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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
序章

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絶望という名の初恋

――この物語は、AIと二人三脚で書いています。骨組みや下書きをAIと相談しながら、感情や言葉の温度は作者が選びました。「AIと一緒に、優しいだけじゃない物語を」。そんな実験の記録でもあります。

この世に、神などいない。


そう確信したのは、十一の冬だった。


地下聖堂には、虹色の霧が満ちていた。

死に近い患者を隔離するための古い祭祀場。葬送にも用いられるその場所は、常に薄い霧に沈んでいる。光量を絞った魔力灯が石壁に淡く滲み、空間そのものを、水底の夢みたいに曖昧にしていた。


その霧の中で。


俺は、一人の少女を見ていた。


エリシア。


幼い頃から、俺の隣にいた少女。


神官が祈りを捧げていた。

侍医が怒鳴っていた。

誰かが泣いていた。


床には血が落ち、焼けた魔力の臭いが肺にまとわりつく。むせ返るような熱気の中で、それでも俺は、なぜか彼女から目を離せなかった。


テオドールが苦しんでいた。

彼女の弟だ。

幼い身体は暴走した魔核に侵され、呼吸のたびに喉の奥から濁った音が漏れていた。


誰の目にも、助からないように見えた。


——そのときだった。


エリシアの瞳から、何かが消えた。


決意ではない。


覚悟でもない。


もっと静かなものだった。


人間が生きているときに宿している熱のようなものが、音もなく引いていったのだ。


代わりに現れたものを、当時の俺はうまく理解できなかった。


ただ、美しいと思った。


冷たく。


精密で。


ぞっとするほど澄み切っていた。


まるで彼女だけが、別の法則で動き始めたみたいだった。


俺は知っていた。

彼女があの目をするときは、複雑な魔法陣を解いているときだ。

あるいは、膨大な術式を頭の中で組み替えているとき。


世界を数字として見ている顔だった。


けれど。


弟が死にかけている、この瞬間に。


彼女は同じ目をした。


「大丈夫」


その声だけが、不気味なほど穏やかだった。


泣き声も悲鳴も満ちた空間で、彼女だけが別の場所に立っているみたいだった。


「……私、計算が得意だから」


誰に向けた言葉だったのかは分からない。


弟へか。


周囲の大人へか。


あるいは、自分自身へか。


「今テオの魔核の、大きくなりすぎた分だけ、私の空いている魔核領域に移してあげれば——」


静かな声が続く。


授業の続きを話しているみたいに。


「うん、二人とも死なないで済むよ? ほら、これが一番『綺麗』な解決策でしょう?」


その瞬間、俺は走っていた。


考えるより早く。


身体だけが先に動いていた。


誰かの肩を突き飛ばし、神官を押しのけ、石床を蹴る。


止めなければならないと思った。


理由は分からなかった。


ただ、本能だけが叫んでいた。


間に合え、と。


だが。


間に合わなかった。


俺が辿り着いたときには、エリシアはすでに弟の胸へ手を置いていた。


空気が変わる。


いや。


空間そのものが、彼女を中心に組み替わっていく。


虹色の霧が反応した。

彼女の指先の周囲だけ、霧の流れが規則性を持ち始める。

術式が世界へ浸食していく光景だった。


美しかった。


吐き気がするほどに。


世界そのものが、彼女の演算を「正しい」と認めているように見えた。


テオドールの呼吸が静まっていく。

暴れていた魔力が鎮まり、空間を震わせていた不協和音が消えていく。


そして。


糸が切れるみたいに、エリシアの身体が崩れ落ちた。


俺は床に膝を打ちつけながら、彼女を抱き留めた。


軽かった。


恐ろしいほどに。


まるで最初から、人間の重さを持たされていなかったみたいに。


抱き上げた顔は白い。


ただ青白いのではない。


薄い磁器みたいな白だった。


皮膚の下を走る魔力回路の残光が、淡い燐光となって浮かび、ゆっくり消えていく。


開いた瞳は天井を映していた。


けれど、何も見ていない。


「エリシア」


返事はない。


「エリシア!」


かすかに、指先だけが動いた。


何かを書き終えようとするみたいに。


その頃になってようやく、周囲の大人たちが息を吐き始めていた。


「奇跡だ……」


「神のお導きか」


「あの令嬢は、なんと清らかな——」


その言葉を聞いた瞬間。


胸の奥で、何かが静かに焼けた。


奇跡。


神。


清廉。


違う。


何一つ、違う。


彼女は祈ってなどいなかった。


救済を願ったわけでもない。


ただ計算したのだ。


十一歳の少女が。


混乱の極致の中で。


複雑な魔核演算を一瞬で組み上げ、自分自身すら、躊躇なく式の一部へ組み込んだ。


崇高な自己犠牲などではない。


もっと、深刻だった。


彼女は、自分を犠牲だと思っていない。


空いている器があったから使った。ただ、それだけだ。


その事実に、たぶん俺は初めて気づいてしまった。


腕の中の少女は静かだった。苦痛に歪む様子すらない。

むしろその横顔には、演算を完了した安堵に似た静けささえあった。


怖かった。助かったはずなのに。


弟は息をしていて、暴走は止まり、大人たちは神に感謝している。


それなのに、俺の腕の中だけが冷えていくようだった。


この少女は、いつか本当に自分を使い潰す。


呼吸をするみたいに、当然のように、何の痛みもなく。


そして周囲はまた奇跡と呼ぶのだろう。


清らかだと。


尊いと。


美しいと。


彼女が自分を失くしたことに誰も気づかないまま。


胸の奥が軋んだ。


泣きたかったのかもしれない。怒鳴りたかったのかもしれない。けれど何一つ、声にならなかった。

十一歳の子供に、この感情を説明する語彙など存在しなかった。


ただ、焼けるような怒りと、それ以上に暗く冷たい確信だけがあった。


次は間に合う。必ず。


彼女が自分を勘定に入れないなら、俺が彼女を数える。


彼女が自分の痛みを軽く扱うなら、その痛みに相応の重さを与える。


彼女が自分さえ式に組み込むなら、俺だけは、そこに彼女自身がいるのだと忘れない。


誰よりも先に気づく。誰よりも遅くまで覚えている。


彼女が忘れた彼女自身を、俺だけは取り落とさない。


その細い身体を抱き締めながら、俺は静かに誓った。


——彼女を、二度と彼女自身のために欠けさせない。ひと欠片も、削らせない。


後になって、それに恋という名を与えることになる。けれど、あの夜の俺が抱いたものは、甘いものではなかった。

間に合わなかった熱。神と呼ばれるものへの嫌悪。彼女が自分を数えなかったことへの、暗い怒り。

そして、この世界の誰も彼女を人間として抱き留めないのなら、俺だけは抱き留めるという、救いようのない決意。


あれが、俺の恋の始まりだった。


そして同時に、痛みを抱え、彼女を放っておけなくなった俺の、長く、孤独で、引き返せない戦いの始まりでもあった。

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