なぜ隣を見た?
茶会から、数日後。神殿の、儀礼の間。
就任式は、大した式典ではなかった。
祈祷師代理の任命は、政治的には重いが、儀礼としては簡素だ。参列者も少ない。拍手も控えめ。豪奢な祝祭というより、静かな実務手続きに近い。
エリシアが出席する必要があるかどうかも、本来は微妙だった。
けれど。
「姉様は出るべきです」
昨夜、テオドールがそう言った。
「義兄様は、きっと姉様に来てほしいと思っています」
なので来た。
理由としては充分だった。
官吏が条文を読み上げる。
封蝋の施された任命書が差し出される。
ヴァレリウスが、それを受け取った。
白と金の正礼装は、公爵家の格式に相応しく美しい。姿勢は真っ直ぐで、所作には無駄がない。周囲の貴族たちも感嘆していたが、エリシアは別方向のことを考えていた。
(……この職は、本来なら彼が就くべき仕事ではない)
祈祷師代理。
本来なら専門家が担う役目だ。
公爵家次期当主を置く席ではない。
けれど、今の王都には適任者がいない。
だから最後に残った。
ヴァレリウスの名前だけが。
その結論に至った瞬間、胸の奥が少し重くなった。
申し訳ない、と思った。
なぜそう思うのか、うまく分からない。
エリシアは頼んでいない。
彼が選ばれたのは、政治的事情と能力的適性によるものだ。責任の所在を数式化するなら、自分の関与率はかなり低い。
なのに。
申し訳ない。
それから——また、あの感覚が来た。
最近、時々ある。
「申し訳ない」と似ているのに、少し違う。
胸の内側が静かに落ち着かなくなる感覚。
未分類。
分類しようとして、やめた。
今は式典中だ。
エリシアは完璧な角度で背筋を伸ばし、完璧な角度で扇を持ち、完璧な令嬢として静かに立っていた。
外から見れば、非の打ち所がない。
内側だけが、少し忙しい。
式典が終わる。
廊下へ出た瞬間、窓から午後の日差しが差し込んだ。
ヴァレリウスがそちらを向く。
白金の正礼装が光を受け、肩の輪郭が淡く縁取られる。
その瞬間。
演算が止まった。
本当に、止まった。
北部演算も。
術式補正も。
歩行制御の補助計算も。
全部。
一秒か、二秒。
それだけの時間、自発的に演算が停止したのは初めてだった。
エリシアは少し困惑した。
(……なぜ)
処理落ちの原因を探す。
視覚情報?
光量?
色彩反射?
魔力干渉?
違う気がする。
たぶん違う。
でも他に分類先がない。
ヴァレリウスが振り返った。
「エリシア?」
名前を呼ばれて、演算が戻る。
「あ……」
一拍遅れてから、エリシアは口を開いた。
「おめでとうございます」
本当は、もっと別のことを言おうとしていた気がする。
けれど間に合わなかった。
適切な言葉を選ぶより先に、彼の顔を見た瞬間に演算が止まってしまったから。
「ありがとう」
ヴァレリウスは笑った。
優しい。
いつものことなのに、今日は少しだけ心臓に悪い。
エリシアは内心で首を傾げた。
(……心臓?)
比喩表現としては正しい。
ただ実際に胸の鼓動が少し速い。
原因不明。
「……お仕事、大変になるのでは」
少しでも負担が減る言葉を探した結果、それが出た。
ヴァレリウスは数秒、こちらを見た。
静かな目だった。
まるで、何かを堪えるみたいな。
「そうでもないよ」
嘘だ、とエリシアは思った。
思ったのに、追及はしなかった。
彼は時々、エリシアを安心させるために嘘をつく。
それはもう、かなり前から知っている。
なのに。
その「優しい嘘」を指摘すると、なぜかヴァレリウスが少し困った顔をするので、最近は見逃すことにしていた。
(……彼は時々、変なところがある)
でも嫌ではない。
むしろ少し安心する。
完璧に見える人が、自分の前だけで少し困るのは、なんとなく嬉しい。
理由は分からないけれど。
馬車へ乗り込む。
向かいにはテオドールが座っていた。式に参列していた弟と、帰りの馬車に乗り合わせたのだ。
彼は膝の上に本を開きながらも、時々こちらを見ている。視線の頻度から推測するに、読書への集中率は六割程度だろう。姉の監視を優先している。
「……私は倒れませんよ」
「今日僕の見ている前だけでも二回ふらついています」
「歩行制御の誤差です」
「世間では、それを“危ない”と言います」
淡々としているのに、少しだけ拗ねた声だった。
エリシアは考える。
たしかに今日は演算負荷が高い。
北部区画の補正計算が長引いている影響で、空間認識に微細な遅延が出ている。
でも、それを言うとたぶんテオドールはもっと心配する。
なので、別の話題を探した。
……探したのだが。
気づけば視線が、向かいではなく隣へ向いていた。
誰もいない座席。
エリシアは数秒停止した。
(……?)
自分の行動意図を検索する。
なぜ隣を見た?
忘れ物確認?
空席確認?
動線確認?
どれもしっくりこない。
「姉様」
テオドールが静かにページをめくった。
「義兄様なら、別の馬車ですよ」
「……知っています」
答えるまでに一拍かかった。
テオドールの口元が、ほんの少しだけ笑った気がした。
エリシアはその理由を考えた。
分からない。
分からないが、なぜか少しだけ居心地が悪い。
その居心地の悪さをごまかすために、ポケットから蜜豆を取り出した。
一粒、口に入れる。
甘い。
ちゃんと甘い。
「姉様」
「なんでしょう」
「今、少しだけ残念そうでした」
「……?」
意味が分からない。
ヴァレリウスは別馬車だ。
それだけだ。
別に問題はない。
合理的配置ですらある。
公爵令息と伯爵令嬢と、その弟。護衛導線を考えれば分乗は自然だ。
なのに。
なぜか、さっきから演算の端が少しだけ落ち着かない。
エリシアは蜜豆をもう一粒食べた。
甘い。
けれど今は、少し足りない気がした。




