女神の花が、灰になる
エリシアが台に触れた。
空間全体が、鳴動とともに反転する。
これまで見てきた聖域と、深さの桁が違った。光が「満ちる」のではない。旧都の聖域を成す空間そのものが、質量を失って、純粋な光の媒体へと変わっていく。
剥き出しになったのは、この国の歪んだ美しさの正体——始原の調律体系の骨組みだった。
始祖アステリアの遺した術式は、経年で朽ちるような柔なものではない。だが、あまりに完璧に統べられ、一分の遊びもない。常に綱渡りの均衡を強いる、不完全な被膜だ。徹底して管理され、縛られた国政という歪な平穏があっても「滲み」は防げない。年に一度の痛みを伴う調律で破綻をようやく防げる。ユートピアの皮を被ったディストピアの、何百年も隠されてきた心臓の鼓動が、そこにあった。
その心臓へ、今、エリシアの知性が触れようとしている。
繋がりが、轟音を立てて限界を振り切った。
(——これが、旧都の六層か)
数か月、体の一部になっていた低い痛みが、津波になって俺の左半身を呑み込む。
彼女の魔核が、自らの限界を削りながら、全てを開け放っていく。その奔流が、石の道を伝って、俺の左腕から皮膚へ、肉へ、魔核の芯へと、まっすぐ突き刺さる。熱い、などという生易しいものではない。煮えた銀を、血管に流し込まれているようだった。
だが、視線は彼女から離さない。
エリシアの頭上高く、空間を覆い尽くす規模で、淡く精緻な魔法陣が——彼女の魔核の「光衣」が、巨大なドームの天蓋として開いた。
これまでの聖域とは比べ物にならない。六重のフラクタル。世界の理そのものを書き換える万華鏡の術式が、網の目のように旧都の天井を覆っていく。
天蓋の陣が、強烈な吸引を生む。台の奥底から、女神が遺した不完全な「光の結び目」が、ほどかれながら、一気に頭上へ引き上げられていく。
瞬間、封じを解かれた原始の魔力——全国土を圧し潰しかねない、あの狂暴な「素の魔力」の滲みが、制御を失って濁流のように吹き荒れた。
その奔流を、エリシアは頭上の光衣の陣を受け皿に、自らの魔核で直に受け止め、光の架け橋へと変えながら、瞬時に、自分の編んだ新しい被膜で覆い直していく。
一本の太い光を成す、数えきれないほどの細い糸。その一本一本を、極小の陣で噛み合わせ、裂けた被膜へ針を通すように縫い直していく。
祈りよりも静かで、織物よりも精密な、常軌を逸するほどの縫合作業だった。
その超絶の余波として、光衣の陣からこぼれ落ちた三色の残光——生光と、刻光と、造光が、雨のように彼女の周りへ降り注いだ。
次の瞬間、彼女の周囲で、信じがたいことが起きた。
蔓が芽吹き、伸び、葉を広げる。
旧都の聖域へ至る秋の道で、いつのまにか彼女の裾や紫銀の髪に絡んでいた、無数の種。それらが、降り注いだ原始の光に触れた瞬間——爆発的に、時を駆けた。
アステリアの花だった。
三色の魔力が交わる地にしか芽吹かない、女神の花。よりにもよって、その種が、彼女に付いてきていた。
細い光の蔓が、現実の時を無視して、エリシアの全身を、足元の床ごと、半径六十センチを、一瞬で覆い尽くす。そして、咲いた。白。金。青紫。三弦の花が、いっせいにひらく。
そして——肌に触れるほど近くにだけ、アメジストの花が咲いた。
彼女の瞳と、寸分たがわぬ色で。
ほんの一瞬、世界で最も美しく、最も儚い花嫁の衣のように、咲き誇る花々が、彼女を飾った。
息を呑むような、光景だった。
だが、それは——死へ向かう、超加速だった。
数秒で生を使い切った花々は、次の瞬間、いっせいに茶へ枯れ、縮み、そして——
音もなく、白い灰になって、崩れ落ちた。
彼女の足元に、半径六十センチの、死が、白く積もっていく。
(——アステリアの花が、灰になる)
女神の花が、女神の器にされかけている娘の足元で、咲いて、死ぬ。
その意味を、俺は、見たくなかった。
(——止めろ)
内側で、声が絶叫した。左耳のピアスが、目の眩むほどの輝きを放ち、限界を超えた熱で、頭蓋の芯まで焼き切ろうとする。奥歯を噛む。口の中に、血の味が広がった。
それでも、動かない。一歩も引かない。彼女がこの地獄の底で、たった一人、世界の神経を縫い合わせているなら——俺に受け止められる痛みは、俺が引き受ける。
第五結節。そして、第六結節。
エリシアの指先が、万華鏡の最後の一本を、完璧な結び目へと編み込んだ。
光が、アメジストになった。
三色が一つに溶け合い、旧都の黒い石壁が、境界を失ったように、その紫の光を照り返す。何百年ものあいだ無理な補正を強いられてきた石が、深く、長い、歓喜のような鳴き声を上げ始めた。
地盤の底から響く共鳴が、ゆっくりと引いていく。
静寂が、戻ってきた。
「……終わった」
エリシアの声がした。
左腕の重さが、消えた。
*
俺は一度、左耳に指を当てた。熱い。石が、まだ疼いている。
それでいい。それが、いい。
バングルは正しく働いた。エリシアは成し遂げた。今日の六層を、彼女は一人でやり切った。彼女が術式で受ける痛みを、俺も受け取った。
そのとき、エリシアの目が、こちらへ向いた。
俺が左耳に当てた指を、見ている。
その顔から、すっと、いつもの分析が抜けた。代わりに浮かんだのは——困惑でも、罪悪感でもない。もっと、生のものだった。自分のことなら眉ひとつ動かさない彼女が、俺の痛みの気配にだけ、こんな顔をする。
(——届いたか)
自分が世界の傷を縫う痛みは、作業の内側へ押し込む。だが、その痛みが俺へ流れていることには耐えられない。彼女の中で、何かが軋んでいる。自分だけを最後に回すあの当たり前に、初めて罅が入ったのだと思った。
俺は、何も言わなかった。今はまだ、言葉を急がせない。
「——アステリア様」
声がした。
振り向く。
枢機卿イグナティウスが、旧都の石床に、膝をついていた。
長い指が組まれ、白い法衣が、アメジストの余韻の中で輝いている。頭が、深く下がっていた。




