扉一枚
秋が、深い。
エリシアを救うと決めた初冬の日から、季節はひと巡りしかけていた。葉が落ちきる前に終わらせる。何度も、そう自分に言い聞かせてきた。
彼女は、俺がその日から今日までをひとり積み重ねてきたことを知らない。
俺が何を写し取り、何を肩代わりし、どこへ向かっているのかも知らない。
知らせないと決めたのは俺だ。彼女に背負わせないためだと、自分に言い聞かせてきた。
それなのに、初冬が近づくほど、その隔たりが刃になる。
枢機卿の次の動きが見えたのは、深夜だった。
信者貴族たちが動くことは、二日前から知れていた。報せてくる伝手は一つではない。確かな報せが届いた瞬間、足元に斥力を敷いた。魔力と物質の反発が石畳を噛み、体が音もなく前へ滑り出す。造光が共鳴の線と擦れて、左耳が熱を持つ。
構わない。
間に合えばいい。
アルスタ伯爵邸の門前に着いたのは、それから三十分ほど経った頃だった。
応対に出た老執事が、公爵子息の深夜の来訪に一瞬だけ目を止めた。緊急の用がある。令嬢への報告を要する。明朝まで邸内で待たせてほしい。そう告げると、執事は口を開きかけ、閉じた。
公爵家の名。
婚約者という立場。
そして、俺の顔。
その三つが、それ以上の言葉を封じた。
重い絨毯の廊下を案内させ、エリシアの私室の扉の前で足を止めた。執事には、呼べば届く場所で待機するよう伝えた。
扉の向こうに、彼女がいる。
手を伸ばせば届く距離にいる。
けれど、扉一枚を越えることはできない。令嬢の部屋の前で夜を明かすことですら、十分に常識外れだ。中へ踏み込めば、守るための線を俺自身が踏み荒らす。
だから、扉の外に立った。
信仰に呑まれた者たちが、予測のつかない動きをする夜だ。万が一に備え、背中を壁に預けず、足元の感触を確かめたまま、夜明けを待った。
*
朝が来た。
私室の扉が、内側から開いた。
紫銀の髪が、今朝は解かれていた。ゆるやかに波打って背に流れている。白い朝の光に溶けて、銀が強く出ていた。魔力の波長を映す髪だ。今朝は少し、波長が乱れている。
アメジストの瞳が俺を見て、止まった。
いつもより色が濃い。演算に深く沈んでいるとき、彼女の瞳はこういう色を帯びることが多い。長く隣にいたぶん、そういう変化だけは拾える。
(昨夜も、よく眠れなかったか)
「ヴァレリウス? こんな朝早くに、どうしたんですか」
「昨夜から来ていたよ」
エリシアが、一瞬だけ考え込んだ。昨夜から。その意味を量りかねて、けれど量りきる前に問うのをやめた顔だった。
「……朝食、よければ一緒にとりますか?」
「ありがとう」
招かれた。
それで、やっと扉の内側へ入る理由ができた。
朝食室の向かいに腰を下ろし、俺は茶だけを頼んだ。エリシアが食事をとる間に、テオドールからの手紙が届いていた。「元気です」と返事を書いている横顔を、湯気越しに見る。
(嘘をついているな)
弟に心配をかけまいとする、不器用で優しい嘘だ。指摘はしなかった。今朝くらいは、その嘘を壊したくなかった。
朝食が終わる頃に言った。
「今日は神殿へは行かないでくれるかな」
エリシアが視線を上げた。
「……午前に、調律の実務が予定されています」
「使いが来るよ」
「わかりました。あなたがそう言うなら」
それで足りた。
彼女はすぐに納得する。正しい前提さえ渡せば、たいてい正しい答えに辿り着く。問題は、俺がその前提を、半分しか渡していないことだ。
*
貴族たちが来たのは、朝の光が柔らかくなった頃だった。
取り次ぎを受けて、エリシアが玄関ホールへ向かった。
俺は半歩遅れて続いた。すぐ隣には並ばない。玄関ホールへ続く廊下の入口で足を止め、まず相手の顔を見た。
「エリシア伯爵令嬢、このたびはご連絡もなく、大変失礼いたしました。実は令嬢のご健康を案じまして、より安全な場所でお過ごしいただければと……」
口上が始まった瞬間に、読めた。
三人の目の奥が、エリシアを見ていない。人を見る目ではない。物の置かれた場所を確かめる、静かで正確な視線だ。
エリシアが聞きながら、角の立たない断り方を探している。
そこで廊下の影から出て、エリシアの少し後ろへ進み出た。
「お引き取り願おうか」
それだけで充分だった。
三人は、俺の声ではなく、俺がここにいる意味を理解した。公爵家の婚約者が、伯爵邸の内側で、令嬢の背後に立っている。その意味を、社交を知る者なら読み違えない。
*
十分後、エリシアと二人きりになった。
「どうして、彼らが今日この邸に来るとわかったんですか」
「昨日から来ると思っていた」
「……なぜ」
答えなかった。理由を渡せば、彼女はそこへ手を伸ばす。
「腕を」
左の手首を取った。
バングルの具合を見る。それは本当だ。だが、それだけではない。
指先に、ほんのわずかだけ造光を通す。
皮膚の温度。脈の波。生光と刻光と造光が交わる、エリシアだけの光。それを、少しずつ、少しずつ写し取っていく。
これは確認ではない。
バングルの具合を見るという口実の奥で、俺は彼女の命の輪郭に触れている。同意を得たとは言えない。守るためだと何度言い聞かせても、盗みに近い。
それでも、やめない。
これだけが、彼女を生かす唯一の道だ。
エリシアを救うと決めた、あの日から積み上げてきた。細い手首の下で、世界そのものが脈打っている。俺はそれを知っている。だから、誰かの祈りの代償にはさせない。
命の写しは、まだ九十二パーセント。
完成にはまだ足らない。
「宮廷への召喚状が来る」
そう告げると、エリシアが話を聞く顔に切り替わった。
手首を離す前に、バングルの石を見た。
一瞬だけ、赤が濁った。
夜通しの斥力の負荷が、まだピアスに残っている。いつもの疼きに、移動の衝撃が重なった。今朝は少し、無理をした。
エリシアは石を見た。気づいたのかもしれない。けれど問いにはならなかった。
説明しない。いま渡せる言葉は、どれも彼女の重荷になる。




