泣き声、優先度高
虹色の霧が、地下聖堂の石床をゆっくり這っていた。
この場所は苦手だ、とエリシアは思う。
音が多い。
弟の泣き声。
大人たちの怒鳴り声。
神官の詠唱。
誰かが倒した器具の金属音。
全部が同時に耳へ入ってきて、脳の処理領域を無駄に圧迫する。
エリシアは目を閉じた。
整理する。
泣き声、優先度高。
怒鳴り声、低。
祈祷、実効性不明につき後回し。
雑音、除外。
よし。
目を開ける。
テオドールの魔核が大きくなって暴走していた。
かなり危険だった。
波形は乱れているし、出力も制御不能。普通なら、周囲がもっと冷静に対処していてもよさそうなのに、なぜか大人たちは全員取り乱している。
不思議だった。
泣いても数値は改善しないのに。
(所要時間の計算。あと四分から六分で臨界に達する)
早い。
神官たちはまだ祈っていた。
遅い。
エリシアは考える。
第一案——封印。
無理。
第二案——強制排出。
聖堂が壊れる。駄目。
第三案——再分配。
そこで、自分を計算式に入れる。
適合率、高。
容量、問題なし。
成功率——充分。
終わった。
解答が出ると安心する。
世界には「分からない状態」が多すぎる。けれど計算が終わると、急に全部が静かになる。
(テオ、泣かないで)
エリシアは歩き出した。
途中で誰かに肩を掴まれた気がしたが、優先度が低かったので外す。
神官が何か叫んでいた。
侍医も叫んでいた。
みんな忙しそうだな、と思った。
弟の前に膝をつく。
「大丈夫。……私、計算が得意だから」
胸に触れる。
熱い。
暴走した魔力で内部がめちゃくちゃになっている。でも構造は残っていた。壊れた時計でも歯車が残っていれば直せる。それと似ている。
「今テオの魔核の、大きくなりすぎた分だけ、私の空いている魔核領域に移してあげれば——うん、二人とも死なないで済むよ? ほら、これが一番『綺麗』な解決策でしょう?」
空気が止まった。
なぜか周囲が静かになる。
変だな、とエリシアは思う。
そんなに難しい話だっただろうか。
むしろ単純な部類だと思う。
誰かが「待ちなさい!」と叫んでいた。
別の誰かは青ざめていた。
ヴァレリウスがこちらへ走ってくる。
顔色が悪い。
どうしてだろう。
死にそうなのはテオドールの方なのに。
エリシアは少し考えたが、今は演算の方が優先だった。
実行する。
世界が、一瞬だけ、ずれた。
痛み、ではない。
何かを、自分の部屋へ引き取る感覚だった。
自分の部屋に、弟の余分な荷物を運び込むみたいな感じ。置き場所を作るために、自分のものを、奥へ奥へ押しやる。奥へ行ったものは、少し遠くなる。
音が、ぼやけた。
そして——色が、抜けた。
天井を這っていた虹色の霧が、ふいに、ただの灰色になった。白も、青も、金も、どこか遠くへ仕舞われたみたいに。
指先に触れる石の冷たさも、薄くなる。
でも、それだけ。
たぶん、すぐ戻る。そう思った。
テオドールの呼吸が安定していく。
乱れていた波形が整う。
(成功)
満足だった。
綺麗に収まった。
その直後、床が傾いた。
(……?)
地下聖堂の床は水平だったはずだ。
設計上、傾くのはおかしい。
数秒考えて、気づく。
(ああ。私が倒れてるのか)
納得した。
リソース配分を間違えたらしい。
自分に回す分をいつも後回しにする。だから時々こうなる。
慣れていた。
頬に石床の冷たさが来る——前に、何かに捕まった。
熱い。
びっくりするくらい熱い。
誰かの腕だった。
息が荒い。
鼓動が速い。
抱き締める力が強すぎる。
ヴァレリウスだ、と認識する。
どうしてそんなに慌てているんだろう。
エリシアには、そこが少し分からなかった。
テオドールは助かった。
計算も成功した。
問題は解決している。
なのに、ヴァレリウスだけが今にも泣きそうな顔をしている。
周囲では誰かが「奇跡だ」と言っていた。
違うのに、とエリシアはぼんやり思う。
別に奇跡ではない。
ちゃんと計算しただけだ。
最後に確認したのは、テオドールの安定した呼吸。
その次に認識したのは。
自分を抱くヴァレリウスの腕が、少し痛いくらい強かったことだった。




