観察精度が、高すぎませんか
それから数日。神殿西棟、エリシアの執務室。
机は西側の窓に面していて、午後の光が、紙の上に長く伸びていた。
北部五区の調律設計は、あと少しで終わる。顎の奥に何かを残したくなるほど深い演算だったので、机の引き出しには琥珀の塩蜜豆を常備してある。あれを口に入れると、なぜか思考の輪郭が戻ってくる。合理的だった。
手を伸ばす。
(そうそう、この丸くて重い感触——)
「エリシア」
声と同時に、指先の重みが入れ替わった。
取り上げられた。代わりに、小さくて軽いものが置かれる。蜜豆が二粒。
エリシアは目を上げた。ヴァレリウスが机のそばに立っていた。
「……インクを飲むところでした」
「見ていたよ」
「いつから?」
「少し前から」
気付かなかった。
少しだけ恥ずかしい。
けれど、それより先に、安心が来る。
彼が見ていてくれるなら、少し無茶をしても大丈夫な気がしてしまう。そういうところが、たぶんいけない。
蜜豆を一粒口に入れる。
甘い。
少ししょっぱい。
きちんとおいしい。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
ヴァレリウスは笑って、彼女の手元にあった書類を自然に寄せた。
何でもない動作なのに、妙に手慣れている。エリシアが机に突っ伏さないよう、いつの間にか最適な距離を選んでいる。そういう気遣いが、彼は上手い。
エリシアは蜜豆をもう一粒口に入れた。
甘さが、少しだけ頭を軽くする。
そのとき、ヴァレリウスの指先が書類の端を押さえた。ほんの一瞬、白い指が視界に入る。
胸のあたりが、変な音を立てた。
(……未分類ノイズ)
分類できないものは、後回しにする。
そう決めているのに、彼の手の温度だけは、なぜか毎回、記録の隅に残ってしまう。
たぶん、書き損じだ。
きっとそうだ。
そういうことにしておく。
*
その数日後には、春はもう盛りを迎えていた。
王城の庭で催される、恒例の春の茶会。
咲き揃った花が庭園を埋め、風がその匂いを運んでくる。木陰のテーブルにお茶と菓子、楽団の調べ、人々の談笑、グラスの触れ合う音——情報量が多い。
——この茶会は、毎年、演算コストが高かった。
人の顔色。
視線の流れ。
笑みの厚み。
声の温度。
しかも招待客は、花の間を絶えず歩き回る。
相手との距離が一定しないため、会話導線の予測負荷まで上乗せされる。
少し疲れる。
けれど、エリシアは完璧な淑女としてそこに立っていた。
背筋は真っ直ぐ。
グラスを持つ角度も適切。
視線の高さも理想的。
少なくとも外から見れば、非の打ち所はない。
近くにはテオドールが控えていた。
庭の端で他家の子息と話しているように見えるが、位置取りが妙に絶妙だ。エリシアから三歩以内を維持している。監視精度が高い。
(……護衛効率を最適化している)
弟なのに。
その時、香水の匂いが近づいた。
振り向く。
スタールフ夫人がこちらへ歩いてくる。
薄紫のドレス。扇を手に、笑みは柔らかい。
社交界でよく見る種類の笑顔だ。
柔らかく見えて、観察している。
「まあ、エリシア様」
夫人は優雅に会釈した。
「本日も独特の香りをお纏いで。……なんと申しますか、わたくし、少し目が眩むような——」
エリシアは一拍だけ考えた。
目が眩む。
香り。
光刺激。
(……術式干渉?)
現在、自身の周囲には北部地区調律用の残留魔力が微量付着している。三原色干渉帯の余波なら、感覚過敏者に軽い眩暈を与える可能性はある。
「あ、それは北部地区の調律演算に使用している三原色干渉帯の副次的拡散です。基本的に生光と造光が交差する領域では拡散係数が——」
言いかけたところで。
「わあ、姉様!」
横から、ぱっと声が入った。
テオドールだった。
いつの間に移動したのか分からない。
さっきまで庭の端にいたはずなのに、もうエリシアの斜め後ろにいる。
移動速度が妙に速い。
しかも、左腕を両手で取られていた。
弟が甘える時の仕草だった。
少なくとも、外からはそう見えるはずだ。
「昨日の僕の質問を、まだ覚えていてくださったんですね!」
きらきらした目で言う。
無邪気。
完璧に無邪気。
「お茶会でまで僕の勉強のために復習してくださるなんて——姉様は本当に、世界一の弟想いです!」
夫人の笑みが、わずかに止まった。
エリシアは数秒遅れて、理解した。
今の説明は、どうやら茶会向けではなかったらしい。
テオドールはそれを、弟の勉強熱心さと姉の面倒見のよさへ置き換えたのだ。
置換速度が速い。
夫人の扇が、ぴたりと止まった。
その時だった。
「全くだね、テオドール君」
穏やかな声が、自然に会話へ混ざった。
ヴァレリウスだった。
いつからいたのか分からない。
けれど彼は最初からそこにいたみたいな顔で、静かにエリシアの隣へ立つ。
立ち位置が絶妙だった。
夫人へ威圧感を与えず、
エリシアの逃げ道は塞がず、
それでいて、“公爵家がこちら側にいる”と一瞬で理解させる位置。
たぶん無意識にやっている。
怖い。
ヴァレリウスは柔らかく微笑んだ。
「私まで、君の熱心な家庭教師に嫉妬してしまいそうだ。——スタールフ夫人。このご令嬢はこういう方でして。弟君への愛情は、場を選ばないのですよ」
テオドールの言葉を、そのまま美談にしてしまう口調だった。
しかも自然だ。
夫人が小さく笑う。
「まあ。お可愛らしいこと」
空気が変わる。
ほんの数分前まで、
“少し変わった令嬢”を観察していた視線が、
“弟想いの才女”を見る空気へ変化していく。
会話が流れた。
何事もなかったみたいに。
でもエリシアは知っている。
今のは、たぶん助けられた。
テオドールは、何も知らない弟の顔で救いに来た。
ヴァレリウスは、何も起きなかった顔で場を整えた。
しかも二人とも、あまりにも自然にやる。
自分だけが、何をどう救われたのか、まだ正確に分かっていない。
(……社交は難しい)
エリシアは少し考えた。
すると隣から、ヴァレリウスが小さな皿を差し出してくる。
「休憩」
いつの間に取ったのか、小さな焼き菓子が載っていた。
エリシアは数秒止まった。
「……私、疲れて見えましたか」
「少しだけ」
「表情制御は、正常だったはずですが」
「君は疲れると、説明が長くなる」
さらりと言う。
テオドールが真顔で頷いた。
「それに、人のいない方へ寄ります」
「歩幅も浅くなる」
ヴァレリウスが続ける。
テオドールが締めるように、言った。
「甘いものを、探し始めます」
二対一だった。
エリシアは静かに敗北を悟る。
「……観察精度が、高すぎませんか」
「長年見ているからね」
ヴァレリウスはそう言って笑った。
その笑みが少し優しくて、
エリシアはまた、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
最近ずっと増えている、未分類ノイズ。
分類は、まだできていない。




