絶望という名の初恋
――この物語は、AIと二人三脚で書いています。骨組みや下書きをAIと相談しながら、感情や言葉の温度は作者が選びました。「AIと一緒に、優しいだけじゃない物語を」。そんな実験の記録でもあります。
この世に、神などいない。
そう確信したのは、十一の冬だった。
地下聖堂には、虹色の霧が満ちていた。
死に近い患者を隔離するための古い祭祀場。葬送にも用いられるその場所は、常に薄い霧に沈んでいる。光量を絞った魔力灯が石壁に淡く滲み、空間そのものを、水底の夢みたいに曖昧にしていた。
その霧の中で。
俺は、一人の少女を見ていた。
エリシア。
幼い頃から、俺の隣にいた少女。
神官が祈りを捧げていた。
侍医が怒鳴っていた。
誰かが泣いていた。
床には血が落ち、焼けた魔力の臭いが肺にまとわりつく。むせ返るような熱気の中で、それでも俺は、なぜか彼女から目を離せなかった。
テオドールが苦しんでいた。
彼女の弟だ。
幼い身体は暴走した魔核に侵され、呼吸のたびに喉の奥から濁った音が漏れていた。
誰の目にも、助からないように見えた。
——そのときだった。
エリシアの瞳から、何かが消えた。
決意ではない。
覚悟でもない。
もっと静かなものだった。
人間が生きているときに宿している熱のようなものが、音もなく引いていったのだ。
代わりに現れたものを、当時の俺はうまく理解できなかった。
ただ、美しいと思った。
冷たく。
精密で。
ぞっとするほど澄み切っていた。
まるで彼女だけが、別の法則で動き始めたみたいだった。
俺は知っていた。
彼女があの目をするときは、複雑な魔法陣を解いているときだ。
あるいは、膨大な術式を頭の中で組み替えているとき。
世界を数字として見ている顔だった。
けれど。
弟が死にかけている、この瞬間に。
彼女は同じ目をした。
「大丈夫」
その声だけが、不気味なほど穏やかだった。
泣き声も悲鳴も満ちた空間で、彼女だけが別の場所に立っているみたいだった。
「……私、計算が得意だから」
誰に向けた言葉だったのかは分からない。
弟へか。
周囲の大人へか。
あるいは、自分自身へか。
「今テオの魔核の、大きくなりすぎた分だけ、私の空いている魔核領域に移してあげれば——」
静かな声が続く。
授業の続きを話しているみたいに。
「うん、二人とも死なないで済むよ? ほら、これが一番『綺麗』な解決策でしょう?」
その瞬間、俺は走っていた。
考えるより早く。
身体だけが先に動いていた。
誰かの肩を突き飛ばし、神官を押しのけ、石床を蹴る。
止めなければならないと思った。
理由は分からなかった。
ただ、本能だけが叫んでいた。
間に合え、と。
だが。
間に合わなかった。
俺が辿り着いたときには、エリシアはすでに弟の胸へ手を置いていた。
空気が変わる。
いや。
空間そのものが、彼女を中心に組み替わっていく。
虹色の霧が反応した。
彼女の指先の周囲だけ、霧の流れが規則性を持ち始める。
術式が世界へ浸食していく光景だった。
美しかった。
吐き気がするほどに。
世界そのものが、彼女の演算を「正しい」と認めているように見えた。
テオドールの呼吸が静まっていく。
暴れていた魔力が鎮まり、空間を震わせていた不協和音が消えていく。
そして。
糸が切れるみたいに、エリシアの身体が崩れ落ちた。
俺は床に膝を打ちつけながら、彼女を抱き留めた。
軽かった。
恐ろしいほどに。
まるで最初から、人間の重さを持たされていなかったみたいに。
抱き上げた顔は白い。
ただ青白いのではない。
薄い磁器みたいな白だった。
皮膚の下を走る魔力回路の残光が、淡い燐光となって浮かび、ゆっくり消えていく。
開いた瞳は天井を映していた。
けれど、何も見ていない。
「エリシア」
返事はない。
「エリシア!」
かすかに、指先だけが動いた。
何かを書き終えようとするみたいに。
その頃になってようやく、周囲の大人たちが息を吐き始めていた。
「奇跡だ……」
「神のお導きか」
「あの令嬢は、なんと清らかな——」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で、何かが静かに焼けた。
奇跡。
神。
清廉。
違う。
何一つ、違う。
彼女は祈ってなどいなかった。
救済を願ったわけでもない。
ただ計算したのだ。
十一歳の少女が。
混乱の極致の中で。
複雑な魔核演算を一瞬で組み上げ、自分自身すら、躊躇なく式の一部へ組み込んだ。
崇高な自己犠牲などではない。
もっと、深刻だった。
彼女は、自分を犠牲だと思っていない。
空いている器があったから使った。ただ、それだけだ。
その事実に、たぶん俺は初めて気づいてしまった。
腕の中の少女は静かだった。苦痛に歪む様子すらない。
むしろその横顔には、演算を完了した安堵に似た静けささえあった。
怖かった。助かったはずなのに。
弟は息をしていて、暴走は止まり、大人たちは神に感謝している。
それなのに、俺の腕の中だけが冷えていくようだった。
この少女は、いつか本当に自分を使い潰す。
呼吸をするみたいに、当然のように、何の痛みもなく。
そして周囲はまた奇跡と呼ぶのだろう。
清らかだと。
尊いと。
美しいと。
彼女が自分を失くしたことに誰も気づかないまま。
胸の奥が軋んだ。
泣きたかったのかもしれない。怒鳴りたかったのかもしれない。けれど何一つ、声にならなかった。
十一歳の子供に、この感情を説明する語彙など存在しなかった。
ただ、焼けるような怒りと、それ以上に暗く冷たい確信だけがあった。
次は間に合う。必ず。
彼女が自分を勘定に入れないなら、俺が彼女を数える。
彼女が自分の痛みを軽く扱うなら、その痛みに相応の重さを与える。
彼女が自分さえ式に組み込むなら、俺だけは、そこに彼女自身がいるのだと忘れない。
誰よりも先に気づく。誰よりも遅くまで覚えている。
彼女が忘れた彼女自身を、俺だけは取り落とさない。
その細い身体を抱き締めながら、俺は静かに誓った。
——彼女を、二度と彼女自身のために欠けさせない。ひと欠片も、削らせない。
後になって、それに恋という名を与えることになる。けれど、あの夜の俺が抱いたものは、甘いものではなかった。
間に合わなかった熱。神と呼ばれるものへの嫌悪。彼女が自分を数えなかったことへの、暗い怒り。
そして、この世界の誰も彼女を人間として抱き留めないのなら、俺だけは抱き留めるという、救いようのない決意。
あれが、俺の恋の始まりだった。
そして同時に、痛みを抱え、彼女を放っておけなくなった俺の、長く、孤独で、引き返せない戦いの始まりでもあった。




