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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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扉一枚

秋が、深い。


エリシアを救うと決めた初冬の日から、季節はひと巡りしかけていた。葉が落ちきる前に終わらせる。何度も、そう自分に言い聞かせてきた。


彼女は、俺がその日から今日までをひとり積み重ねてきたことを知らない。


俺が何を写し取り、何を肩代わりし、どこへ向かっているのかも知らない。


知らせないと決めたのは俺だ。彼女に背負わせないためだと、自分に言い聞かせてきた。


それなのに、初冬が近づくほど、その隔たりが刃になる。


枢機卿(すうききょう)の次の動きが見えたのは、深夜だった。


信者貴族たちが動くことは、二日前から知れていた。報せてくる伝手は一つではない。確かな報せが届いた瞬間、足元に斥力を敷いた。魔力と物質の反発が石畳を噛み、体が音もなく前へ滑り出す。造光(ぞうこう)が共鳴の線と擦れて、左耳が熱を持つ。


構わない。


間に合えばいい。


アルスタ伯爵邸の門前に着いたのは、それから三十分ほど経った頃だった。


応対に出た老執事が、公爵子息の深夜の来訪に一瞬だけ目を止めた。緊急の用がある。令嬢への報告を要する。明朝まで邸内で待たせてほしい。そう告げると、執事は口を開きかけ、閉じた。


公爵家の名。

婚約者という立場。

そして、俺の顔。


その三つが、それ以上の言葉を封じた。


重い絨毯(じゅうたん)の廊下を案内させ、エリシアの私室の扉の前で足を止めた。執事には、呼べば届く場所で待機するよう伝えた。


扉の向こうに、彼女がいる。


手を伸ばせば届く距離にいる。


けれど、扉一枚を越えることはできない。令嬢の部屋の前で夜を明かすことですら、十分に常識外れだ。中へ踏み込めば、守るための線を俺自身が踏み荒らす。


だから、扉の外に立った。


信仰に呑まれた者たちが、予測のつかない動きをする夜だ。万が一に備え、背中を壁に預けず、足元の感触を確かめたまま、夜明けを待った。


    *


朝が来た。


私室の扉が、内側から開いた。


紫銀の髪が、今朝は解かれていた。ゆるやかに波打って背に流れている。白い朝の光に溶けて、銀が強く出ていた。魔力の波長を映す髪だ。今朝は少し、波長が乱れている。


アメジストの瞳が俺を見て、止まった。


いつもより色が濃い。演算に深く沈んでいるとき、彼女の瞳はこういう色を帯びることが多い。長く隣にいたぶん、そういう変化だけは拾える。


(昨夜も、よく眠れなかったか)


「ヴァレリウス? こんな朝早くに、どうしたんですか」


「昨夜から来ていたよ」


エリシアが、一瞬だけ考え込んだ。昨夜から。その意味を量りかねて、けれど量りきる前に問うのをやめた顔だった。


「……朝食、よければ一緒にとりますか?」


「ありがとう」


招かれた。


それで、やっと扉の内側へ入る理由ができた。


朝食室の向かいに腰を下ろし、俺は茶だけを頼んだ。エリシアが食事をとる間に、テオドールからの手紙が届いていた。「元気です」と返事を書いている横顔を、湯気越しに見る。


(嘘をついているな)


弟に心配をかけまいとする、不器用で優しい嘘だ。指摘はしなかった。今朝くらいは、その嘘を壊したくなかった。


朝食が終わる頃に言った。


「今日は神殿へは行かないでくれるかな」


エリシアが視線を上げた。


「……午前に、調律の実務が予定されています」


「使いが来るよ」


「わかりました。あなたがそう言うなら」


それで足りた。


彼女はすぐに納得する。正しい前提さえ渡せば、たいてい正しい答えに辿り着く。問題は、俺がその前提を、半分しか渡していないことだ。


    *


貴族たちが来たのは、朝の光が柔らかくなった頃だった。


取り次ぎを受けて、エリシアが玄関ホールへ向かった。


俺は半歩遅れて続いた。すぐ隣には並ばない。玄関ホールへ続く廊下の入口で足を止め、まず相手の顔を見た。


「エリシア伯爵令嬢、このたびはご連絡もなく、大変失礼いたしました。実は令嬢のご健康を案じまして、より安全な場所でお過ごしいただければと……」


口上が始まった瞬間に、読めた。


三人の目の奥が、エリシアを見ていない。人を見る目ではない。物の置かれた場所を確かめる、静かで正確な視線だ。


エリシアが聞きながら、角の立たない断り方を探している。


そこで廊下の影から出て、エリシアの少し後ろへ進み出た。


「お引き取り願おうか」


それだけで充分だった。


三人は、俺の声ではなく、俺がここにいる意味を理解した。公爵家の婚約者が、伯爵邸の内側で、令嬢の背後に立っている。その意味を、社交を知る者なら読み違えない。


    *


十分後、エリシアと二人きりになった。


「どうして、彼らが今日この邸に来るとわかったんですか」


「昨日から来ると思っていた」


「……なぜ」


答えなかった。理由を渡せば、彼女はそこへ手を伸ばす。


「腕を」


左の手首を取った。


バングルの具合を見る。それは本当だ。だが、それだけではない。


指先に、ほんのわずかだけ造光を通す。


皮膚の温度。脈の波。生光(せいこう)と刻光(こくこう)と造光が交わる、エリシアだけの光。それを、少しずつ、少しずつ写し取っていく。


これは確認ではない。


バングルの具合を見るという口実の奥で、俺は彼女の命の輪郭に触れている。同意を得たとは言えない。守るためだと何度言い聞かせても、盗みに近い。


それでも、やめない。


これだけが、彼女を生かす唯一の道だ。


エリシアを救うと決めた、あの日から積み上げてきた。細い手首の下で、世界そのものが脈打っている。俺はそれを知っている。だから、誰かの祈りの代償にはさせない。


命の写しは、まだ九十二パーセント。


完成にはまだ足らない。


「宮廷への召喚状が来る」


そう告げると、エリシアが話を聞く顔に切り替わった。


手首を離す前に、バングルの石を見た。


一瞬だけ、赤が濁った。


夜通しの斥力の負荷が、まだピアスに残っている。いつもの疼きに、移動の衝撃が重なった。今朝は少し、無理をした。


エリシアは石を見た。気づいたのかもしれない。けれど問いにはならなかった。


説明しない。いま渡せる言葉は、どれも彼女の重荷になる。

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