表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/33

便利である。とても。

魔核移譲の夜から、七年が経っていた。


エリシアの日常は、だいぶ器用に壊れて、だいぶ上手に隠れていた。


朝、目が覚める。正確には、夜のあいだ薄く張りついていた演算の層が、侍女の声で意識の表層へ引き上げられる。眠っていた、というより、少しだけ静かにしていたに近い。昨夜は北部地区の調律式を三十七回ほど検算していたので、今朝の負荷はやや重い。


「お嬢様。七時には御出立でございます。お着替えを」


「……ええ」


返事はきちんと出る。

声だけは、淑女のものになる。

それで十分だった。


侍女たちの手が、いつもの順番でエリシアを整えていく。袖、襟、飾り帯、髪。身体はもう、この流れを知っている。頭が別の計算をしていても、身体は勝手に「令嬢」を思い出すのだ。便利である。とても。


「お嬢様、少しだけ肩が冷えておりますね」


「そうですか」


「はい。昨夜は遅うございましたから」


「検算が少し長引きました」


「“少し”ではございませんでしたよ」


侍女は声を荒げない。ただ、ほんの少しだけ笑う。

そのやわらかさが、エリシアは少し好きだった。


戸の向こうから、控えめな声がする。


「姉様。入ってもいいですか」


「……ええ」


扉が静かに開いた。テオドールが入ってくる。まだ少年の面影が残るのに、背はもうだいぶ高い。黒髪は光を受けると紫を含んで見え、灰を帯びた瞳は、昔よりずっと落ち着いていた。


けれど、エリシアには分かる。


この弟は、外でどれほど立派に見えても、姉の前では未だに少しだけ可愛い。


テオドールは彼女の前に立つと、目線の高さを確かめるように一度だけ瞬きをした。


そして、ごく自然に手を伸ばす。


「……胸元のリボンが、ほんの少しだけ」


指先が、布の皺を整える。丁寧で、慎重で、妙に慣れている。次に、こめかみのあたりに残っていた細い寝癖を、指でそっと撫でつけた。


「朝の演算が重いと、こうなるんですよ、姉様は」


姉の癖をよく知る、親しみのこもった声だった。

こうして世話を焼かれるのも、初めてではない。


エリシアは少しだけ目を細めた。

テオドールの指先は、昔よりずっと器用になった。でも、姉を整えるときの慎重さだけは昔のままだ。見ていると、少し胸の奥がくすぐったくなる。


「ありがとうございます、テオ」


「いえ」


その一言のあと、彼はわずかに言いにくそうな顔をした。


「……今日も、姉様が職場に行かれるのなら、僕が付き添えればいいのに」


小さな声だった。けれど、エリシアには十分すぎるほど聞こえた。


「邪魔になるのは分かっています。義兄様がいらっしゃいますし、僕はまだ子供ですから」


「テオ」


「姉様、今朝も少し顔色が悪いです。昨夜も遅かったのでしょう」


心配がそのまま声に滲んでいた。


「僕が一緒にいられれば、机の上で眠ってしまう前にお茶も出せますし、書類も取り上げられます。姉様、時々、本当に無茶をなさるので」


「無茶ではありません。必要な計算です」


「その必要な計算が、一番危ないんです」


テオドールは少しだけ眉を寄せた。

姉を案じる気持ちが、そのまま顔に表れていた。


この子は昔から、私よりずっと大人だ。


「……では、帰ったらお茶を淹れましょう。姉様の好きな香草のものを」


「本当ですか」


「本当です」


「僕が淹れます。姉様には休んでいてほしいので」


「それでは、私の方が楽をしてしまいます」


「していいんです」


にっこりした。

完璧にきれいな笑顔だった。

弟として、安心するための顔。姉に心配をかけないための顔。もう、そういう顔を覚えてしまったのだと分かる。


エリシアは、少しだけ胸が痛んだ。

痛んだ理由は、まだうまく分類できない。

ただ、すこしだけ思う。


この子は昔から、私を甘やかすのが上手だ。


「帰ったら、少しだけ一緒にお茶を飲みましょう」


「はい」


「あなたが淹れてくれるなら、なお嬉しいです」


その言葉に、テオドールの顔が、ほんの一瞬だけ子どもに戻る。

それが見えたので、エリシアは少し満足した。弟は、やはりこうでなくては。

    *


神殿西棟へ続く、石畳の回廊だった。


石畳は、朝の光を受けてもなお冷たい。

神殿の廊下は完全に水平で、エリシアは過去に数百回、同じ床を歩いてきた。だから今日も、本来なら問題なく歩けるはずだった。


はずだったのだが。


左足が、ほんのわずかに止まる。


視線はまだ北部三区の共鳴波形に残っている。思考が身体より先に進みすぎていた。


次の一歩が遅れる。


「……っ」


体が傾いた。


その瞬間。


右側から手が来た。


あまりにも自然だったので、一瞬、自分から寄りかかったのかと思った。


違った。


ヴァレリウスだった。


彼は半歩だけ前に出ると、エリシアの腰へ軽く触れ、そのまま重心を戻す。引き寄せるでもなく、抱き留めるでもなく、“最初から何も起きなかった”みたいに。


完璧な補正だった。


エリシアは反射的に姿勢を戻す。


「……ありがとうございます」


振り向く。


ヴァレリウスがいた。


いつからいたのか、処理していなかった。

気づかなかったことが少し悔しい。


彼はいつも通り穏やかに笑っている。


まるで今の動作に何の意味もなかったみたいに。

たまたまそこに手があったから支えただけだ、とでも言うみたいに。


「踏み段があるわけじゃないよ」


声音まで穏やかだった。


失敗を指摘する響きが、まるでない。


「平らな床で転ぶのは、私の位置情報が更新されていないせいです」


「知っているよ」


即答だった。


あまりにも自然に返ってきたので、エリシアは少しだけ瞬きをする。


知っている。


つまり彼は、

エリシアが演算負荷で空間認識をずらすことを、歩行時に左足が遅れることを、重心が右へ流れることを、全部、前提として見ていたことになる。


(……観察精度が高い)


少し考えてから、もう一つ気づく。


彼の手は、もう腰にない。


必要な時間だけ支えて、すぐ離れていた。


それなのに。


触れられた場所だけ、熱が残っている気がした。


変だ。


接触時間は一秒未満だったはずなのに。


ヴァレリウスがこちらを見ていた。


その視線は昔から変わらない。

静かで、穏やかで、いつも少しだけ甘い。


見守る、という言葉が一番近い。


けれど最近、時々それだけでは説明できない。


例えば今みたいに。


エリシアが転びかけた瞬間、彼の手が来る速度は異常に速かった。


まるで。


倒れる前から、手を伸ばす準備をしていたみたいに。


「今朝は、少し重そうだね」


ヴァレリウスが、いつもの穏やかな声で尋ねた。

エリシアの答えを急かさず、静かに待っている。


「……北部三区の再検算をしていました」


「かなり念入りに?」


エリシアは数秒止まった。


「なぜ分かったんですか」


「君は考えすぎると、歩幅が浅くなる」


さらりと言う。


さらりと言う内容ではない。


エリシアは小さく沈黙した。


(……観察精度が、やはり高すぎる)


ヴァレリウスは少しだけ笑った。


その笑みは、公爵令息として社交界へ向ける完璧な笑顔より、ほんの少し柔らかい。


エリシア限定の表情だった。


「今日は私がいるから、壁にはぶつからないでね」


「……私はそんなに壁へ衝突していますか」


「昨日は二回」


「記憶にありません」


「そうだろうと思っていたよ」


困ったように笑う。


その声音が優しくて、エリシアは少しだけ視線を落とした。


胸の内側が、また変になる。


未分類ノイズ。


最近ずっと増えている。


後で考えよう。


いつもそう思って、

結局ひとつも分類できていないのだけれど。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ