安定させるべきその結節は、魔力を完全に封じ込める設計になっていなかった。防水機能のない布で導水管同士を繋いだように、そこから未分化の純粋な魔力が常に「滲み出て」いる。
その滲み出る純粋な魔力を補正するのに、年に一度の人の手による作業が必要になっていたのだ。
(だから、調律師は「痛みを受け取る」のか)
エリシアの一族が代々担ってきた「代償」の意味が、初めて構造として見えた。
欠陥から滲み出た純粋な魔力をあるべき流れに戻すのにはわずかな時間とはいえ直接体内に通す必要がある。
その不完全な結び目は——始めから、そこにあった。
(始祖が遺した、未完の旋律だ)
完成したことがない。誰も気づかなかった——あるいは気づいても、直せなかった。数百年もそのまま運用されてきた。
(第四結節の設計図は、三原色の交差角から導出できる。接続エネルギーの推計値は——)
(私なら、完成させられる)
感情ではなかった。
計算が完了したときの、あの感触、それだけだった。
儀式が終わった。
隣でヴァレリウスが術式を収束させている。
エリシアは彼の横顔を見た。
(——あなたが、これを続けなくて済む世界を)
「申し訳ない」の、解消条件が、見えた。




