俺の設計した地獄
俺はその光景を、一瞥した。
信仰が反転したのではない。
もともとそこにあったものが、目に見える形を得たのだ。
俺は、この男の胸の内を知っているわけではない。だが、見れば分かることがある。冒涜者を裁くために来た男は、石床へ膝をつかない。「アステリア様」と、エリシアに向かって呼ばない。
第三の聖域の報告から今日まで、イグナティウスが何を期待し、何を恐れていたのか。俺には、足取りと手配から推測することしかできない。それでも、目の前で開いた六層の万華鏡が、あの男の中の何かを決定的に傾けたことだけは分かった。
俺の、大叔父にあたる男だ。ラインハイトの血を分けた一族の者が、今、女神の幻に膝を折っている。
この男が、政の真実を知っていることは分かっている。国と神殿のほんとうの上下も、この聖域が誰の手の内にあるかも。知った上でなお、女神だけは本物だと信じていることも、これまでの振る舞いで嫌というほど見てきた。
だから、今ここで起きたことが、イグナティウスの中で何に変わったのか。完全には分からない。
だが、膝と声が、答えを告げていた。
エリシアの凄絶な演算は、少なくともあの男の目には、もはや人の業ではなかった。
怒りは、ない。勝利の感触も、ない。ただ、冷えた計算だけが、残った。
(本物の器として見たなら、もう粗末な刃では触れられない)
(丁重に、完璧に、世界の理へ捧げるために——あなたは、彼女を奪いに来る)
俺が必要に迫られて組んだ地獄は、まだ終わっていない。
俺がしたのは、見る場所を用意したことだけだ。あとは、この男自身の信仰が坂を転がった。止まらないところまで。
イグナティウスが、震える手は組まれたままにゆっくりと頭を上げる。
その目が——エリシアを見ていた。
「冒涜者を裁く」という建前は、もう跡形もないように見えた。今その目に映るのは、世界を昇華させる唯一無二の、神聖な器としてのエリシア——そのようにしか、俺には見えなかった。
それで、充分だ。
地獄の入口が、次へ向かって開いた。開かせたくて開いた扉ではない。それでも、あの男を止めるには、ここを通すしかなかった。
*
馬車に乗った。
旧都の石畳の上を、車輪が重く鳴る。窓の外に、今日くぐった暗い森が、夕暮れの中で輪郭を失っていく。狭い車内へ、秋の始まりの気配が、窓の隙間から少しだけ入ってきた。
今日も——隣に座った。
第三の聖域のとき、初めて、向かいではなく隣に座った。彼女は「あ」という顔をして、それから何も言わなかった。
今日は——「あ」という顔を、しなかった。
(……習慣になっているのか)
ほんの短い間、それを確かめた。俺が隣に座ることが、エリシアの中で、もう「想定の内」になっている。
胸の奥が、静かにほどける。俺が隣にいることを、彼女が身構えずに受け入れている。その些細な変化が、どうしようもなく嬉しい。
彼女が蜜豆を取り出した。一粒、口へ入れる。
甘い、という顔をする。
正確に、甘い、という顔だ。バングルが働いている証拠だ。今日の最大の出力のあとでも、繋がりは切れていない。
「……枢機卿が膝をつきました」
「うん、見ていたよ」
「あれは——分類できません」
「今は分類しなくていい」
「でも」
「急がなくていいよ」
静かに、言った。
「分かるようになったときに、分かればいいよ」
エリシアが、もう一粒、食べた。考えている顔だ。
俺は、彼女の左手を見た。
膝の上に置かれた指先が白い。今日は第三の聖域より、ずっと深かった——六層の全量が流れた分、末端が後回しになっている。
俺は、その左手を取った。
両手で、包んだ。
エリシアが——止まった。
蜜豆を口へ運ぶ手が、空中でふっと止まる。それから、何事もなかったように、そのまま蜜豆を口に入れた。引かなかった。
(引かなかった)
左の手首には、バングル。その同じ左手を、今、俺の両手が包んでいる。内側から来る熱と、外側から来る熱が、一つの手の上で重なった。
第三の聖域のときも、包んだ。あのときは廊下だった。今日は、馬車の中だ。肩の触れる距離で。隣で。
エリシアは、窓の外を見ている。
「ヴァレリウス」
「うん?」
「旧都の聖域、六重でした」
「知っていたよ」
少し、止まった。「……知っていたんですか」
「うん。可能性として計算していた。だから、最初から一緒に来た」
「それは——私が一人で対処できないと思っていたから、ですか」
「できると思っていたよ」
俺は、包んでいる左手を、一度だけ、少し強く握った。
「ただ——隣にいたかった。それだけだよ」
かつて同じ言葉で、嘘の輪郭を隠したことがある。「それだけだよ」と。今日のこれは、嘘ではない。何ひとつ、混ぜていない。
エリシアが、窓の外を見たまま、止まった。
しばらく、静かだった。
「……そうですか」
それだけ言って、また蜜豆を食べた。
引かなかった。
馬車が、旧都の石畳を離れる。左腕の痛みが、落ち着いた水準へ戻っていく。最大値の過ぎたあとの、静かな余韻だ。窓の外で、夕日が落ちかけていた。バングルの石と、同じ赤だ。
今日、枢機卿が自分の足で踏み込んだ地獄の扉が、背後で静かに閉じた。
(エリシアに、話さなければならないことがある)
もう、すぐだ。
隣の肩が、微かに、俺の腕へ触れていた。
気づいているのか、いないのか——どちらでも、構わない。
エリシアが生きていて、蜜豆を食べて、手を引かずにいる。
その事実だけで、今夜の俺には、充分だった。




