便利である。とても。
魔核移譲の夜から、七年が経っていた。
エリシアの日常は、だいぶ器用に壊れて、だいぶ上手に隠れていた。
朝、目が覚める。正確には、夜のあいだ薄く張りついていた演算の層が、侍女の声で意識の表層へ引き上げられる。眠っていた、というより、少しだけ静かにしていたに近い。昨夜は北部地区の調律式を三十七回ほど検算していたので、今朝の負荷はやや重い。
「お嬢様。七時には御出立でございます。お着替えを」
「……ええ」
返事はきちんと出る。
声だけは、淑女のものになる。
それで十分だった。
侍女たちの手が、いつもの順番でエリシアを整えていく。袖、襟、飾り帯、髪。身体はもう、この流れを知っている。頭が別の計算をしていても、身体は勝手に「令嬢」を思い出すのだ。便利である。とても。
「お嬢様、少しだけ肩が冷えておりますね」
「そうですか」
「はい。昨夜は遅うございましたから」
「検算が少し長引きました」
「“少し”ではございませんでしたよ」
侍女は声を荒げない。ただ、ほんの少しだけ笑う。
そのやわらかさが、エリシアは少し好きだった。
戸の向こうから、控えめな声がする。
「姉様。入ってもいいですか」
「……ええ」
扉が静かに開いた。テオドールが入ってくる。まだ少年の面影が残るのに、背はもうだいぶ高い。黒髪は光を受けると紫を含んで見え、灰を帯びた瞳は、昔よりずっと落ち着いていた。
けれど、エリシアには分かる。
この弟は、外でどれほど立派に見えても、姉の前では未だに少しだけ可愛い。
テオドールは彼女の前に立つと、目線の高さを確かめるように一度だけ瞬きをした。
そして、ごく自然に手を伸ばす。
「……胸元のリボンが、ほんの少しだけ」
指先が、布の皺を整える。丁寧で、慎重で、妙に慣れている。次に、こめかみのあたりに残っていた細い寝癖を、指でそっと撫でつけた。
「朝の演算が重いと、こうなるんですよ、姉様は」
姉の癖をよく知る、親しみのこもった声だった。
こうして世話を焼かれるのも、初めてではない。
エリシアは少しだけ目を細めた。
テオドールの指先は、昔よりずっと器用になった。でも、姉を整えるときの慎重さだけは昔のままだ。見ていると、少し胸の奥がくすぐったくなる。
「ありがとうございます、テオ」
「いえ」
その一言のあと、彼はわずかに言いにくそうな顔をした。
「……今日も、姉様が職場に行かれるのなら、僕が付き添えればいいのに」
小さな声だった。けれど、エリシアには十分すぎるほど聞こえた。
「邪魔になるのは分かっています。義兄様がいらっしゃいますし、僕はまだ子供ですから」
「テオ」
「姉様、今朝も少し顔色が悪いです。昨夜も遅かったのでしょう」
心配がそのまま声に滲んでいた。
「僕が一緒にいられれば、机の上で眠ってしまう前にお茶も出せますし、書類も取り上げられます。姉様、時々、本当に無茶をなさるので」
「無茶ではありません。必要な計算です」
「その必要な計算が、一番危ないんです」
テオドールは少しだけ眉を寄せた。
姉を案じる気持ちが、そのまま顔に表れていた。
この子は昔から、私よりずっと大人だ。
「……では、帰ったらお茶を淹れましょう。姉様の好きな香草のものを」
「本当ですか」
「本当です」
「僕が淹れます。姉様には休んでいてほしいので」
「それでは、私の方が楽をしてしまいます」
「していいんです」
にっこりした。
完璧にきれいな笑顔だった。
弟として、安心するための顔。姉に心配をかけないための顔。もう、そういう顔を覚えてしまったのだと分かる。
エリシアは、少しだけ胸が痛んだ。
痛んだ理由は、まだうまく分類できない。
ただ、すこしだけ思う。
この子は昔から、私を甘やかすのが上手だ。
「帰ったら、少しだけ一緒にお茶を飲みましょう」
「はい」
「あなたが淹れてくれるなら、なお嬉しいです」
その言葉に、テオドールの顔が、ほんの一瞬だけ子どもに戻る。
それが見えたので、エリシアは少し満足した。弟は、やはりこうでなくては。
*
神殿西棟へ続く、石畳の回廊だった。
石畳は、朝の光を受けてもなお冷たい。
神殿の廊下は完全に水平で、エリシアは過去に数百回、同じ床を歩いてきた。だから今日も、本来なら問題なく歩けるはずだった。
はずだったのだが。
左足が、ほんのわずかに止まる。
視線はまだ北部三区の共鳴波形に残っている。思考が身体より先に進みすぎていた。
次の一歩が遅れる。
「……っ」
体が傾いた。
その瞬間。
右側から手が来た。
あまりにも自然だったので、一瞬、自分から寄りかかったのかと思った。
違った。
ヴァレリウスだった。
彼は半歩だけ前に出ると、エリシアの腰へ軽く触れ、そのまま重心を戻す。引き寄せるでもなく、抱き留めるでもなく、“最初から何も起きなかった”みたいに。
完璧な補正だった。
エリシアは反射的に姿勢を戻す。
「……ありがとうございます」
振り向く。
ヴァレリウスがいた。
いつからいたのか、処理していなかった。
気づかなかったことが少し悔しい。
彼はいつも通り穏やかに笑っている。
まるで今の動作に何の意味もなかったみたいに。
たまたまそこに手があったから支えただけだ、とでも言うみたいに。
「踏み段があるわけじゃないよ」
声音まで穏やかだった。
失敗を指摘する響きが、まるでない。
「平らな床で転ぶのは、私の位置情報が更新されていないせいです」
「知っているよ」
即答だった。
あまりにも自然に返ってきたので、エリシアは少しだけ瞬きをする。
知っている。
つまり彼は、
エリシアが演算負荷で空間認識をずらすことを、歩行時に左足が遅れることを、重心が右へ流れることを、全部、前提として見ていたことになる。
(……観察精度が高い)
少し考えてから、もう一つ気づく。
彼の手は、もう腰にない。
必要な時間だけ支えて、すぐ離れていた。
それなのに。
触れられた場所だけ、熱が残っている気がした。
変だ。
接触時間は一秒未満だったはずなのに。
ヴァレリウスがこちらを見ていた。
その視線は昔から変わらない。
静かで、穏やかで、いつも少しだけ甘い。
見守る、という言葉が一番近い。
けれど最近、時々それだけでは説明できない。
例えば今みたいに。
エリシアが転びかけた瞬間、彼の手が来る速度は異常に速かった。
まるで。
倒れる前から、手を伸ばす準備をしていたみたいに。
「今朝は、少し重そうだね」
ヴァレリウスが、いつもの穏やかな声で尋ねた。
エリシアの答えを急かさず、静かに待っている。
「……北部三区の再検算をしていました」
「かなり念入りに?」
エリシアは数秒止まった。
「なぜ分かったんですか」
「君は考えすぎると、歩幅が浅くなる」
さらりと言う。
さらりと言う内容ではない。
エリシアは小さく沈黙した。
(……観察精度が、やはり高すぎる)
ヴァレリウスは少しだけ笑った。
その笑みは、公爵令息として社交界へ向ける完璧な笑顔より、ほんの少し柔らかい。
エリシア限定の表情だった。
「今日は私がいるから、壁にはぶつからないでね」
「……私はそんなに壁へ衝突していますか」
「昨日は二回」
「記憶にありません」
「そうだろうと思っていたよ」
困ったように笑う。
その声音が優しくて、エリシアは少しだけ視線を落とした。
胸の内側が、また変になる。
未分類ノイズ。
最近ずっと増えている。
後で考えよう。
いつもそう思って、
結局ひとつも分類できていないのだけれど。




